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「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終

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「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
の続きです。



◆出雲の謎パート2

 なぜ大和朝廷は対立した出雲の神を大事に扱い、その信仰を残したのか?
 そこには出雲に伝わる、ある秘密が。
 それは龍蛇(りゅうじゃ)信仰。
 出雲地方には毎年11月頃、海の向こうからあるものがやってくるという。
 地元の人曰く、「頭を持ち上げて泳ぐ、腹が黄金、神様の使いという認識で、『龍蛇さん』と言っている」。
 それは、セグロウミヘビ。鋭い牙には猛毒を持つと言われる。普段は南の海に住むが、冬の初めに暖流に乗り、西の方から島根県地方、つまり出雲の海に流れ着くという。
 西からやってくる、これこそキーワードのひとつ「夕陽が沈む西」。

 古来、出雲大社では、西の方角からやってくるこの龍蛇さんの姿を神の使いとしてお札などに使い、今も全国の神様がやってくる「神在祭」の時には御神体として大切にお祀りしている。
 そして、この龍蛇信仰をもっとも恐れたのが大和王権だったという。

 「ウミヘビというのは自然界の霊力、恐ろしい力を蓄えている動物ですね。大和の王権からすると、出雲は恐ろしい蛇の神を祀る地方の王であったというイメージがあったようだ」(新谷尚紀)

 たとえば平安時代、970年に書かれた「口遊」にはこんな一文が。
 「雲太」「和二」「京三」。
 これは当時の日本三大建築物を意味する言葉。

 「京三」=「京都三郎」=平安京の大極殿。高さ24m。
 「和二」=「大和二郎」=東大寺の大仏殿。高さ45m。
 「雲太」=「出雲太郎」=出雲大社。現在の本殿の高さは24mだが、文献によれば平安時代は48mもあった。

 出雲の龍蛇信仰を恐れ敬った大和王権。そんな大和王権と出雲の関係を見れば、残された謎も解ける。

 柏手を打つ数が一般神社の2倍の4回。
 「これは平安時代の『延喜式』という書物にある『八平手』、八回柏手を打つ。高貴な方に対する最大の敬意を表す挨拶の作法。この作法が半分の四回になったと考えられる」(新谷尚紀)
 4回の柏手は大国主神に最高の敬意を表すものだった。

 注連縄が逆向きで、頭が「西」を向いている。御神座も西向き。
 「西」と言えば、神の使いである龍蛇様がやってこられ、黄泉の国があるという特別な方角。これにより、大国主神を、この世ではなく「黄泉の国」と結び付けているのだ。
 そうすることで、大和王権はその祟りを抑えるばかりか、出雲の霊力を味方にしようとしたという。

 それはいったいなぜだったのか?そこには在る人物のとてつもない計画が関わっていた。
 「それは天武天皇と持統天皇です」(新谷尚紀)

 天武天皇は672年、壬申の乱を起こし、大友皇子を倒して即位した天皇。夫である天武天皇のあとを継いだのが、持統天皇。
 では、彼らはなぜ出雲の強大な霊力を必要としたのか?

 天武天皇が目指したのは天皇を中心とした律令国家。
 そこで目を付けたのが「倭国」という中国につけられた名前。「倭」=醜い、したがうさま、という意味。
 このままではいけないと、天武天皇が唱えたのが「日本」という国号。この天武天皇の時代から使われ始めたと考えられるのだ。

 さらに、それまで国の王に授けられていた「大君」という呼び名を改め「天皇」とした。「天皇」とは中国の陰陽五行で神様を指す言葉。
 天武天皇は自らを神格化し、日本の頂点に立つことで完全なる律令国家を築こうとしたのだ。

 「律令国家というのは中国的な支配システムです。王の重要な要素である『政治・軍事の力』と『文化・宗教の力』両方持っている。しかし天皇を名乗り、日本を名乗る。この画期的な天武・持統の王権は、もうひとつの力である『巨大な霊力』で2人の王権を強くした」(新谷尚紀)

 巨大な霊力こそ、大和王権が恐れ続けた出雲の霊力だったのである。
 思い出してほしい。出雲大社の始まりを伝える神話「国譲り」が描かれた古事記や日本書紀を編纂するよう命じたのは誰だったか?
 そう、それこそが天武天皇だった。

