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「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)

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■1/2放送 日テレ「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎2010 」

【当日のテレビ欄より】
太陽と怨霊と天皇?“日本建国”の秘密に迫る(1)なぜ初日の出を拝むのか(2)なぜ仏滅・大安を気にするのか?(3)たけしの故郷足立区はなぜ“足立”なのか▽ヒミコ殺害説と犯行動機▽出雲と東京守る“霊力”とは▽たけし初めて熊野古道を歩く

【出演者】
MC:ビートたけし
ゲスト:高畑淳子、石原良純、ビビる大木、木下優樹菜、東国原英夫、荒俣宏
ナビゲーター:西尾由佳理(NTV)
VTR出演:ハイキングウォーキング、鳩山来留夫

 昨年1月3日にパート1の放送がありました(東京方面では昨年の大晦日に再放送があったようです。見逃された方は、拙ブログでざっと内容紹介をやらせてもらいましたので宜しかったらこちらをご覧下さい)。

 パート1では、宮中祭祀の中でも最も重要な祭祀の一つである「四方拝」が取り上げられたり、たけしさんが伊勢神宮の素晴らしさに圧倒されるレポートがあったり、非常に見応えがありました。
 またやってほしいなぁと秘かに願っていたら、本当にやってくれました。
 日テレGJ!(^o^)

 昨年に引き続き今年も番組内容をまとめてみました(敬称略)。
 2時間強という長丁場なので完全起こしとはいきませんでしたが、要点は押さえてあると思います。


 大ざっぱな内容紹介ここから_________________________
◆オープニングナレーション

 日本人はどこから来たのか?
 その答えを求めて、たけしは熊野を訪れた。

 日本人と太陽の深い関係とは?

 今年も届いた年賀状に書かれている「元旦」の文字。
 実は「旦」という字は、水平線から昇る太陽を表している。
 つまり「元旦」は初日の出を指しているのだ。

 では、日本人はなぜ初日の出をありがたがるのか?

 初日の出だけではない。
 日本全国には数々の日の出にまつわる地名がある。
 「日の出町」「日の出台」「日の出山」「日の出ふ頭」……。
 これは世界的にも珍しいことだという。

 「アメリカやヨーロッパで、太陽を見て願をかけるとか、スカッとするとか、神々しい雰囲気になることはまずない。日本の長い歴史の中から育まれた感覚・感性であって、すごく独特だと思う」(東京大学比較文学 比較文化研究室 ロバート・キャンベル)

 そして日本神話の最高神の、太陽の神である天照大御神。
 太陽と日本人の間には、教科書に載らない謎が隠されていた。

 謎多き邪馬台国の女王・卑弥呼の死の真相は太陽に関係していた?

 新年とともに新しくなったカレンダーにも、教科書には載らない謎が。
 その昔、暦を作ることができたのは天皇だけ。
 つまり暦とは権力の象徴だった?!

 日本人は大安や仏滅をいったいいつから気にするようになったのか?
 その驚くべき真相が明らかに。

 全国の地名にも、教科書が載らない謎が隠されていた。
 大阪府和泉(いずみ)市の「和」の文字は何で読まないのか?
 たけしの地元「足立区」はなぜ「足立」なのか?
 1300年前に行われていた「地名仕分け」とはいったい?

 そして、縁結びの神様で知られる出雲大社に、今回我々が注目した最大の謎が隠されていた。
 古代日本で出雲は特別な場所だった?

 世間で「神無月」と呼ばれている10月。しかし出雲では「神在(かみあり)月」?
 柏手(かしわで)の数が他とは違う。さらに注連縄(しめなわ)が逆!?
 そして、古代日本で恐れられた出雲のある信仰とは何か?

 これらの謎を解くことで、「日本建国」の壮大な計画が見えてくるのだ。

 江戸から東京へ、近代国家建設にあたって、明治天皇は日本史上最大の怨霊を丁重に祀った。
 平安時代、日本を恐怖に陥れた怨霊・崇徳天皇の恐ろしい祟りとは?

 そして、明治神宮はなぜ現在の場所にあるのか?
 ここにも太陽の存在が強く意識されていた。
 太陽と東京と怨霊の祟り。教科書には載らない日本人の謎とは?

