ぼやきくっくりFC2版

主婦の時事ネタぼやきFC2版。本館はhttp://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/

外国人から見た日本と日本人(20)

クリックお願いします人気blogランキングへご面倒でなければこちらも→FC2 blogランキングへ
【こちらはミラーです。コメントは本館へお願いします。TBは受け付けています(承認制。本記事と無関係な物は削除します)。
本館はこちら→http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/
読者様向け掲示板もどうぞご活用下さい(^o^)】


 このシリーズの一覧(人物名と国名)を作ってあります。
 【一覧】外国人から見た日本と日本人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「外国人から見た日本と日本人」。第20弾です。
  
 今回も有名な人、さほど有名でない人、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 
イザベラ・バード=イギリス人。1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。当時の女性としては珍しい旅行家で、世界の広範な地域を旅行。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、朝鮮にも旅行している。
「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」より
日清戦争についての記述


 一八九四年九月一五日の午後、左将軍(清国軍の将軍)は奉天出発時の五〇〇〇人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった軍を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向かってジグザグにくだり、そして門からおそらく三〇〇ヤードと離れていないところで斃〈たお〉れたのである。

 朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃撃に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
  <奉天師団総司令官左宝貴ここに死す。>

 またべつの面にはこうも記してある。
  <平壌にて日本軍と戦うも、戦死。>
 敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。

〈中略〉城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者一六八名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細かな看護を受けた。

エセル・ハワード=イギリス人。1865年(慶応元年)生まれ。1895年(明治28年)ドイツ皇帝のウイルヘルム二世の皇太子と弟妹の英語の家庭教師となる。1901年(明治34年)来日し島津家へ入り、30代当主・忠重公と4人の弟たちの家庭教師を1908年(明治41年)まで務めた。
「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」(1918年出版)より

 屋敷(引用者注:ハワードが7年間暮らした永田町の島津邸)の回りには広々とした気持ちのよい庭があったが、芝生は枯れきっていて、花壇は一つもなかった。この庭は家具同様に、子供向きに設計され、もっぱら気晴らしの場としてつくられたものだった。その隣には鞍馬やブランコのある大きな運動場があった。

 ある朝、窓から外をのぞくと、芝生のあちこちに数人の背の低い老婆たちがいるのが目に入った。彼女たちは青い木綿の手拭いを頭に巻いていたが、それは色褪せた青い着物とよく釣り合っていた。そして、膝をついたまま、笑ったりお喋りしたりしていた。一体全体、何をしているのだろうと私は思った。彼女たちは草取りで、めいめい鋏(はさみ)を持ち、草を刈ったり雑草をむしったりしているのだとわかった。後で聞いたことだが、日本では草取りを年取った女たちの仕事に任せるのがごく当たり前のことで、まるで遊んでいて、何も仕事をしていないように見えたが、そう思ったのは間違いだったと悟った。彼女たちの仕事の出来映えは、まるで魔法を使ったかのように見事だった。

 よく注意してみると、仕事に対するこの一風変わった態度は、日本人の国民性であり、路上や建物内やその他の造営物の中で働く人々全部が、ただぶらぶらしたり、ぼんやりして怠けたりしているように見えた。東京に高架鉄道が建設されることになったとき、私はその仕事振りをみて、一体いつになったらでき上がるのだろうかと思った。しかし、しばらくするうちにわかったことは、進捗は遅々たるものであっても、結果は良好であり、いつまでたってもできそうにないと思ってがっかりした後で、ある朝起きてみると、全く突如として、予期もしなかったうちにでき上がってしまっているのである。

 この年取った草取り婆さんの場合も同じことだった。その賃金は微々たるものだったが、お茶や煙草は飲み放題になっていたので、食事代わりにしているのではないかと思ったほどだった。

朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 当時朝鮮は日本の植民地になったおかげで、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信、電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城(けいじょう=現ソウル)は、おちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。

 日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった。これはなんでもないように見えるかもしれないが、独立後の南韓(韓国)・北朝鮮における思想統制とそこからくる国民一般の恐怖感と比べるとき、かえって南北朝鮮人は終戦後の独立によって、娑婆の世界から地獄に落ち込んだのも同然であった。

朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 日本は韓国合併後、1916年の京城高等工業を手始めに高等商業、法学専門、京城師範、京城女子師範、医学専門、歯学専門、薬学専門、水原高農、鉱山専門等を矢継ぎ早に設立し、1924年には京城帝国大学を設立した(当時、日本の帝大は全国で東京、京都、福岡、仙台、札幌の5校のみであった)。

 ちなみに終戦後、1946年に米軍政下で設立されたソウル大学は、日帝時代に日本の技術と資本で建てられ、日本人教授らによって運営された、上記の学校を一つにまとめて朝鮮初の総合大学に仕上げたものであり、それまでに理工系の高等教育機関は皆無に等しかった。これを見るとき、韓国の教育の淵源は日本にあったと言って過言でない。

 総督府が設立したこれら高等教育機関が輩出した卒業生達が、朝鮮近代化の尖兵となったのは議論の余地がない。卒業生中、日本人に対する朝鮮人の比率はたいてい20%前後にすぎなかった。

 朝鮮人は終戦と同時に朝鮮在住日本人全員(推計80万人、全人口の約3パーセント)の全財産を没収して日本に追い払った。これは法的にも、社会的にも、経済的にも、暴挙の極みだったと僕は思っている。しかし当時の(今も同じことだが)朝鮮人の知能と徳能から、これ以上を期待するのは無理であろう。

 今彼らの全財産を没収するのは小気味よいかもしれないが、それは後で大きなタタリとなって返ってくるはずだ。(終戦から)5年後に起こった朝鮮戦争もそのツケの一部であるかもしれない。

朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 朝鮮人の名前を見ただけでは、日本人と区別がつかないようにしようとしたのが、南総督(南次郎総督=昭和11~17年)の創氏改名の基本的なアイデアであった。それで朝鮮人の元の姓は戸籍上に残しておきながら、戸主が新たに氏を創設して、名乗るときには姓の代わりに氏を名乗るよう決めたのである。

 名前の付け方も朝鮮人は日本人と全然違う。それで名前も、この機会に日本式に変えるよう奨励した。こうすると、その名前だけでは朝鮮人と日本人の区別がつかなくなり、それだけ両民族が近づいたことになると考えたわけだ。僕はこれを、南総督の好意から出た発想であると受けとめる。朝鮮文化の抹殺を図る陰謀や悪意からきた仕業だとは考えない。

 日本植民地時代から今に至るまで、日本に居住する朝鮮人らは通名という日本名を持って暮らしている。これは日本政府が決めたのではなく、韓国人が自ら望んでこの通名制度を認めてもらっているものであり、これもあからさまな差別を避けるためのものでもある。

 植民地時代の、朝鮮在住朝鮮人らは、当時このような通名を自ら望んだのではないけれど、この創氏改名制度に反対もしなかった。地方によっては、ある程度強制されたところがあったかもしれないが、京城では洞会(洞事務所)や学校などから強勧されたというハナシは聞いていない。それでも韓国人らは80~90パーセントほどが進んで創氏改名に応じた。創氏改名をすれば外見上、日本人と韓国人の区別はつかなくなるが、戸籍の上では元の姓はちゃんと残っているのだから、姓を奪われたという非難は当たらない。

〈中略〉日本の朝鮮統治35年間の中、その後半期になってからは朝鮮人間に反日感情はなかった。家庭で親が子に対して「日本は悪者だから、お前達がしっかり頑張って、朝鮮の独立を勝ち取らねばならぬ」と諭した者はただの一人もなかったと思う。すべての親は子供らに、学校でよく勉強して、いい学校を卒業して、いい職場につくことのみを願っていたはずだ。

 記録によると、昭和14年12月に創氏改名の手続きが発表されている。昭和15年2月11日から創氏改名の届け出を受け付け、同年9月17日までに創氏を届け出た者が全朝鮮の79パーセントに及んだとなっている。79パーセントどまりになったのか、その後も引き続き届け出を受け付けたのか不明だが、僕が中学校を卒業した昭和20年3月現在の状況から推測するに、全朝鮮の80パーセントないし90パーセントが創氏をしたと思われる。僕の知る限りにおいて創氏を強要された例はない。