 つまり古事記や日本書紀に出雲大社の存在を記すことで、出雲大社を新たな国造りに欠かせない特別な存在として位置付けたのだ。

 さらにその一方で、天武天皇は太陽の神・天照大御神を祀る伊勢神宮を、日本を象徴する最も尊いお宮と位置付けた。

 海から日が昇り、命の誕生を象徴する伊勢神宮。
 そして海へと夕日が沈み、黄泉の国と結ばれた出雲大社。

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 東の端と西の端、この2つの神社を1つに結び、天武天皇は自らの王権を太陽の光で包み込んだのである。

 「生命を司る神様と死後の世界を司る神様、非常に対極ですよね。天皇というのは全体を統合していく立場ですから、そういう対極をしっかりと押さえるということは、霊的にも非常に大きな意味があると思います」(竹田恒泰)

 天武・持統天皇は日本で初めて碁盤目状の都・藤原京を建設。さらには701年、二人の孫である文武天皇により大宝律令が完成。710年には平城京へ遷都。
 新しい律令国家がその姿を現していく中で、713年、元明天皇により出された風土記の編纂命令。各地の歴史をまとめ、地名を改めることで、新たな国づくりをさらに進めようとしたのだ。

 そして完成まで20年の歳月がかかったという出雲国風土記。国の役人ではなく土地の人間が編纂し、古事記にはないオリジナルの神話まで書かれている。
 そんな特別な扱いを見れば、新しい律令国家・日本で、出雲がどれほど大切にされていたのか浮かび上がる。

 最後に残った謎。なぜ出雲大社は縁結びに強いのか?
 実は時代をずっと下った江戸時代のこと。遠方への寺社詣りが信仰と旅行を兼ねたレジャーになっていた。
 そこで活躍したのが、御師(おし)と呼ばれる神社の神官。全国を歩いて回り、お札や特産品を配って人々に信仰を広めていった。
 その際、配っていたパンフレット(「出雲大社勧化帳」享保10年)をよく見ると「縁結び」の文字が。年に一度出雲大社に集まった神様が、「神議」で全ての縁を相談し決めていると考えられていたのだ。

 古代の王たちが恐れ、日本誕生の礎ともなった出雲の霊力は、いつしか縁結びの力へと姿を変え、出雲は今も多くの人に敬われ、愛されている。


◆日本史上最大の怨霊・崇徳天皇

 首都・東京。
 この町にも地名に隠された意味、太陽信仰など、教科書には載らない謎が。
 世界的に見ても珍しい200年以上という長期の平安を保った江戸の街に凝らされた工夫とは?

 「徳川家康は江戸の都市計画に呪術を用いた」(建築家・作家 宮元健次)

 徳川家康が街作りに凝らした工夫、それは神道と仏教と陰陽道の力を結集させ、邪悪な「気」の流れや怨霊の祟りから江戸を守ろうとしたのだ。

 1868年(明治元年)、開国、富国強兵、明治政府は西洋の合理的な考えを次々導入していった。では、それまでの呪術的な町づくりはなくなってしまったのか?
 昨年『怨霊になった天皇』という本を執筆した竹田氏は「日本の伝統は失われることはなかった」と語る。

 「明治維新以降も、霊的に日本を守ることに神経をとがらせてきたようです。1つの例として崇徳天皇。崇徳天皇というのは日本史上最も恐れられた怨霊」(竹田恒泰)

 明治以降の東京や国を護るキーマン、そして日本最大の怨霊、崇徳天皇(1119-1164)。
 [以下、こちらの系図など参考にしながらお読み下さい(^^ゞ]

 平安後期、院政がひかれ、武士が台頭してきていた1119年、崇徳天皇は鳥羽天皇を父に、白河上皇を曾祖父に誕生した。
 実際は曾祖父である白河上皇の子であったと考えられている。
 そのため鳥羽天皇は、本当は我が子ではなく叔父だという意味で、崇徳天皇を「叔父子」と呼び、嫌っていたという。

 崇徳天皇は曾祖父の力で父から譲位され、幼くして天皇になる。父である鳥羽上皇はここでも屈辱を味わう。
 だが、その後、白河上皇が亡くなり、鳥羽上皇の仕返しが始まる。

 鳥羽上皇は実子を皇位に就けるため、崇徳天皇に譲位を迫り、崇徳天皇は鳥羽上皇の子・近衛天皇に位を譲る。
 その後譲位された近衛天皇が若くして亡くなる。
 この場合、鳥羽上皇の第一子である崇徳上皇の子が天皇になるのが普通だが、鳥羽上皇はこれをまたしても妨害。