 そして今回、答えを求めてたけしが向かったのは世界遺産・熊野古道。
 そこで出会った荒ぶる日本の神の姿。
 原始日本に現れた、それは教科書には載らない神の姿。
 たけしは何を思い、何を見つけたのか。

 【ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎
     太陽と怨霊と天皇?「日本建国」の謎に迫る】



◆暦とカレンダー~太陰暦と太陽暦~

 カレンダーは何をもとに作られたか?それは太陽。
 今、私たちが使っている西暦はグレゴリオ暦と呼ばれ、地球が太陽を1周する公転周期365日を1年としたもの。
 しかし昔、日本人は太陽をカレンダーの基準にしていなかった。

 150年ほど前に描かれていた暦を見ると、そこに描かれているのは月。
 三日月(新月から3日目)が見える日付や角度などが記されている。
 昔の日本人は月の満ち欠けを基準にした暦を使っていたのだ。
 月が地球を一周するのにかかる日数はおよそ29.5日。
 昔の日本人はこの周期を1カ月とする暦を使っていたのだ。
 新月の日を1日とし、満月となった日を15日、晦日という月末29日を迎え、これを1カ月としていた。

 ちなみに本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日。
 この時、月は出ていたか?出ていなかったか?
 2日なら、ほとんど月の出ていない暗い夜。
 つまり昔は日付を聞くだけで、どんな月が出るか分かったのだ。

 昔の暦をよく見ると、現代ではあり得ない面白い事実に気づく。
 それは1年の長さ。
 ある年には1年が354日。またある年には384日もある。
 なぜなら、昔の暦は29.5日を1カ月としていた。これが12カ月分で354日。
 しかしこれでは365日に11日足りない。さらに3年経つと、33日も足らなくなってしまう。
 そこで3年に1度、足りない日数を補うため、「閏月(うるうづき)」というものを設けて30日を追加。
 1年を13カ月384日にして、誤差を調整していたのだ。

 では、このような複雑な暦の作成は誰が行っていたのか?暦を作るには、高度な天文学の知識が必要なはず。
 それを当時唯一できたのが陰陽師だった。

 「陰陽師というのは天皇が任命するもので、他の人たちは暦を作ったりできない。最先端の天文学の技術知識が陰陽寮に集められる。そのような特殊な機関だった」(旧竹田宮家出身 慶應義塾大学講師 竹田恒泰)

 最先端の技術・知識は門外不出。
 奈良時代や平安時代、朝廷は陰陽師以外に暦作成の許可を与えなかった。
 そこにはある理由が。

 「日食、月食、彗星が現れるということは、天変地異の一種と考えられてきた。陰陽師が事前に日食や月食を予想することはすごいことだった。科学的知識がない時代だから、予想できるのは神の技だった。天皇の神格の部分を担保していく役割があった」(竹田恒泰)

 つまり、暦を司ることは絶対的な権力の象徴でもあった。
 そこで朝廷は1000年以上に渡り、陰陽師が作成する暦を管理。

 その暦が西暦に変わったのは明治5年のこと。
 西洋文明に追いつくため、欧米諸国と同じグレゴリオ暦を使うことになった。
 これにより日本の暦の基準は1000年以上使われてきた月から太陽に切り替わり、閏月というものがなくなり、1年が12カ月365日と決められたのだ。

 この改暦により今の形となったカレンダー。
 そして日本人がカレンダーを気にする、ある生活習慣が生まれた。


◆暦とカレンダー~六曜~

 弘暦社(こうれきしゃ)と呼ばれる明治政府から承認されたカレンダー製作会社があった。
 が、カレンダーが売れずに悩んでいた。
 月・火・水…を30日にあてはめて繰り返すだけだから、誰でも作れる。
 しかもそれまでの旧暦のように暦注(れきちゅう)に占いを書くことが禁止されていたので、カレンダーというものに興味がわかないのだ。
 暦注とは、昔の暦に細かく記されていた日時・方位の吉凶や運勢・占い。暦注は人々の生活に浸透していたのだ。

 「新しい暦に変わった時に、暦注というのは禁止された。そうすると暦がのっぺらぼうな、何もないものになる。非常に民衆も困るということで、何か載っけないといけない。今までのものは載せられないので、新しいものを導入しようという頭の良い人たちがいた」(国立天文台情報センター 暦計算室室長 片山真人)

 文明開化に伴い、明治政府は占いや迷信である暦注を暦に載せることを禁止したが、そこには抜け穴が。
 六曜は禁止事項に入っていなかったのだ。
 六曜は旧暦では全く人気がなかったが、庶民は何かしらの占いがあれば喜ぶ。
 「ならばさっそく大安仏滅を書き入れて売り出そう!」
 こうして法律の規制対象にさえならないようなマイナーな存在だった六曜が、カレンダーに載るようになったのだ。

