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外国人から見た日本と日本人(15)

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 「外国人から見た日本と日本人」第15弾です。

 今回も有名な人、さほど有名でない人、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 
イザベラ・バード=イギリス人。1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。当時の女性としては珍しい旅行家で、世界の広範な地域を旅行。
「イザベラ・バードの日本紀行(上)」より
会津の高田近辺での記述


 馬に乗ったあと、わたしは鞍の突起に掛けてあるケースから望遠鏡を取り出しかけました。すると、例によって野次馬が老いも若きも全速力で逃げまどい、子供など急ぎあわてるおとなに押し倒されています。伊藤(注:通訳)が言うには、みんなわたしがピストルを取り出して脅そうとしていると思ったとのこと。わたしは伊藤にそれがなんであるかを説明してもらいました。というのも、彼らはおとなしくて害がなく、いちいち腹を立てていたら、こちらが真剣に後悔しなければならなくなる、そんな人々なのです。

 ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として不作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、不作法ではありません。

 馬子(マゴ)はわたしが濡れたり怖い思いをしたりしないかと気を遣い、旅の終わりには革ひもやゆるんだ荷がすべて無事かどうかを几帳面に確かめてくれます。そして心づけを当てにしてうろうろしたり、茶屋でおしゃべりをするために休憩したりなどせず、さっさと馬から荷を下ろすと、運送業者から伝票を受け取って帰っていきます。ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。

キャサリン・サンソム=イギリス人。1883年(明治16年)生まれ。1928年(昭和3年)、外交官にして日本研究者である夫ジョージ・サンソムの赴任に伴って来日し、1936年(昭和11年)まで滞在。
「東京に暮らす―1928~1936」より

 日本人には確かに暮らしをよくしていく知恵と才能が備わっています。西欧のものに強い関心を払っていますし、持ち前の頭のよさと腕のよさでほとんど何でも作ってしまいます。電化はイギリスよりも日本の方がはるかに進んでいます。素晴らしい学校もありますし、良い道路も作られるようになりました。

〈中略〉映画館の数はイギリスの都市とほぼ同じですし、立派なものが建設中です。有名な美しい映画館の音響設備は世界一です。一般大衆の趣味が良いから、センスのよい商品が求められ、生産されるのです。

ポール・クローデル=フランス人。外交官。1868年(慶応4年)生まれ。日本の芸術を熱烈に愛好していた姉のカミーユ・クローデル(ロダンの弟子)から葛飾北斎や喜多川歌麿を紹介されたのがきっかけで、日本に強く惹かれるようになった。アメリカ、中国、ヨーロッパ諸国などへの駐在生活を経た後、1921年(大正10年)から1927年(昭和2年)まで駐日大使を務め、日仏の経済交流や文化交流を積極的に進めた。
1943年(昭和18年)の秋、パリのある夜会に招かれた時のスピーチ

 私がどうしても滅びてほしくない一つの民族があります。それは日本人です。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にありません。

 日本の近代における発展、それは大変目覚しいけれども、私にとっては不思議ではありません。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になって急に欧米の文化を輸入しても発展したのです。

 どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はありません。しかし、日本にはその資格があるのです。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのです。

〈中略〉彼らは貧しい。しかし、高貴である。

ラッセル・ブラインズ=アメリカ人。記者。AP通信社東京支配人。
「マッカーサーズ・ジャパン 米人記者が見た日本戦後史のあけぼの」より
昭和天皇の御巡幸に関する記述


 緊張は、群衆の中からむせぶような歓呼の声があがるとともに和らげられた。ほっとした面持ちで天皇は顔をほころばせて帽子をとり、それを元気よく振り回した。群衆もまたそこで活気づき、歓声をあげてこれに応じた。天皇は歓声が止むたびに、まるで静けさを恐れるかのように再び帽子を振り、首を振った。

※昭和天皇はろくに警備もできない敗戦後直後の日本中を回られました。時には役所の会議室に、時には駅の引込線の中の列車に宿泊されて……。それでもテロの危険はなかったのです。御巡幸は、敗戦にもかかわらず、日本人の一体感が少しも揺るがぬことを示しました。当時のイギリスの新聞も「すべてが混乱する中で唯一つ安定的な要素は天皇である」と書いています。