 結局、崇徳上皇の弟にあたる後白河天皇が即位することになり、これを不服とする崇徳天皇と後白河天皇の間に争いが起こった。
 これが武士を巻き込んだ保元の乱。

 この戦いに破れた崇徳天皇は、讃岐国に流刑となった。都に戻る望みは絶たれ、皇位も剥奪され、空しい日々を過ごす。

 崇徳天皇はある決意をする。自らの血を使って写経をし、京都に送ることにしたのだ。法華経、涅槃経など全部で190巻にも上る膨大な量。

 崇徳天皇はそこに帝となった弟に宛てた手紙をつけた。
 「後生菩提のため、五部大乗経を書写したが、寺院の鐘やホラ貝のない遠い国に置くことは不憫であるから、都の周辺に置いて欲しい」
 自分はもう二度と帰れない京の都に、せめて自分が書いたお経だけでも戻りたいという願いを込めたのだ。

 ほどなくして都から返事が届いた。
 弟の後白河天皇からの承諾の知らせと喜んで文箱を開けてみると、そこに入っていたのはビリビリに破かれたお経。

 我が身ばかりかお経すら受け入れてもらえない。崇徳天皇は庭に飛び出し、その場で舌先を噛みちぎった。そして、その血で「天下滅亡」という呪いの言葉を書き残し、数日以内に憤死したという。

 「崇徳天皇の最期は、およそ天狗のようであったと伝えられていまして、自分は日本国の大魔縁となると。天皇を民に貶め、そして民を天皇にすると、国家滅亡の呪いの言葉を発せられて、それで崩御されたと」(竹田恒泰)

 崇徳天皇の憤死後、弟の後白河天皇の周囲に怪異が続いた。
 息子の二条天皇が在位中に23歳で亡くなり、息子の后である中宮、自らの女御がひと月をあけずに若くして亡くなり、その10日後には孫である六条院までもが13歳で亡くなる。
 さらに京都の街の3分の1を焼く大火が起こり、死者1000人に及び、後白河天皇が暮らす御所も被害に。

 これは崇徳天皇の祟りに違いないと、後白河天皇は崇徳天皇を手厚く祀り始めた。実は「崇徳院」という名前も、この時に送られた天皇を称える特別な敬称。さらに成勝寺で供養も行われた。

 だが、その後、源平合戦が起こり、鎌倉幕府が誕生。武士が政権を握ることに。まさに天皇を平民に、平民を天皇にという崇徳天皇の呪いが実現したとも言えるのだ。

 「(崇徳院の死後)武家政権が成立し、混迷の度合を深めていきますので、武家の時代というのは呪われた時代ということになりますね。その後(崇徳天皇の死を祀る)100年ごとの式年祭があるんですけど、その度に天変地異・国家動乱が起きるんですね」(竹田恒泰)

 1164年=崇徳天皇亡くなる
 1263年=元に国交を迫られる(元寇のきっかけとなる)
 1364年=南北朝の動乱
 1467年=応仁の乱

 だが、これだけの力を持った怨霊は丁重にお祀りすれば強力な守り神になる。
 明治天皇は、崇徳天皇を新国家の守り神にしようとした。

 「明治天皇は即位の前日、というと大変忙しいはずなんですが、重要なお祀りをされています。それは700年ぶりに崇徳天皇の御霊を、四国から京都に移すというお祀りをされている。新しい国家体制を作っていくにあたって、崇徳天皇との和解をすませておくのが絶対の条件だと信じられていたからです」(竹田恒泰)

 明治天皇の即位式は慶応4年8月27日。その前日の8月26日、明治天皇は崇徳天皇の御霊を四国から京都へ移された。天皇の巡幸と同じように、神輿と400名もの従者を伴って行われた。
 700年ぶりに崇徳天皇の御霊は京都に戻ることができたのである。

 「あれほど朝廷を苦しめ、天変地異・国家動乱を引き起こした崇徳天皇の怨霊というのは、今は日本国を守る強大な力を発揮されているのかなというふうに思います」(竹田恒泰)

 崇徳天皇と私たちの関係は今でも続いている。
 100年ごとに行われる式年祭。最近の800年祭は1964年、東京オリンピックの年に行われた。この時、昭和天皇は讃岐の崇徳天皇の御陵に勅使を派遣している。
 崇徳天皇は今なお畏れ、敬われている存在なのだ。