 もともと中国で生まれたとされる六曜(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)。
 結婚式は大安がいい、葬式は友引を避けるなど、主に冠婚葬祭と結び付けて使われている。
 明治時代の改暦以降、六曜はあっという間に日本人の生活に浸透し、今のカレンダーに欠かせないものになったのである。

 つまり六曜を気にするのは、明治以降にできた比較的新しい習慣。
 ちなみに「仏滅」は仏とは全く関係ない。昔は「物滅」と書いた。


◆日食と歴史的事件の関わり

 2009年7月21日、衆議院解散。
 その翌日7月22日、46年ぶりに日本で観測された皆既日食があった。
 現代では日食は「見たい」ものだが、その昔、日食はきわめて恐ろしいものだった。

 日食が起きる仕組みは今では誰もが知っているが、古代の人にとって太陽は光であり、熱であり、農作物を育てる、全ての恵みを与えてくれる存在だった。
 その太陽が夜でもないのに突然姿を消していくのだ。当時の人々の恐怖は想像するに難くない。

 実は過去の歴史的事件に日食が関わっていたということが分かってきた。
 それを研究するのが歴史天文学。
 太陽や月、星などの運行を過去にさかのぼって計算することで、歴史書の記述の正確さを検証できるようになったのだという。

 歴史天文学によって、過去さまざまな事件に日食が関わっていたことが実証されてきている。

 たとえば紀元前585年、現在のトルコであるリディア王国と、現在のイランであるメディア王国の戦争中に起こった出来事。
 「突如、太陽の光が失われた」と記録に残っている。
 太陽の光が失われると兵士達は「神の怒りだ」と戦いを止め、それがきっかけで何と15年に及ぶ戦争に終止符が打たれた。
 歴史天文学によって、実はこの時確かに日食が起こっていたことが改めて分かったのだという。

 聖書のマタイ伝にもこんな記述がある。
 イエス・キリスト処刑の時の描写。
 「昼の12時より闇が地の全てを襲い、3時にまで及んだ」
 これも日食のことだという説がある。
 歴史天文学によると、キリストが処刑された時代に近いと言われる西暦29年11月29日に日食があった。
 そしてキリストが処刑されたエルサレムでは、午前11時に95パーセント以上が欠ける日食が起こっていたことが判明した。

 実はこの歴史天文学から日本史上の重大事件も見えてきたのだ。

 ちなみに、日本で公式な文書に初めて記載された日食は西暦628年。
 「日本書紀」の推古天皇の記録の中に載っている。
 推古天皇は「日食から5日後に亡くなった」とある。

 「日本紀略」には975年にこんな記述がある。
 「太陽は墨色となり、群鳥は飛乱し、たくさんの星が見えた」
 平安京を初めて襲った皆既日食だった。
 太陽を信仰している日本において、これは人類最期の日に見えたに違いない。
 驚いた朝廷は天下に大赦を発表。死罪の者まで減刑が行われたという。さらには元号も「天延」から「貞元」に変えた。
 日食は時の権力者に大きなも大きな影響を与えたのだ。

 日本人は農耕民族で、太陽を信仰する思いは強い。
 その太陽が姿を消すことは、人々にとっては間違いなく恐怖だった。
 そのため時の政治を司る天皇は日食を災いとし、地に異変が起こらぬことを祈っていたという。

 「日食の光は穢れた光なんですね。平安時代から江戸時代まで続いていたんですけれども、日食の日は御所全体、大きな宮殿を全部ムシロで覆い隠す。それによって御殿も穢れないように、それほど念には念を入れて、穢れた光で天皇を穢さないように細心の注意が払われていました」(竹田恒泰)


◆日食と卑弥呼の死の関わり

 西暦158年、日食が起こったため、当時の日本である倭の国が大混乱に陥ったと、魏志倭人伝にある。
 その長く混乱した政治を治めたのが卑弥呼だった。
 邪馬台国の所在地については畿内説と九州説があり、現在も論争が続いている。
 卑弥呼は邪馬台国を神秘的な不思議な力でまとめ、民衆から恐れられていた。超常的な力を持つ、シャーマンのような存在だったのであろう。

 卑弥呼という文字は中国の魏志倭人伝による蔑称であり、日本では「日の巫女」と呼ばれるべき存在。
 「日巫女」とは太陽を司るという意味の言葉。太陽を神と崇める古代日本では最高の位。
 しかし、その死は大きな謎に包まれている。