 現に僕の母方の呂運享(ろうんきょう)家は創氏改名していない。朝鮮共産党の大物として戦後、僕憲永ともども北朝鮮入りした李康国(後でこの二人はアメリカのスパイという濡れ衣を着せられて処刑された)家や、日本の貴族となった僕泳孝侯爵や趙重応子爵家も創氏改名しなかった。総督府当局が彼らに何らの不利益を着せることもなく、また親戚や友人の間で白眼視されるとか英雄視されることもなかった。

 現在の韓国国民は、時の朝鮮総督府が朝鮮人全体に対し、創氏改名を強要して、100パーセントの朝鮮人がその強要に屈して創氏改名せざるを得なかったと心得ているようだが、これは事実と違う。実際は、国民間に反日感情は全然見当たらず、総督府の措置に対して何ら反抗心を持たずに当然の如くこれに応じたのだった。

ダン・ローデン=アメリカ人。ラトガース大学教授。
「SAPIO」2002年9月25日号 クリスティン・リー【日韓の植民地政策研究は政治やイデオロギーに振り回されてきた】より
在米の韓国人女性研究者で米ポートランド州立大学教授であるリー氏が、博士論文の主題について日本が朝鮮半島を植民地支配した時代の教育と女性問題について研究したい旨をローデン教授に説明した時、返された言葉


 「日本の植民地は、その後いずれも経済発展したではないか。そんな結論の出ている問題をいまさらどうして研究するのか

 「文明のシステムを、日本のコロニアリズム(植民地主義)は朝鮮半島に導入したのではないか。スペインやアメリカ、イギリスは日本のように本国と同じような教育システムを植民地に導入しようとはしなかった。当時の朝鮮半島の人々は、文明のシステムを独自の力で導入するのに失敗した。日本のコロニアリズムを経ずに、あれほど早く文明の世界システムに入れただろうか

 「日本の植民地支配を非難する韓国人の留学生の一人が、自分の父親が東京帝国大学出身であると自慢げに話した。これは、暗黙のうちに日本が導入した文明のシステムを評価していることになる。本来なら、東京帝大を卒業した父親を非難すべきではないか」

※この時、リー氏は別の経済学専攻の教授からも「植民地化された国家の中で韓国と台湾ほどに発展した国家はない。アメリカやイギリスの植民地で、台湾や韓国ほど発展した国があるか」と言われたそうです。リー氏は「当然韓国の側に立ってくれると思った第三者のアメリカ人学者の発言は、ショックでした」と、この論文で打ち明けています。

キミオ・アイセク=ミクロネシアのトラック諸島(第二次大戦終結まで日本に統治されていた)生まれ。「ブルーラグーンダイブショップ」の創設者でトラックの沈船ダイビングを世界に広めた。戦時中は日本の海軍や陸軍で働いた。故人。
「正論」2010年9月号 末永卓幸(トラック島在住・ツアーコーディネーター)【秘話・トラック島に残された六十五年目の大和魂】より
末永氏に語った言葉


 こうして仕事ができたのも全部、日本人のおかげなんだ。ダイトーア(大東亜戦争)の時は本当に大変だった。食べ物も無かったし、仕事もとってもきつかった。でもあの時私は、日本の兵隊さんにいろいろな仕事を教えてもらった。あの時の事は一生忘れないよ。日本人の気持ちは私の気持ち。私はいつも日本人の兵隊の気持ちで仕事をしている。ヤマトダマシイだね。

※アイセク氏は晩年、来日し、軍隊時代の隊長を訪問。その際、歩く事もままならぬ不自由な足にもかかわらず、直立不動の姿勢で隊長の前に立ち続けたそうです。

ヨシュア・スガ=ミクロネシアのトラック諸島(第二次大戦終結まで日本に統治されていた)生まれ。夏島(現トノアス島)の公学校(現地の子供たちが通い、日本人教師による日本語教育や躾が行われた)を5年で卒業。卒業後は日本人の判子屋で働き、戦争が激化し主人が帰国したあとも判子屋を支えた。戦後は現地の高校教師となった。2010年現在85歳。
「正論」2010年9月号 末永卓幸(トラック島在住・ツアーコーディネーター)【秘話・トラック島に残された六十五年目の大和魂】より
末永氏に語った言葉


 私たち年寄りは、日本時代が一番好き。若い人は私達の話を聞いて、そうか、日本人はよく叩くのかと言います。本当です。悪い事をしたら叩きます。悪い事をしないようにです。だから日本時代は良かった。学校でもそうだった。遅刻する。悪い事をする。そんな生徒はいつも罰があった。厳しいと思ったけど、それは仕方がない。罰を受ける。今度は遅刻しない。もう悪い事はしない。