◆明治神宮の謎

 明治天皇は新体制、江戸とは違う東京都の街作りをしようとしていた。
 そこでは、かつて将軍たちが江戸を街を守ったように、明治天皇自身も重要な守り神となっている。

 明治天皇が亡くなった際、御陵は遺言によって京都・伏見に作られた。
 が、それならばお祀りする場所は関東にという運動が起こる。富士山、筑波山などの候補もあった中、決まった場所は代々木。そう、明治神宮。

 なぜ代々木が選ばれたのか?理由の1つが地名。
 代々木の由来は、ここに代々枯れない樅(もみ)の大木があったためという。代々枯れない木=未来永劫に栄えるというイメージで縁起が良い。
 だが、それまでこの地はほとんど荒れ地で、代々木の名にはほど遠かった。そこで全国から365種、10万本以上の木が植林された。
 そう、明治神宮の壮大な森は全て人工の森なのだ。

 代々木が選ばれた理由としては場所もある。
 皇居と明治神宮と、そして大正天皇、昭和天皇の御陵とは地図上で一直線上に並ぶ場所に位置している。

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 聖地を同じライン上に並べることでパワーアップさせるレイラインという考え方は、世界中で古くからある。並べられた聖地は、明治維新後の東京を守る天皇の力を少しでも大きくしたいため、とも考えられるのだ。
 さらに……。

 「明治神宮は太陽の力というものを使って、土地が選ばれている可能性が高いと思います」(宮元健次)

 代々木が選ばれた理由には太陽信仰も関係していた。
 一年で最も強い日差しを感じる夏至の日に、明治神宮から日の出方向を見ると、その先にあるのは浅草寺。

 浅草寺は徳川家が江戸を治めるまでは、この地域の総鎮守の役割を担っていた都内最古の寺。
 夏至の太陽が意味するのは「新生」。浅草寺から昇る太陽は、徳川家の菩提寺に代わって、霊的守りの中心を新生する意味合いがあったとも考えられるのだ。
 そして夏至の夕日が沈むライン上にほぼ位置しているのが明治神宮の参道、そう、表参道。

 「表参道から見た明治神宮の方向に、ほぼ夏至の日没が観測できるわけです」(宮元健次)

 古代から、夏至の夕日は先祖繁栄の光と呼ばれてきた。
 1年で一番力のある太陽を利用する。夏至の日が、明治神宮に沈むラインと参道の向きを重ねることにより、先祖の力が強まり、東京を守る力も強くなる、明治神宮にはそんな願いも込められているのだ。


◆たけし人生初の熊野詣で

 三重県熊野市、七里御浜(しちりみはま)。ここでたけしは待っていた。
 熊野では重要なものは海を渡ってやってくる。
 この日、たけしが待っていたのは……日の出。

 「やっぱすげえな、これな。…太陽と地球との関係が分かんない時代、これ見たら、そりゃ感動するよ。毎日こうやって昇るわけだろ。…これ太平洋の一番こっち側さ、東だろ。あっちに(海の向こうに)何かありそうだよな」

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 2004年、紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産になり注目を浴びた熊野。
 熊野とは、紀伊半島の和歌山、奈良、三重にまたがった地域の総称。熊野三山など、古くから信仰を集めてきた。
 熊野の語源は、熊という文字が奥まった場所を指す「隈」だったという説がある。

 都から見て、陸地の一番端にあった熊野は、この世の果て、再生を意味する日が昇る場所。
 国の中心から離れた神秘的な場所として、熊野を含む紀伊山地は、古くから高野山などの仏教、伊勢神宮や熊野三山などの神道、そして修験道の修行場と、さまざまな宗教の聖地とされてきた。

 一昨年、ビートたけしは伊勢の神宮を訪れた(こちら参照)。
 「圧倒されるね。何かね、家内安全とか言おうとしたらとんでもない話だったね。そういうのは言ってる場合じゃない。…もっと宇宙的なんだよね」

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 そして今回、ビートたけしは総計1000キロ、聖地を結ぶ参拝道である熊野古道を歩いて、都からさらに離れた熊野の地を訪れることにした。