 魏志倭人伝によれば、卑弥呼の死は西暦247年か248年。
 「卑弥呼は死に、直径百余歩の大きな塚が作られ、奴隷百人余りが共に葬られた」
 墓がどこにあるかは別として、卑弥呼が死んだとされる247年か248年に太陽に関する大きな事件が隠されていた。
 その2つの年にそれぞれ日食が起きていたのである。

 「事実です。両方とも深い日食ですので、気がついたと思います。気がつくほどの日食だと思います。空を見ればわかりますのでね。だけど真っ暗にはなりません」(国立天文台 谷川清隆)

 歴史天文学により導き出されたのは、247年3月24日の日食は、邪馬台国の二つの候補地である九州と畿内地方は部分日食が見えた地帯に入っている。時刻は夕方。
 翌248年9月5日の日食は朝で、かなり深い部分日食が見えた地帯にあった。

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 卑弥呼の死の原因には自殺説、世代交代、民衆によって殺されたなど、諸説あるが、太陽を司る女王として崇められていた卑弥呼が、日食によって権威を失ったことは大いに考えられることなのである。

 「朝鮮半島の方では災害が起こった場合に、あるいは作物が実らなかった場合に、王を代えたり、殺すという文化があったようです。もしかしたら卑弥呼も殺された可能性が無くはない」(活水女子大学教授 日本古代史 細井浩志)

 その卑弥呼の失脚が日本神話に大きく影響を与えている可能性も。

 「卑弥呼のことが神話化し伝承化したのが天照大御神ではないかという説があるわけです」(元・産業能率大学教授 邪馬台国研究の第一人者 安本美典)

 安本氏が指摘するのは、天照大御神の天の岩戸伝説。
 太陽の神である天照大御神はスサノオの乱暴を嘆き、天の岩戸に身を隠してしまう。太陽の神が姿を消したため、世界は真っ暗になってしまった。困った神々は策を弄し、わざと笑い声をあげ、不思議に思った天照大御神を見事、外に出すことに成功するという話。

 「つまり太陽が隠れてまた出てくるというのが、天照大御神が天の岩戸に隠れてまた出てくるという話、そしてまた魏志倭人伝によれば、卑弥呼が死んでしばらく経って一族のトヨが女王になるという話と、全体の話の筋が非常によく似ている」(安本美典)

 つまり日食がきっかけで死に至った卑弥呼が、天の岩戸に身を隠した天照大御神のモデルではないか?というのだ。
 日本最古のミステリー・卑弥呼の死は、日食が原因による政権交代だったのか?

 そういえば、昨年7月21日衆議院解散、翌22日に46年ぶりの皆既日食。
 政権交代が日食の年に起こったことはただの偶然だろうか?


◆地名の由来

 この国には実にさまざまな地名がある。難しい読み方の地名や、いわくありげな地名など。
 そもそも日本に地名はいくつある?

 「無数と言ったら一番いいですね。地図とか本に載ってる地名以外に、一般の人々が生活している様々な街角や村の隅とか、そういう所に全部地名があるので」(筑波大学名誉教授 谷川彰英)

 ちなみに、ある地名辞典を見てみると、載っているものだけでも2万個以上の地名が。

 ではいったい、いつから日本人は地名を使っていたのか?
 待ち合わせをしたり狩りの場所を決めるなど、地名は太古から人間が共同生活するためには欠かせないものだった。
 しかし中国から漢字が入ってくる以前の日本では話し言葉があるだけ。つまり言葉は「音(おん)」だけしかなかった。

 たとえばこんな場所で待ち合わせをする場合、この場所を表す地名を「音」だけでどう表現したのか?

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 大昔、人々はこの植物を「KI(キ)」と呼び、その場所を「SITA(シタ)」と呼んだ。この2つの「音」を合わせて「キノシタ」。
 言葉は口で話し、耳で聞くだけだった日本人は、この「キノシタ」という「音」を地名として使っていた。

 そんな中、中国から漢字が伝わって地名は一変する。

 「日本に漢字が輸入されて来るのが6世紀。それまで文字がなかった日本の社会の中に漢字が入ってきて、漢字を当てはめていこうという、それがある種、集大成を迎えるのが奈良時代の古事記・日本書紀」(谷川彰英)

 712年に成立した日本最古の歴史書・古事記。そこには、伊勢や淡路など現在にも使用されている地名がすでに記されている。1300年以上も前から地名は文字で表現されていた。

 では日本の地名はどのようにつけられていったのか?