マハティール・ビン・モハマド=マレーシア人。1925年(大正14年)生まれ。エドワード7世医科大学卒。在学中の1946年、統一マレー国民組織(UMNO)の発足に携わり政治活動を開始。1981年(昭和56年)から2003年(平成15年)10月まで首相在任。欧米諸国ではなく日本の経済成長を見習おうというルックイースト政策をはじめ、長期に及ぶ強力なリーダーシップによりマレーシアの国力を飛躍的に増大させた。来日が50回を超える親日派だが、日本らしさを失いつつある最近の日本への批判も忘れない。
「SAPIO」1999年4月14日号 大前研一 【マハティール首相『日本援護』演説をいかに受け止めるか】より
1992年10月14日香港にて行われた欧州・東アジア経済フォーラムにおける、いわゆる「日本なかりせば」演説


 過去のヨーロッパ中心の世界では、東アジアとはすなわち極東だった。そして極東は、異国情緒あふれる中国と竜のイメージ、お茶、アヘン、高級シルク、風変わりな習慣を持った珍しい人々など、奇妙で神秘的な印象を思い起こさせる場所だった。
 
 いまや極東は東アジアになり、気の毒だがヨーロッパのロマンチストの興味の対象は減った。その代わりに政治家エコノミスチの関心の的になっている。ヨーロッパがアジアに対して懸念を抱いている事実は、この地域が、すでに今世紀前半の日本軍国主義以上に深刻な脅威になっていることを示唆している。こうした見方の底流には、不信感と恐怖がある。その理由は、東アジアの人々が自分たちとは異なっている、つまりヨ一ロッパ人ではないという点にある。

 そのため、第2次大戦後の枢軸国であったヨーロッパのドイツとイタリアが平和国家となって復興、繁栄するのは応援、歓迎されたのに、同じように平和国家となった日本と極東の「小さな日本」の経済発展はあまり歓迎されないように見える。

 それどころか、ヨーロッパとヨーロッパ社会を移植したアメリカはともに、さまざまな手段を使って東アジア諸国の成長を抑え込もうとしてきた。西側の民主主義モデルの押しつけにとどまらず、あかろさまに東アジア諸国の経済の競争力を削ごうとしてきた。

 これは不幸なことである。東アジアの開発アプローチから世界は多くのことを学んできた。日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。

 日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押しつけられていただろう。

〈中略〉また、日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸周は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ続けただろう。東アジアでは高度な産業は無理だった。せいぜい質の劣る模造品を作るのが開の山だった。したがって西側が懸念するような「虎」も「竜」も、すなわち急成長を遂げたアジアの新興工業経済地域(NIES)も存在しなかっただろう。

 東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。

 もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。

 このシナリオには異論もあるかもしれない。だが、十分ありうる話である。日本がヨーロッパとアメリカに投資せず、資金をすべて国内に保有していたらどうなるかを想像すれば、その結果は公平なものになるのではないだろうか。ヨーロッパ人は自国産の製品に高い価格を支払わねばならず、高級なライフスタイルを送る余裕がなくなるだろう。

ベン・アミー・シロニー=1937年(昭和12年)ポーランド生まれ。両親と共に旧ソ連で終戦を迎え、ドイツ難民キャンプでの2年間の生活を経て、1948(昭和23年)年にイスラエルへ移住。エルサレム・ヘブライ大学で歴史・哲学を専攻。日本の国際基督教大学に留学後、1972年(昭和47年)、ヘブライ大学東洋学部教授に就任。1991年(平成2年)、米ハーバード大学客員教授に就任。
「SAPIO」2006年2月8日号【世襲制度の改革より天皇制への無関心をなくすことが急務だ】より

 現在世界に残された皇帝はただひとり、日本の天皇である。帝国でなくなってから60年が経っているにもかかわらず、日本には天皇制が残っている。しかしこの地位はいま、廃絶の危機にさらされている。廃絶されれば、それは日本だけでなく世界の損失になるだろう。なぜなら歴史を通じて日本を特徴づけてきたこの制度は、他の王制とは異なるものだからだ。