モーリス・パンゲ=フランス人。日本文化研究者。1960年代に東京日仏学院院長も務めた。
「自死の日本史」より
大東亜戦争で戦った特攻隊員について


 殺戮のために選ばれた犠牲者たちさ、と読者諸賢は言うだろうか。だがそれは違う。彼らが自分たちの運命を受け入れる、その受け入れ方を見ないのは、彼らを不当に貶(おとし)めることになるだろう。

 彼らは強制され、誘惑され、洗脳されたのでもなかった。彼らの自由は少しも損なわれてはいない。彼らは国が死に瀕しているのを見、そして心を決めたのだ。

 この死はなるほど国家の手で組織されたものではあったが、しかし、それを選んだのは彼らであり、選んだ以上、彼らは日一日とその死を意志し、それを誇りとし、そこに結局は自分の生のすべての意味を見出し続けるのだ。

〈中略〉彼らにとっては単純明快で自発的な行為であったものが、われわれには不可解な行為に見えたのだ。強制、誘導、報酬、妄想、麻薬、洗脳、というような理由づけをわれわれは行なった。

 しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の眼には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのは、この透明さだ。
 生きていることが美しかるべき年頃に、立派に死ぬことに、これらの若者たちは皆、心を用いた、そのために彼らは人に誤解された。

〈中略〉彼らにふさわしい賞賛と共感を彼らに与えようではないか。彼らは確かに日本のために死んだ。だが彼らを理解するのに日本人である必要はない。死を背負った人間であるだけでよい。

グレース・ケリー=アメリカ人。1929年(昭和4年)生まれ。ハリウッド女優。気品をたたえた美貌は「クールビューティー」と賛美された。モナコ大公レーニエ3世に見初められ、1956年(昭和31年)に結婚、公妃となったため女優業を引退。1981年(昭和56年)に来日し、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)や京都を訪れ、有馬温泉の老舗旅館に宿泊した。日本の生け花に興味を持つなど、日本贔屓な面がもともとあった。翌1982年(昭和56年)、自動車事故により死去。
09/9/11放送テレビ東京系「世界を変える日本人SP」より
1981年の来日時の発言


人間だけでなく生きるもの全てに対する日本人の規律正しさ、慎み深さ、内に秘めた心遣いに強く心をうたれました」

「(桂離宮について)家全体が自然と向き合って、庭と建物とが互いの流れの中で一体となっているのです」

「(桂離宮の月見台について)ただ月を眺めるためだけに竹で縁側を作るとは、何と素敵なセンスではありませんか

「計り知れない計画と努力によって作られた、光と影の何気ない組み合わせ。この美しい日本の庭を決して忘れません」

「私はこうした日本人の美的センスは強制されたものではなく、生まれながらにもっている心遣いが自然に出てくるものだと悟りました」

モナコの海沿いには日本庭園があります。日本贔屓のグレース・ケリーは生前モナコに日本庭園を造ることが夢だったそうで、彼女の没後、夫であるレーニエ大公がその遺志を継ぎ1994年に造ったのだそうです。
 別府梢風園さんのHPにこの日本庭園の「バーチャルツアー」があります。新国際学会周遊記さんには写真とレポが掲載されています。

リチャード・ギア=アメリカ人。1949年(昭和24年)生まれ。映画俳優。「愛と青春の旅だち」「プリティ・ウーマン」などの有名な映画の他に日本のCMにも出演。熱心な仏教信者・人道主義者としても知られており、ダライ・ラマ14世を熱心に支援し、中華人民共和国政府によるチベット民族迫害を激しく非難している。2009年夏、亡くなった飼い主の帰りを駅で待ち続けた秋田犬、ハチ公の物語をアメリカで映画化、主演・プロデュースを担当した。
映画「HACHI 約束の犬」について語ったインタビューにて

「(シナリオを)読みながら涙が止まらなかった。自分の調子が悪いのかと思い、翌朝読み直したけれど、やはり泣いた。その晩、友人にストーリーを説明しながら、また目頭が熱くなった」