 「日本の大きな特徴は地形。地形の複雑さ。80%が地形から来てます」(谷川彰英)

 小さな島国なのに複雑な地形を持つ日本。その地形の複雑さが世界にも例を見ない数多くの地名を作りだしているという。

 たとえば古事記にも登場する「近淡海(ちかつあわうみ)」。現在の滋賀県をあたりを指すのだが、どんな由来が?
 「近淡海」=都の近くの淡水の海、琵琶湖を指していた。
 「近淡海(ちかつあわうみ)」→「近淡海(あわうみ)」→「近海(あわうみ)」→「近海(おうみ)」→「近江(おうみ)」

 古事記で静岡県西部を指す「遠淡海」(とおつあわうみ)。
 都から遠い淡水の海、浜名湖が由来だった。
 「遠淡海(とおつあわうみ)」→「遠海(とおつあわうみ)」→「遠海(とおとうみ)」→「遠江(とおとうみ)」

 地形ではなく、特産品が由来になった地名もある。
 現在の長野県を指す「信濃」。これは科の木の産地だった。
 「科野」→「信濃」

 豊かな地形や自然に囲まれた日本は、まさに世界一の地名大国だった。
 そして、地名は私たちの時代にも次々と生まれていた。その中にはあっと驚く由来を持つ地名も。

 北海道旭川市の「パルプ町」。町にある大きな製紙工場が由来。
 山口県小野田市の「セメント町」。明治時代から続く伝統産業。

 一見由緒あるような地名、千葉県の「舞浜」も最近のもの。
 1974年、浦安市第一期埋め立て事業中にあるものを作ることが決定。それが1983年にオープンした東京ディズニーランド。
 そこで、ディズニーワールドがあるアメリカ・フロリダのマイアミビーチ市にちなんで「舞浜」と名付けられたのだ。

 さらに、江戸時代までは反対の意味の言葉だった地名も。
 東京都葛飾区の「亀有」。
 この地名は江戸時代より前は「亀梨(かめなし)」という地名だった。
 それが江戸時代、幕府が地図を作る時、「梨」は「無し」と聞こえて縁起が悪いということで、「亀有」に変わったというのだ。

 一方、織田信長が名付けた地名が「岐阜」。
 これは稲葉山城(現在の岐阜城)を制圧した信長が、この地に天下を取る人間にふさわしい地名をつけようと命名したのが由来。
 信長が命名のヒントにしたのは、中国の2人の聖人にちなんだ地名。
 周王朝の創始者・武王。その周王朝の発祥の地とされるのが「岐山(ぎざん)」という場所だった。もう一人は孔子。孔子が生まれたのが「曲阜(きょくふ)」という場所。
 この2つから取って、信長は「岐阜」と命名したという。

 一方、外国人の名前が由来になった地名も。
 東京駅の八重洲口で知られる「八重洲」。
 由来となった人物は「ヤン・ヨーステン」。東京駅の地下に銅像がある。1600年に日本に漂着したオランダ船の船員だった。その後、現在の東京駅近くに住み、徳川家康の通訳を務めた人物。
 「ヤン・ヨーステン」→「ヤヨス」→「八代洲」→「八重洲」

 さらに日本人と地名を語る上で欠かせない大切な由来が存在した。
 それは神話が由来の地名。

 「鳥取県に白兎(はくと)神社、白兎(はくと)海岸というのがある。神話の『因幡の白兎』。そこが今でも白兎神社、白兎海岸というのがある」(谷川彰英)

 以下、番組出演者の出身地の地名の由来。

・ビートたけし
 東京都足立区の「足立」
 一説にはこんな神話があったと言われている。
 東国征伐に向かったヤマトタケルの足が急に動かなくなり、この地で祈願したら足が立つようになったからという神話。
 もっとも、湿地が多く、葦が生い茂っていて、葦が立つから「足立」になったという説が有力だが。

・木下優樹菜
 東京都葛飾区の「葛飾」
 一説には、植物の葛が生い茂っていたことから「葛繁」→「葛飾」。

・東国原知事
 宮崎県都城市の「都城」。
 室町時代の武将・北郷義久が築城した都之城が由来。

・石原良純
 神奈川県逗子市の「逗子」
 逗子の延命寺に弘法大師が立ち寄り、本尊の延命地蔵を安置する逗子(仏像などを安置する仏具)を設けたことから「逗子」になったと言われている。
 他には、「辻」がなまって「逗子」になったなどの説も。