 現在の皇族の祖先がいつ皇位に就いたかは誰も知らない。だが神話が伝える紀元前660年という年代はさておき、少なくとも日本国家が始まった、紀元後の最初の1000年間の半ばからは、同じ一族が日本を統治してきたことは認めねばならない。現代の世界において、このような例は他に見られない。この驚くほどの継続性について説明をつけることは難しい。日本の歴代天皇は、具体的にはほとんど何もしていないに等しいからだ。

 軍事的、政治的な権力をふるったわけでもなく、並外れた人物であったわけでもなく、卓越した知識や超自然的な能力を持っていると主張したわけでもない。まだ幼いころに皇位に就く場合もある一方で、半数ほどは(存命中に)退位している。天皇たちは通常、宮廷の貴族や軍司令官、高位の政治家や顧問に操られていた。だが、これらの権力者が、他の国であったように、力のない君主に取って代わろうとしたことはなかった。個々の天皇の弱さは、天皇制の永続性とバランスがとれていた。

 さらには、14世紀に約60年間続いた南北朝時代を除いて、皇室が互いに敵対する家に分かれたこともなく、この短い時代を除いては、どの時代にも天皇はひとりしかいなかった。この権力と権威の分離が、歴史を通じて日本の国を特徴づけてきた。

 一方で、無力でありながら神聖な天皇は、役に立たないお飾りではなかった。天皇は日本という国の統合と継続を保証した。そのおかげで内戦の時代にも日本は別々の国家に分断されることがなかった。天皇は、国家が崩壊することなく大きく変わることを可能にするメカニズムを提供していたのである。その最も顕著な例が明治維新だろう。

アービン・ブランドン=アメリカ人。ワシントン地区で育つ。現在30代前半。職業は要人警護のSP。「ジョージタウン大学・ワシントン柔道クラブ」に通う。柔道3段。黒人の名門校のハワード大学を卒業してすぐ22歳でJET*1に応募。英語指導助手として1999年(平成11年)からの3年間、岩手県の一関市近くの公立小中学校で英語を教えた。
産経新聞2010年6月26日付国際面【緯度経度】ワシントン・古森義久「JETは日米交流の成功例」より

 「岩手の3年間で日本の敬老の精神や他者への寛容、そして調和について学び、黒人である私の祖父母の価値観ともそう異ならないと感じました。日本社会では『出る杭(くい)は打たれる』という暗黙の鉄則もあると聞き、当初は注意したけれど、岩手の人たちは私のような外部からの人間の意見にも耳を傾けてくれました」

 「(人種に絡む反応について)私自身が注目を浴びたことは間違いないが、ネガティブな対応がまるでないのは驚くほどでした

 「日本の武士道の精神を自分なりに学び、いまの警護の職務にも生かしています。日本での体験全体が私の人間形成に測りしれないほど役立ちました。最大の教訓は、日米が異なる文化にみえても両国民の人間レベルの核心は驚くほど共通していると実体験したことでしょうか」

*1 JETとは、日本の政府が各地方自治体と協力して、米国などの若い男女を英語教員として招く「語学指導などを行う外国青年招致事業」のこと。1987年に始まり、最大対象は米国だった。いまでは日本が招く若者たちの国の数は36にまで増えたが、これまで滞日した合計約4万4千人のうち約2万5千人が米国人である。そのなかには、ブッシュ政権の国家安全保障会議アジア上級部長となったマイケル・グリーン現ジョージタウン大学教授や、日本政治の研究で知られるレオナード・ショッパ・バージニア大学教授も含まれる。だが、民主党の菅政権はいまやこのJETプログラムを廃止すべきだとして、「事業仕分け」の対象にあげたのだという。

金美齢=台湾人。1934年(昭和9年)台北生まれ。日本統治下の台湾で育ち、日本敗戦後国民党による台湾人弾圧時代を経験。1959年(昭和34年)日本に留学後、台湾民主化運動に参加。このため30年間以上も台湾の土を踏むことができなかった。多くの大学で講師を歴任。1988年から2000年までは学校法人柴永国際学園JET日本語学校校長も務めた。台湾の民主化が進んだ後、2000年から2006年まで総統府国策顧問。日本滞在期間50年。2009年9月、日本に帰化。
「正論」2010年1月号 金美齢【独占手記 滞日50年、「二つの祖国」のはざまで 私はなぜ日本国民となったか】より