「(教授を待つハチの姿は)日本の修行僧が瞑想の世界に入る姿に似ているように感じた」

「日本は世界一好きな国。日本人にはハチ公のような辛抱強さがあると感じる。忍耐は美徳だと思う

盧千恵(ロー・チェンフイ)=台湾人。1936年(昭和11年)日本統治下の台湾に生まれる。高卒後の1955年(昭和30年)に来日し、56年、国際基督教大学入学。61年(昭和36年)、早稲田大学留学中の許世楷氏(2004年から08年まで台北経済文化代表処の駐日代表)と結婚。夫とともに台湾独立、民主化運動にかかわりパスポートを没収される。92年、国民党政権のブラックリスト解除で一時帰台、翌年帰台。2004年、代表夫人として再来日。児童文学者でもあり「台湾歴史童話」など著書多数。
「正論」2009年9月号 金美齢×盧千恵【台湾人にとっての「昭和」】より

 私の母方の祖父は、二番目の兄を日本軍に殺害される現場を目撃したことで、一生涯日本に対し癒されない傷を負い、日本に反抗し続けた人物です。その祖父と汽車に乗ったときのこと。

 九州とほぼ同じ広さの台湾は、海岸沿いの都市を結ぶ鉄道網が1908年に完備しています。全島を一周する幹線のほか、数箇所の盲腸路線(行き止まりの線路)があります。いずれも日本人の技師と台湾人が一緒になって南北両端から工事を開始したものですが、北の山岳部はトンネル掘削という難工事が、南はマラリアや赤痢といった熱帯病、息苦しい蒸し暑さに耐えての工事となる。祖父は最初南北の線路が繋がらないのではと、冷ややかな目で見ていましたが、それらに耐えて、台中市でちゃんと南北の線路はつながっています。

 祖父は日本人の勤勉さや仕事の的確さには感心したとフェアに語っていました。反日的だった祖父でも、実は心の底では日本人を認めるところがあったのです。

金美齢=台湾人。1934年(昭和9年)台北生まれ。日本統治下の台湾で育ち、日本敗戦後国民党による台湾人弾圧時代を経験。1959年(昭和34年)日本に留学後、台湾民主化運動に参加。このため30年間以上も台湾の土を踏むことができなかった。多くの大学で講師を歴任。1988年から2000年までは学校法人柴永国際学園JET日本語学校校長も務めた。台湾の民主化が進んだ後、2000年から2006年まで総統府国策顧問。
「正論」2009年9月号 金美齢×盧千恵【台湾人にとっての「昭和」】より

 どんな国の歴史にも光と影があります。私は客観的に見ても、台湾の「日本時代」はベル・エポック(良き時代)だったと思います。たとえばこんなエピソードがあります。1946年の春、台北第一高女ではまだ授業時間以外はみんな日本語で話をしていました。

 ある日、私は最上級生の先輩に誘われて隣の建国中学(旧台北一中)の生徒たちの集まりに参加したんです。それは送別会でした。元一中の生徒が強制的な中国語教育や中国人としてのアイデンティティを押しつけられることに耐えかねて、日本への密航を企てているというんです。基隆港から漁船に乗り込んで何とか“憧れの日本”に行きたいと。送る側も、送られる側も、何の疑いもなく、日本は祖国で、希望の地だと信じていたんです。

 その生徒の企てはあえなく失敗に終わり、彼はのちに台湾大学に学び、卒業後は公務員として平凡ながら安定した生活を送りましたが、もし当時の台湾の若者に国籍選択の自由があったら、大多数が日本人になることを選んだと思います。こうした感覚は強制では生まれてこない。日本が台湾で行ったことは、それまでの欧米の植民地経営とは明らかに異なるものだった。その特殊性を日本人、台湾人双方が理解することが大切です。