・ビビる大木
 埼玉県春日部市の「春日部」
 この地域出身の鎌倉時代の武家・春日部氏にちなんでいる。

・高畑淳子
 香川県善通寺市の「善通寺」
 ここでまた弘法大師こと空海が登場。善通寺は空海の出身地でもあり、この地に空海は善通寺を建立。「善通」とは空海の父の法名だった。

・荒俣宏
 東京都台東区鶯谷の「鶯谷」
 江戸時代、鶯谷の隣、上野の寛永寺の住職は代々京都からやってきた皇族が務めていた。ところが、そのうち一人の住職が「江戸の鴬はなまっている」と言い出して、わざわざ京都から鴬を運ばせてこの地域に放し、新たな鴬の名所となった。ここがいつのまにか鶯谷という地名になったとか。

 このように日本の地名は、豊かな自然や長い歴史、人々の生活に密着した様々な由来を持ち、現代に受け継がれている。

 そして今から1300年以上も前に、歴史上初めて、日本に数ある様々な地名を全国的な規模でまとめた壮大な書物が完成した。それが風土記。
 そして日本最古の地理書、この風土記にも教科書に載らない日本人の謎が。


◆風土記と地名の関わり

 そもそも「風土記」とは?

 「奈良時代の初め、713年、元明天皇という女帝が風土記を作れと諸国に命令した」(駒澤大学教授 瀧音能之)

 時の天皇・元明天皇は当時およそ60余りあった諸国に、それぞれ地元の文化・風土を記録、編集するように命じた。

 そこには5つの必須項目があった。

1.何が取れるのか、そこの産物を明記する。
2.土地は痩せているのか肥沃なのか、その土地の状態を記録する。
3.山や川などの名前と由来を明らかにする。
4.その土地に伝わる昔話や伝承などを記す。
5.もとの地名を縁起の良い2文字に変える。


 なぜ元明天皇は風土記の編纂を命じたのか?

 「2つの考え方ができる。1つは中国の歴史書を真似てお手本にして、古事記・日本書紀を作ったが、中国の場合、歴史書の中に必ず地理部門が入っている。ところが、古事記・日本書紀にはそういうものがない。そこで地理部門が必要だというので風土記が作られたという考え方が1つ。古事記・日本書紀は歴史書だから、時間の流れを追っている。つまり時間的に日本列島を天皇が支配する、それが目的。それと同時に今度は空間的に日本列島を支配する」(駒澤大学教授 瀧音能之)

 「空間的に日本列島を支配する」とは?
 少しこの時代の日本を整理してみると……。

 時は646年、大化改新が起こり、以降、日本は天皇を中心とした政治が押し進められることになる。
 そんな中、672年の壬申の乱を経て、673年に即位した天智天皇の弟・天武天皇が中国を見習って、全国的な律令制度の整備をスタート。
 続く持統天皇の時代に、徐々に律令制度は日本全国に広まり、ついに天武天皇の孫である文武天皇が701年に大宝律令を制定。
 この文武天皇の後を継いで即位した、母である元明天皇は大宝律令をさらに徹底するため、地方の状況を正確に把握する必要があった。そこで713年、風土記の編纂命令が全国に発せられたのだ。

 風土記に必要な必須項目の最後の1つ「もとの地名を縁起の良い2文字に変える」は、現在の地名に影響を及ぼす重大な必須項目だった。

 たとえば「木の国」という地名だったある地方は、木が多いから「木の国」と呼ばれていたが、「紀伊(きい)」に変わった。

 実はそれまでは「音」に合わせて、適当な漢字をあてはめただけの地名が多く存在していた。それを元明天皇は風土記の編纂に合わせ、地名を縁起の良い2文字に変えることを命じたのだ。例えれば、今から1300年前に事業仕分けならぬ、地名仕分けが行われていたということか?