 私は自分の経験に照らして、とくに若者に対し「日本国」のパスポートに深く感謝しなさいと言いたい。

 一国のパスポートは身分証明書であり、外国に出たら「最後の頼みの綱」である。その頼みの綱を失ったとき、私は個人にとっての国家がいかに大切であるか、個人は国に守られて生きているということを肌で感じた。台湾(中華民国)のパスポートではどこに行くのにもビザ(査証)が必要になるが、パスポートがなければビザの申請自体を受け付けない国がたくさんある。

 日本のパスポートは世界のほとんどの国にビザなしで入れる。この凄さを認識している日本人(国民)はいったいどれほどいるだろうか。パスポートはその国の国際社会におけるポジションを示す。日本人はミシュランガイドの星を有り難がるよりも前に、日本のパスポートが三つ星どころか五つ星と言えるほどの実力を持っていることを、つまりそういう国に生まれたことを感謝すべきなのである。

 ところが、そんなパスポートを持っている日本人の多くが、いま享受している諸々は先人たちが営々と築いてくれた遺産の上に成り立っていることを認識できず、国の恩恵、保護を忘れて、自分の国を蔑み、貶めようとしている。私に言わせれば、そんな日本人は日本のパスポートを持つ資格はない。即刻返上すべきである。

リリア・デマルティニ=ペルー人。1970年(昭和45年)生まれ。来日後日本語学校で勉強した後、上智大学に入学。卒業後、筑波大学で修士課程を収め、博士課程も修了。その間に結婚、出産。日本滞在期間16年。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 ときどき、「ペルーに帰りたいと思ったことはないの?」と聞かれますが、忙しすぎてそんなことは考える余裕もありませんでした。でも、私が今までやってこられたのは、よくしてくれる親切な日本人が絶えず私の周りにいてくれたからだと思います。

 私の叔母は、日本人と結婚して日本に住んでいるのですが、その叔母の友人の日本人の方は、私の保証人になってくれたり、上智大学のことを教えてくれたり、仕事がないというと、場所やら生徒やらを手配してくれて、私がスペイン語の先生として働く場を作ってくれたりしました。また、仲良くなった八百屋さんの夫婦は、部屋を使ってもいいと言ってくれたり、しょっちゅう食事に連れて行ってくれたりしてお世話になりました。さらに、名古屋で家探しをした時には、古くてもいいから2DKの部屋がいいと言ったら、大家さんは、自分が住もうと準備していた部屋の鍵を奥から大事そうに持ってきて、私に貸してくれました。

 そういう情の厚い日本人に支えられて、忙しいけれども居心地がよかったのだと思います。

 私には今、六歳の娘がいますが、受験して今春から私立の小学校に通っています。引っ込み思案だった娘が、受験を通して、見違えるようにたくましくなりました。日本は学びたい意志があって努力さえすれば、誰でもすばらしい教育環境で学ぶことができます。引きこもりだとかニートだとかと、言っている場合ではありません。こんなすばらしい環境を利用しない手はないのです。

モハメッド・アリ・サダト・レザイ=イラン人。1966年(昭和41年)生まれ。テヘラン大学で美術を学び、焼き物の商売を経験。26歳の時に晴海の見本市に自分の焼き物出展のため初来日。日本人には全く売れず、まず日本人を理解しなくてはと、英語教室の先生となる。現在ペルシャ・トルコ料理レストラン経営。日本滞在期間17年。
加藤恭子編「続・私は日本のここが好き!―外国人43人が深く語る」より

 私は焼き物の商売で十三カ国を回ってみて、日本ほど丁寧な国はないと思った。気持ちがやさしくて世界一丁寧な国だよ。ここまで丁寧な国に住んだら、もう他の国に住めないね。

 日本に来て一番驚いたのは、イランではイスラム宗教を通して教えられる、「盗まない」、「嘘をつかない」、「親を大事にする」、「他人と仲良くする」、とかの生き方の基本を、日本人は宗教がなくても身に付けて育って、イラン人以上に守っている。これはすごいと思ったね。この前、イランの友達に会った時に聞いたんだけど、国から偉い宗教家が日本に来て、イラン大使館で一緒にお祈りした時、その宗教家が「日本人はイスラム教でもないのに、真のイスラム教徒のようだ」って言っていた、と話していたよ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 この8月に出版された朴贊雄氏の著書【日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想】を購入しました。
 1926年に京城(現ソウル)で生まれた朴贊雄氏が、日本統治下で過ごした幼年期から終戦に至る青春の日々を回想した本です。