李登輝=1923年(大正12年)台北生まれ。京都帝国大学農学部に進み、4年(昭和19年)陸軍入隊。終戦後、台湾大学講師、台湾省農林庁勤務、米国留学などを経て71年国民党に入党。72年行政院政務委員として入閣。台北市長、政府首席等を歴任。84年副総統に指名され、88年1月総統に昇格。96年台湾初の総統直接選挙に当選。2000年国民党首席を辞任。総統引退後、台湾独立の立場を明確にした。
2009年9月5日、日比谷公会堂で行われた講演より

 明治維新を動かした憂国の志士は丁度みなさんのような三十代前後の青年達です。徳川末期の若者達が、その置かれた立場の違いにもかかわらず、申し合わせたように政治改革の必要性を感じ取っていたことは実に印象的です。

 忘れてはならないことは、(坂本)竜馬が長崎から京に上る船の中で、改革案を八箇条にまとめたことに表れているように、当時の青年達は、ただ血気にはやってことを進めたのではなく、よく国勢を了解し、国運を己の使命と受けとめて活動していたということです。

 竜馬の「船中八策」は、古今を問わず、日本の若い青年を鼓舞するものであり、若い青年たちの命を賭した実践は、永く歴史の記憶に刻まれています。
 日本だけではありません。日本と同じく周囲を海に囲まれた台湾に住む私自身も、「船中八策」に大いに励まされてきたのです。

※船中八策とは…
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

アレクサンダー・ゲルマン=アメリカ人。1967年(昭和42年)生まれ。90年代から、ニューヨークを拠点にグラフィックデザイナーとして活躍。企業のブランディングに定評があり、100本以上のCMやプロモーションビデオを制作した。イエール大学、マサチューセッツ工科大学メディアラボの客員教授などを歴任。38歳でビジネスの世界から身を引き、現在は東京を拠点にして、漆器や九谷焼といった石川県の伝統芸能の職人たちとの共同作業にいそしんでいる。
「正論」2009年11月号【鍵は文化の発信力 アレクサンダー・ゲルマンに聞く「ポスト・グローバルは日本の時代だ」】より

 なぜ日本人は自分自身を正しく認識することができないのでしょうか。日本人の自己認識は常に欧米人の浅薄な日本人観を写したものになっています。欧米人が『日本人はコピーはうまいが創造性はない』と言えば、その通りだと考える。そろそろそういった悪癖から脱するべきでしょう。日本人はこれからの世界のリーダーとなるバックグラウンドを備えていることをきちんと認識すべきです。

 日本人は江戸時代から続く文化に身を置いて21世紀のテクノロジーを自在に操る。こんな民族はほかにはいません。

 ポスト・グローバル時代の鍵はローカルの自立です。そして自立の核となるのは独自の文化なのです。独自の文化こそがローカルにアイデンティティーを与え自立へと導く。私は日本の伝統工芸に核となる可能性を強く感じたのです。

 世界はまだ『タイム・イズ・マネー』という効率の価値観に支配されていますが、私は日本での共同作業で、何かを作るためには『時間』が非常に重要であることを学びました。欧米人には無駄と思われる時間も、実は非常に深い意味があるということをね。

 重ねて言いますが、日本人は自国のさまざまな文化について、欧米人の言説に惑わされずに自ら哲学的、客観的に分析してみるべきでしょう。そうすれば、これからの時代に、自分たちがかつてないスケールで、世界のリーダーになる資格があることを発見できると思うのですが。

王源=台湾人。地質学者。1944年、旧制台北高等学校(現・台湾師範大学)に入学、万葉学者の犬養孝(1907年~1998年)に万葉集を教わった。
09/11/10放送 NHK教育「日めくり万葉集」より

 私は今、日本人の隣人として、非常に幸福に思うのはそこ(学生時代に万葉集を学んだこと)です。
 日本のもとの、非常に基底にある、おおもとにあるその日本人の心、それを万葉に学んだからです。

※王源さんが旧制台北高等学校に入学した際、犬養孝から入学を言祝いで贈られたのが、額田王のこの歌でした。
 「熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな」