 たとえば、こんな地名の変更があった。

 「窪」(くぼんだ土地)→「久保」(久しく保つ)

 「泉(いずみ)」→「和泉(いずみ)」(無理やり読まない「和」の字を足した。大阪府和泉市)

 新潟のあたりを指す地名だった「越(こし)」。都(大和)から見て山を越したあたりにあったから大ざっぱにつけられた地名だったが、都から見て前にあたる部分、真ん中あたり、後ろにあたる部分に分けて、それぞれ「越前」「越中」「越後」に。

 九州・阿蘇山の付近は活火山だった阿蘇山にちなんで「火の国」と呼ばれていたが、「火」を「肥」(肥沃な)に変え、さらに「肥前」「肥後」という2箇所の地名に。

 粟の産地だった徳島県の北の地域は「粟」→「阿波」

 荒俣宏氏によれば、三重県の「三重」も、由来は、ヤマトタケルが歩けなくなって杖をついて歩いて、足が「三重」に見えたという説が。

 また、江戸は外国人由来の地名がけっこう多いそう。たとえば、かつて東京・日本橋にあった町名、按針(あんじん)町は、江戸時代に済んでいた三浦按針(ウィリアム・アダムス)が由来。


◆出雲の謎パート1

 風土記の中で、まとまった形で現存するものは、常陸・播磨・豊後・肥前・出雲のわずか5カ国分のみ。
 この中に特に異彩を放つ風土記がある。

 まずは編纂された時間を比べてみると、わずか数年で編纂されたと考えられている播磨国風土記や常陸国風土記などがある中、出雲国風土記はなかなか完成せず20年もかかったとされる。

 また、出雲国風土記は他の風土記とは決定的に違う唯一の風土記とも考えられている。

 「一般の風土記の場合、地方の役人が編纂したが、出雲国風土記の場合、役人が作ったという跡が全く見られない。その代わりに、今の出雲大社の宮司さんの祖先、出雲臣広島(いずものおみひろしま)という人物が最高責任者。で、その下に神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)とう謎の人物、あえて言うと、出雲の歴史に大変詳しかった人物、この人が実行委員長のような形で編纂したのではないかと。こういう風土記はおそらく出雲国風土記だけ」(瀧音能之)

 常陸・播磨の風土記は都から派遣された役人が編纂。豊後・肥前の風土記は大宰府から派遣された役人が編纂。
 が、出雲国風土記は役人ではない土地の有力者が編纂。

 なぜか?出雲は何か特別な場所だったのか?中央の大和政権とはいったいどんな関係だったのか?
 その謎を解く鍵が出雲国風土記の中に隠されていた。

 「古事記・日本書紀に大活躍するスサノオノ神や大国主神がいるし、ヤマトノオロチ退治だとか、因幡の白兎などの神話が有名だが、出雲国風土記には逆にそういった話が全く出てこない。出雲を舞台に出雲の神様が出てくるのに、どうして出雲国風土記には出てこないのか?謎ですね」(瀧音能之)

出雲国風土記の謎-1
 古事記や日本書紀にある、出雲が舞台の有名な神話がなぜか書かれていない。


 「逆に出雲国風土記には国引き神話という有名な話があるが、それが逆に古事記・日本書紀には全く出てこない。これも不思議な話」(瀧音能之)

出雲国風土記の謎-2
 逆に、出雲国風土記にしか記述がない神話がある。

 
 それが国引き神話。出雲の国が狭いので、力持ちの神様が島々に綱をかけて引き寄せたという神話。
 なぜ出雲国風土記にしか描かれていないのか?

 異彩を放つ出雲。他の地域とは違う特別な場所だったのか?絶対的な権力を持ちつつあった中央の大和朝廷に対して特別な存在だったのか?

 「出雲というのはある意味で特殊な場所。やはり律令政府(大和朝廷)は出雲には気を遣っている、特別視しているところがある」(瀧音能之)

 そこには「日本建国」にまつわる秘密が隠されていた。

 出雲という地名の由来は、雲がわき出るような空模様だと言われる。
 昨年の出雲地方の天気を調べると、晴れは約178日、雨・曇り・雪が約178日と、確かに雲が多い。
 だが、出雲の由来には他にも意外な説が。

 古来、「雲」という文字には死んだ人の「霊魂」や「神」を象徴する場合がある。つまり出雲とは霊魂や神様の出づる国?
 さらに、「いづも」とは、夕日が沈む方角という言葉「夕つ方(ゆうつも)」が変化して生まれたともいう。つまり出雲とは西を指す言葉?