 当時の京城で営まれた穏やかな日常――医者や学校の先生など世話になった日本人の話(恩師の一人とは戦後に書簡のやりとりをしており、その内容も紹介されています)や、お祖父さんをはじめとする家族の話などがいきいきと描かれています。
 それは「虐政を施された植民地朝鮮」という、韓国や日本のサヨクが主張する光景とはかけ離れたものとなっています。

 また、朴贊雄氏は自身の体験をもとに、創氏改名、独立運動などの実際についても、率直、公正に語っています。
 日本(日本人)の悪かった面についてももちろん語られていますが、それよりは日本(日本人)を評価する記述が圧倒的に多いです。
 本のカバーの説明文には、「戦後教育によってつくられた、日韓併合に対する一面的な見方を克服し、真の日韓親善に繋がると信じて書き遺された、渾身の一冊である」と添えられています。

 主に1999年から2005年にかけて日本語で書かれた文章をまとめたものであり、翻訳本ではありません。韓国では出版されていないのが残念です。

 この朴贊雄氏の著書については、今後もこのシリーズで少しずつ紹介していきたいと考えていますので、お楽しみに!(^o^)


 ……というわけで、第21弾につづく……!!


※参考文献
・イザベラ・バード著「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(講談社学術文庫)
・エセル・ハワード著「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」(講談社学術文庫)
・朴贊雄「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」
・「SAPIO」2002年9月25日号 クリスティン・リー【日韓の植民地政策研究は政治やイデオロギーに振り回されてきた】
・「正論」2010年9月号 末永卓幸【秘話・トラック島に残された六十五年目の大和魂】
小林よしのり&SAPIO部屋>特集!!「もし日本 なかりせば」マハティール首相「日本なかりせば」演説
・「SAPIO」2006年2月8日号 ベン・アミー・シロニー【世襲制度の改革より天皇制への無関心をなくすことが急務だ】
・産経新聞2010年6月26日付国際面【緯度経度】ワシントン・古森義久「JETは日米交流の成功例」
・「正論」2010年1月号 金美齢【独占手記 滞日50年、「二つの祖国」のはざまで 私はなぜ日本国民となったか】
・加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」
・加藤恭子編「続・私は日本のここが好き!―外国人43人が深く語る」より

※拙ブログ関連エントリー
【一覧】外国人から見た日本と日本人

※その他拙ブログ関連エントリー
05/12/5付:憂国フラッシュリンク集
06/10/8付:【アンケート】「生まれ変わっても日本人になりたい?」結果と全コメント
07/3/5付:「日本人」について考えさせられた記事
08/11/3付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
08/12/16付:「ATLAS日本」アメリカから見た現代日本
09/3/21付:桜と日本人の感性
09/5/23付:日本とトルコ 友好の歴史
10/3/23付:江戸時代を見直そう
10/3/30付:江戸時代を見直そう(2)
10/6/21付:世界が忘れない日本の物語「ビーバップ!ハイヒール」より

※おすすめブログ
反日ワクチン>外国人の見た日本人A
反日ワクチン>外国人の見た日本人B
海外での日本人気@まとめwiki

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログが面白かったらクリックして下さい→人気blogランキングへ
ご面倒でなければこちらも→FC2 blogランキングへ

megumi080328-2.jpeg

「島根県の竹島英文ページを検索に引っ掛かり易くする作戦」もよろしく。
takeshima dokdo dokto tokdo tokto
スポンサーサイト

トラックバック

トラックバックURL:http://kukkuri.blog58.fc2.com/tb.php/730-e6dd1119

プロフィール

くっくり

Author:くっくり
大阪在住の主婦です。
詳しいプロフィールは本館にて。

最近のコメント

月別アーカイブ

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

フリーエリア

竹島プロジェクト
↑バナーお持ち帰り歓迎(直リンク禁止)
人気blogランキングへ
人気blogランキングへ
FC2 blogランキングへFC2 blogランキングへ

■Amazonアソシエイトについて
「ぼやきくっくり」は、amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

ブログ内検索