 熊野三山のひとつ、那智大社へと続く熊野古道。
 案内役は熊野古道センター長の花尻薫さん。

たけし
「さっき太陽が昇るところを見たけど、不思議だったですね」
花尻薫
熊野の海の彼方には常世の国があって、常世の国から太陽が昇って、人間を心身共に豊かにしてくれる
たけし
「熊野もインカ帝国もアステカもエジプトもみんな、太陽神ですね。…けっこうこの土地、地滑りとかなかったんですか」
花尻薫
「特に熊野は雨が多いですから、道が荒れますからね、それをどうやって防ぐかというのは、石畳と階段以外に方法がないんです」
たけし
「かなり、いろんな石がこう敷きつめてありますね」
花尻薫
「多少これは人間が細工をして、そしてところどころ古いところを修理をしております」

 江戸時代の石畳は自然のまま、明治時代に修理した石畳は加工されている。

 雨が多い紀伊山地では、昔から石段を詰んで道を守ってきた。
 遠く平安時代から作られた深い所では2メートル以上も積まれた石畳は、修理されながら多くの参拝者を迎えてきた。

 熊野詣での起源は、平安時代の上皇たち。
 崇徳天皇の曾祖父、白河上皇は9回も訪れ、熊野詣でブームのきっかけを作った。
 室町時代以降、武士や庶民の参拝が増える。蟻の熊野詣でと言われるほどの賑わいだったと言われている。そこを通る人々の思いによって、熊野古道は単なる参拝道ではなく、聖地へと変わってきた。

 たけしがやって来た熊野古道の終点にあるのが、落差133メートル、日本一の「那智の大滝」。

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 神武天皇が東征時、海から山が輝くのを見て発見したことが由来とされるが、そのずっと前から土地の人間の信仰を集め、人々は豊作や大漁をこの滝に祈ってきた。

花尻薫
「水がいったん当たって、しぶきになって下に落ちる時に、仏さんが何人も人型になって見える」

 滝の流れの中に、自分たちを救ってくれる仏や神の姿を見たという。
 お社も拝殿もなく、滝そのものが御神体という神社は、日本の古い信仰がどのようにあったのかを今に伝えている。

 この滝を見通せる丘に、世界文化遺産であり熊野三山の一つ、熊野那智大社がある。

 宮司さんに案内されて、通常では立ち入れない場所へ。

 そこには「烏石(からすいし)」と呼ばれる岩があった。
 神武天皇が東征のため熊野に上陸して道に迷った時、案内をした鳥が、足が三本ある伝説の八咫烏(やたがらす)。日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている八咫烏が、役割を終えて姿を変えたと言われるのが、この烏石なのだ。

 宮司がお社の屋根の見方について教えてくれた。

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 千木(ちぎ)の先端が地面に対して……
 水平=女の神様、垂直=男の神様。

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 堅魚木(かつおぎ)が……
 偶数=女の神様、奇数=男の神様。

 外から見ただけで分かる。
 このお社は天照大御神をはじめ、日本の創世神話の尊い神々をお祀りしている。

 この熊野那智大社と隣接しているのが青岸渡寺(せいがんとじ)。
 仏教が日本に伝来した頃すでにあり、本殿は1590年、豊臣秀吉によって再建された。

 神様に手を合わせたあと、すぐに仏にも祈る。

たけし
「我々だと、観音菩薩がいて隣に大社があると妙な感じがしますね」
花尻薫
「お寺やお寺、神社は神社というのは明治政府に命令されたので、こういう区切りがあるっていうのは、私らにとっては残念でかなわない」

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 神社とお寺が隣り合って、参拝者は両方に自然と手を合わせる。
 異なる宗教の聖地が集まり、共存しているのが熊野。
 その根幹には、雄大な滝に力を感じ、思わず拝みたくなる、そんな日本人が持つ自然への畏敬の念がある。

 那智の滝以外にも、熊野には人が神秘を感じずにはいられない場所が数多く残されている。
 そうした場所のひとつが神内神社(こうのうちじんじゃ)。

 イザナギ、イザナミが神々を産んだ場所という由来を持ち、中に入ると巨木や、岩を抱えた木、御神体である巨岩といった、人を圧倒する自然と否応なく対峙させられる。

たけし
「この岩はすごいね」
花尻薫
「すごいでしょ。どれだけ大地震があっても落ちてこない。何もない。本当に素朴です」
たけし
「だから信仰の対象になるんだね。…自然の、我々はこういうものの単なる一部であるということが分かる。生かせてもらってるなという感じがする

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 熊野を理解するには、その地に身を置いて、体と心で感じなければならないのかもしれない。