 「神様」そして「夕日が沈む西」。
 出雲という地名から浮かび上がるこの言葉こそ、古代、出雲が特別な場所だったことの証。
 実は出雲には古くから伝わる5つの謎がある。
 「神様」「夕日が沈む西」はその謎を解くキーワード。

1.10月の呼び名が違う。
  一般的には「神無月」だが、出雲では「神在月」。
2.柏手の数が2倍。
  一般的な参拝は2拝2拍手1拝。しかし出雲大社では2拝4拍手1拝。
3.注連縄が逆向き。
  向かって左側が太く、右側が細い。多くの神社とは逆向き。
4.意外な方向を向く御神座。
  御神座とは御神体を祀る場所。普通は参拝客に向かい合うよう南向きになっているが…。
5.縁結びに強い。
  この理由も出雲の成り立ちに大きな関わりが。

 この謎が解ければ、ある人物の「日本建国」にまつわる壮大な計画が見えてくる。
 その人物とは、天武天皇と持統天皇。

 まず、出雲の地名に秘められたキーワード「神様」から迫ってみる。

 出雲大社に祀られているのは「大国主神(おおくにぬしのかみ)」。スサノオノミコトの子孫にあたる国造りの神様。古事記によれば、大国主神は葦原中国(あしはらのなかつくに)を作り、治めていた。

 その葦原中国の様子を高天原から見ていたのが天照大御神。彼女は、地上の世界を自分の子孫に譲るよう、使いの神を送った。

 大国主神は「この国を譲るべきか、私の代わりに2人の息子が答えるでしょう」。
 さっそく息子のもとへと向かった神の使い。
 1人目の息子コトシロヌシノカミは国譲りをあっさり承諾。
 2人目の息子タケミナカタノカミは力比べを求めたが、一瞬で降参。

 大国主神は使いの神にこう告げた。
 「葦原中国は天の神々にお譲りしましょう。ただ、天の宮殿のように柱が太く、高くそびえるような家に住むことを許してくれるなら、以後、私は表には現れず、黄泉の国に隠れましょう」
 そう言って姿を消したという。

 その言葉の通り、大国主神のために建てられた大きな建物、それこそが出雲大社だという。
 しかし、大国主神が言い残した「以後、私は表には現れず、黄泉の国に隠れておりましょう」とはいったいどういう意味?

 「大国主神が『現世』の政治、つまり政(まつりごと)は天孫に、天照大御神の子孫に委ねると。その代わり自分は『神の世』、この世にいろんな影響を与える霊力の世界とか、あるいは神々の御神霊の世界、その神々の世界、霊魂の世界は自分が治める、こういうふうに言ったわけです」(国立歴史民族博物館 教授 新谷尚紀)

 この言葉こそ、10月がなぜ「神在月」と呼ぶのか、その謎を解く鍵だったのだ。
 「神の世界は私が治める」と大国主神がそう告げて以来、日本全国に祀られた八百万の神は年に一度、出雲大社を訪れ、「神議(かむはかり)」という会議を行うようになった。

 年に一度「神議」が行われるのが10月だった。そして国中の神様が出雲に出かけてしまうので、出雲から見ると、他の土地には神様はいない。まさに「神無月」。出雲には神様があふれ「神在月」。

 出雲大社の始まりを伝える「国譲り」の神話。
 そこには地上の神・大国主神から、天の神・天照大御神への政権交代が描かれていた。

 が、しかしこの国譲り、実際に古代の日本で行われた、ある「チェンジ」をもとに描かれたかもしれないというのだ。
 
 「1つは全くの神話であるという考え方。もう1つはある程度、歴史的な事実を反映させているという考え方、この2つがある。実際に出雲大社という大きな社が古代以来あるので、私はやはり、ある一定の歴史を反映しているという立場をとっています」(新谷尚紀)

 古事記や日本書紀を編纂するよう天武天皇が命を出したのは7世紀後半。
 これより200年ほど前、日本は倭国と呼ばれ、大君と称する国王を中心に各地の有力士族が手を結んだ「大和王権」が勢力を広げていた。

 だが、その最中、大和政権と対立した勢力があったという説が。それこそ近年、多数の銅剣や青銅器が発見され、研究者の注目を集める出雲国。
 たとえば1984年、荒神谷(こうじんだに)遺跡から発見された銅剣358本。それまで全国で発見された銅剣は約300本。当時の出雲が大きな力を持っていたことが推測される。

 つまり国譲りとは、天の神々ならぬ大和王権の大君が、地上の神、大国主神ならぬ出雲の王に降伏を迫った話とも解釈できるのである。
 しかし、ここである疑問が。

 「普通だったら攻め滅ぼすんですよ。本当に大和王権と戦って潰されたのなら、その信仰もなくなってなきゃいけない。それがちゃんと今も信仰が残っている。現に出雲には、出雲信仰が今も残っているわけですね」(竹田恒泰)

 なぜ大和朝廷は対立した出雲の神を大事に扱い、その信仰を残したのか?


「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終に続きます。

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