崔益錫(チェ・イックソック)=韓国人。1972年(昭和47年)生まれ。ソウルにある日本料理店で調理師をしていた時、「すし」と出会い、ぜひ本場で修業したいと思い、1989年に来日。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 日本の料理で私が最も素晴らしいと思う特徴は、素材の持ち味を生かす、旬のものを使い季節感を大事にする、食材が健康に良い、盛つけが美しい、などです。目と舌で楽しむ日本料理の心は、周囲を思いやる謙虚さや、控え目な生活姿勢に通じるのではないでしょうか。例えば、ある寿司店でのこと、テレビなどで顔の売れた有名人や大学教授やお医者様がいらしても、偉そうに威張った素振りも見せず、周囲のお客様にとけこんでいる様子を見て、目が開かれる思いがしました。

〈中略〉現在、日本食は世界中から注目されています。特に寿司は素晴らしい。酢飯は太らない、青魚(サバ、アジ、イワシなど)は頭脳と心臓に良い。優秀な健康食として、その国その土地にある食材を具にした新しい形の寿司が、アメリカを始め世界各国にとり入れられ、広まっています。「すし」という食文化が、新しい生き方にも通じるものとして、世界中の人々に愛されていく。なんと素晴らしいことでしょう。

 私は料理を通じて日本の奥深さ、歴史に培われた文化、職人技の見事さなどに魅力を感じ、知りたいこと勉強したいことが多く、なかなか帰国できそうにありません。

G・M・ナイル=インド人。1944年(昭和19年)生まれ。「ナイルレストラン」店主・社長。父はインド独立運動家のA・M・ナイル氏。A・M・ナイル氏は昭和3年に京都大学の留学生として訪日し、太平洋戦争が始まる前に日本女性と結婚。疎開先の茨城でG・M・ナイル氏は誕生した。日本滞在期間61年。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 インドのため、日本のために運動を続けてきた父は戦争が終わった途端、腑抜けになってしまったのですが、東京裁判でパール判事が来日すると、通訳を務めることになりました。帝国ホテルに泊まりがけで行って、日本のバックグラウンドについて説明したそうです。判事が唱えた「日本無罪論」を陰で支えたんですね。やがてインド独立の報に接すると、政治運動しかしたことがなかった人ですから、どうしていいかわからなくなってしまった。それでも家族を食べさせていかなくてはならない。「じゃ、カレー屋でもやるか」と、昭和二十四年、銀座の片隅に開いたのが「ナイルレストラン」です。

〈中略〉日本のカレーライスやカレーうどんは、すごいものです。どう見たってインド料理じゃない。かといって日本古来の料理でもない。僕からすれば「日印友好親善合体料理」です。日本人が素晴らしいのは、このカレーに代表されるように、何でも外国の文化を自分のものにして受け入れてしまうところです。

 この顔で言っても、なかなか信じてもらえないのですが、僕は和食をつくるのが得意なんです。房総半島の保田に家を買ったのも、いい魚が手に入るからです。日本の食べものがおいしいのは素材がいいからですね。もちろん板前さんの腕も必要ですが、日本人は素材のよさを信用する。これがおいしさの第一番だと思います。ただひとつ心配なのが、漁師さんがお年寄りばかりになってしまったこと。若い漁師がいませんから、もうおいしい魚は食べられなくなるかもしれない。

〈中略〉講演をするとき、僕は「日本人は勤勉だった」と過去形で話します。店には日本人とインド人のコックがいますが、インド人のコックは二倍働きます。確かに日本はリッチになりましたが、果たして本当の金持ちと言えるのでしょうか。今こそ褌を締めなおして出直さなきゃいけない。日本に愛情がなかったら、こんなことは言いません。

〈中略〉僕の願いは、「ナイルレストラン」が栄え続けること。たとえ僕がいなくなっても、「日印友好は台所から」という父の遺志は、三代目の息子にしっかりと受け継がれているはずです。