 熊野詣で、最後の訪問先は日本最古と言われる神社。
 熊野市にある花の窟(いわや)神社。

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 高さ45メートルの巨岩が御神体。
 創世の神イザナミを埋葬したという由来から最古の神社と言われる。岩に飾られた大綱(おつな)に花を飾る祭りが毎年行われる。

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 七里御浜のすぐそばにそそり立つ巨大な一枚岩。
 人々はこの岩に畏敬の念を感じ、豊作や大漁、無病息災の願いを大切に祈ってきた。

 ビートたけし、人生初の熊野詣で。

 「伊勢はね、荒々しくないよね。逆襲されない感じがする。熊野は逆襲されそうな気がする。ちょっと誤ると。成り立ちからして、神様がいる場所からして荒々しいし、階段を上がっていかないと、自分もものすごく体力使ってやらないと、しっぺ返しくらいそうだね。伊勢神宮はオーガスタで、ここはセントアンドリュース。リンクスコースときれいに整地されたのが伊勢で。荒々しい原点、そんなに手軽になってないし。だからゴルフで言えば、セントアンドリュースの風とか雨とか穴とか、そういうところに戦っていくのがゴルフと言われれば、熊野のほうが神道としては歴史があって厳しいところかもね

<<<スタジオトークより>>>

 さらにたけしの感想。
 「神が宿るとこって必ず縄が張ってある。さっきのところは縄があって、なおかつ、飾りの縄が下がってる、縄文土器と同じような縄目がついてる。だから縄文の時からの信仰対象であって、岩とか、滝とかね。だから歴史がすごい。弥生時代の前からの荒々しさと、生きることの、あと、獲物が捕れることとか、あと自然の驚異とか、何かすごいなと。……那智の滝はほんとに仏様とかあれが見える、感じが。すごい」

 荒俣宏のコメント。
 「伊勢は人間が作った聖地、しかし熊野は自然が作った聖地

 石原良純のコメント。
 「伊勢神宮は毎年行きますよ。たけしさんおっしゃったように、熊野はひとけがないというか死者の世界にすごく近いみたいな、僕らの世界じゃないところに近い入口というか、その境界線みたいな感じは確かにする」

 _________________________大ざっぱな内容紹介ここまで


 ゴルフやらないので、最後のたけしさんの喩えは全然分かりませんでした(T^T)

 那智の滝とその周辺は私も何度か訪れたことがあります。一番最近行ったのは2001年だったかな?
 残念ながら風雨が大変強い日で(台風が来てたかも)、観光バスのコースも短縮されるし、あまり落ち着いて回ることができませんでした(T^T)。また改めて行きたいです。

 以下、いくつか補足を。

 「大和王権」とか「大和政権」とか「大和朝廷」とか何種類か出てきますが、番組で使われた言葉をそのまま使ってます。
 昔、少なくとも私(1964年生まれ)が学生だった頃は教科書でも、また一般的にも「大和朝廷」と呼ばれていたと思うのですが、Wikipediaによれば、最近は「ヤマト王権」「ヤマト政権」「大和王権」などと呼ばれているようです。

 他の点でも、番組では紹介されなかった歴史上のいろんな説があろうかと思います。特に古代史は諸説紛々、はっきりしていないものが多いですからね(^_^;

 たとえば番組では卑弥呼=天照大御神説をとっていますが、他にもいろんな説があるようです(Wiki参照)。
 また、天皇号についても、番組では天武天皇の時代としていますが、より早く推古期に求める説や、遅く大宝以降とする説もあるそうです。

 この機会に、歴史のこういった諸説を比較してみるのも面白いかもしれませんね(^o^)


※拙ブログ関連エントリー(2009年度)
1/6付:「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
5/9付:日本人の習慣の由来 「ビーバップ!ハイヒール」より
5/19付:古事記を語り継ぐ浅野温子さんを応援します
11/23付:京都の地名に潜むミステリー「ビーバップ!ハイヒール」より
12/20付:日本人の習慣第2弾 年末年始編「ビーバップ!ハイヒール」より


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「お気楽くっくり」更新済
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■鳥居脇の神木■ (9th April 2009) ★産田神社★ 三重県熊野市有馬町814 ・旧社格は郷社。 ・天正の兵火で古記録宝物等焼失のため由緒等不詳。 ・地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野川、音無川、岩田川の合流点に?...
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