野田ドリット=1949年(昭和24年)イスラエル生まれ。1971年(昭和46年)、現東京芸大名誉教授で版画家の野田哲也氏と結婚。当時のイスラエル大使の娘。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 私自身が三十七年という日本の生活体験を踏まえて言えることは、やはり「詫(わ)び」「寂(さ)び」の日本人の感性の素晴らしさです。静かに澄んだ、落ち着いた味わいを好む民族ではないでしょうか。例えば、「茶道」や「能」、「俳諧」などに見られる趣。「虫の音に対する日本人の感性」について見ても、鈴虫を飼い、虫の音を聴き、そこに心が洗われて秋の憂愁に心を静かに休めるといった行為は、イスラエルでは少ないと思います。ところが日本では、ごく普通の人でもその感性を持っているのです。中秋の名月には、ススキとお団子を供えるなどして、月見を行うといった風流な生活習慣に見る感性も同じですが、これらは日本人に特有のものではないでしょうか。こうしたいわば「詫び」「寂び」の感性をもっと日本人は大切にすべきで、「世界に発信していく誇るべき文化」ではないでしょうか。日本の四季折々の自然の美しさには、また格別のものがあります。しかし、それよりも何よりも、日本人特有の感性に裏打ちされたこうした「古き良き日本の伝統文化」に私は魅了されます。

 日本人は自分を「見せびらかす」ことをしません。その人や優れた能力を持っていたとしても、それを自慢したり見せびらかすことはしません。控えめであるのがよいとされています。これが日本人の「奥ゆかしさ」なのでしょうか。私の主人も芸術家としての優れた才能を持っていますが、人前ではそうした素振りは些(いささ)かも見せません。その意味では、主人も典型的な日本人の一人であるのかも知れません。

 ところで、こうした日本人の良さや「古き良き日本の伝統文化」が、最近失われて行くのではと危惧します。例えば電車の中でもシルバーシートに若い人が座り、高齢者が目の前に立っているのに席を立とうともしない。また、電車の中での携帯電話は禁じられているのに話し続けているなど、公共のモラルの低下を懸念します。

ツリヤガノヴァ・オイディン=ウズベキスタン人。1978年(昭和53年)生まれ。旅行会社役員。タシケント大学東洋学部で日本語を学び、福岡でホームステイを経験する。「福岡・ウズベキスタン友好協会」(NPO)を立ち上げ、両国の文化交流活動を行っている。日本滞在期間2ヶ月(来日は10数回)。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 ウズベキスタンは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の国です。1991年、今から15年前にウズベキスタン共和国として独立しました。あまり日本では知られていないようですが、日本とウズベキスタンの人々の間には、素晴らしい交流の歴史があるのですよ。

 ウズベキスタンの首都タシケントにあるナヴォイ劇場は、第二次世界大戦中、当時のソビエト連邦により抑留されていた日本人たちの尽力を得て完成しました。その後、この地に地震があった時、まわりの建物が次々と崩壊していく中、この劇場は無事に残ったのです。日本人抑留者たちの素晴らしい働きぶり、確かな仕事ぶりに、ウズベキスタンの人々はたいへんな感銘を受けました。ほかにも、ウズベキスタンの各地に、日本人抑留者たちによって建設された建物、運河、道路などがあります。

 日本人たちの勤勉さ、規律正しい行動、確かな技術などは、現在にもずっと語り継がれています。そのため、日本人は大変尊敬されています。「日本人はすごい。あの国は素晴らしい」と。こうして、戦時中の日本人の姿は、そのまま、日本人のイメージにもなっているのです。一緒に働いていたウズベスク人の赤ちゃんのために、日本人が手作りしたゆりかごなども残されています。一人一人の交流を通して、かけがえのない友情も築かれていったのですね。

 ソ連時代、他国人の墓地と同様に、日本人墓地を更地にして整備するよう当局から指示がありましたが、ウズベキスタン人たちはそれには従わず、日本人墓地を守ってきました。日本人は、大切な友人であったからに他なりません。祖国に帰ることができなかった若い日本兵たちは、自分たちの行いによって、ウズベキスタンの人々の信頼を得たのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 最後のウズベキスタン人のオイディンさんのお話には大変感動しました。
 ウズベキスタンにも日本人が作ったインフラが残ってるんですね。しかもソ連により抑留されていた人たちの手で造られたものだと。
 恥ずかしいことに、私は今まで全く知りませんでした。

 以下、このお話に関連して石井立夫さんのHPから引用させていただきます。
 石井さんは幸い抑留を免れたものの、多数の戦友が犠牲になられたそうです。

 ウズベクには1945年、極東シベリアから約25.000人の日本兵が強制移送され、13の収容所に分けられ、過酷な労働を強いられたにも関わらず抑留者たちは、『日本人たちは素晴らしい』というイメージをウズベク国民に植え付け、親日感情が強い中央アジア諸国の中でも日本人への好感度は飛びぬけている。その源であり、ユーラシアで語り継がれている「日本人伝説」のシンボルが、約500人の抑留者がタシケント市に2年がかりで建設したナポイ劇場だ。

 捕虜という厳しい環境下で勤勉に徹し、当時の地元民に敬意を表された。66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建築技術は高い」という評価が定着した。96年にカリモフ大統領の指示で、壮麗なナポイ劇場には、日本人抑留者の功績を記したプレートが掲げられ、ウズベクの日本人に対する尊敬と感謝の思いが名実ともに歴史にとどめられている。日本人抑留者の「遺産」はナポイ劇場にとどまらない。

 日本人がつくった水力発電所や運河、道路などが国内の至るところに残り、ウズベクのインフラを支えている。中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会った。この人物は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったという。


 何だか私まで泣けてきました……(T^T)


 ……というわけで、第16弾につづく……!?


※参考文献
・イザベラ・バード著「イザベラ・バードの日本紀行(上)」(講談社学術文庫)
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座>JOG-mel No.605 自由は日本の政治伝統
笑顔でごー>讃えるべき日本 駐日フランス大使ポール・クローデル
・「皇室入門」渡部昇一
ナサラ◆スタイル(畠奈津子さんのHP)>語録>モーリス・パンゲの言葉
・09/9/11放送 テレビ東京系「世界を変える日本人SP」
産経新聞09/8/1付「HACHI」8日全国公開 教授役リチャード・ギア 「世界で共感」確信
・「正論」2009年9月号 金美齢×盧千恵【台湾人にとっての「昭和」】
メルマガ「台湾の声」>【李登輝講演録全文】竜馬の「船中八策」に基づいた私の若い皆さんに伝えたいこと
・「正論」2009年11月号【鍵は文化の発信力 アレクサンダー・ゲルマンに聞く「ポスト・グローバルは日本の時代だ」】
・09/11/10放送 NHK教育「日めくり万葉集」
・加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」(出窓社)

※拙ブログ「外国人から見た日本と日本人」シリーズ
07/10/16付:外国人から見た日本と日本人(1)
07/10/23付:外国人から見た日本と日本人(2)
07/11/27付:外国人から見た日本と日本人(3)
08/1/8付:外国人から見た日本と日本人(4)
08/2/11付:外国人から見た日本と日本人(5)
08/6/3付:外国人から見た日本と日本人(6)
08/8/16付:【終戦の日】外国人から見た日本と日本人(7)
08/12/23付:外国人から見た日本と日本人(8)
09/1/31付:外国人から見た日本と日本人(9)
09/4/4付:外国人から見た日本と日本人(10)
09/5/30付:外国人から見た日本と日本人(11)
09/7/12付:【動画】外国人から見た日本と日本人(12)
09/7/26付:外国人から見た日本と日本人(13)
09/9/7付:外国人から見た日本と日本人(14)

※その他拙ブログ関連エントリー
05/12/5付:憂国フラッシュリンク集
06/10/8付:【アンケート】「生まれ変わっても日本人になりたい?」結果と全コメント
07/3/5付:「日本人」について考えさせられた記事
08/11/3付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
08/12/16付:「ATLAS日本」アメリカから見た現代日本
09/3/21付:桜と日本人の感性
09/5/23付:日本とトルコ 友好の歴史

※おすすめブログ
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日本では、神代の時代から民主主義は行なわれております。 大祓祝詞にも、「八百万神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて」と書かれています。 神様の世界でも、すべての神々様を集めに集め、審議に審議を重ねて決定されておられます。 明治天皇様の「五箇条の...
2009/11/25(水) 15:43:17 | 【 日々の感謝 】

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大阪在住の主婦です。
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