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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終

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 イザベラ・バード著「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第4弾。最終回です。

※過去記事
 8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
 9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
 9/28付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

 閔妃殺害事件の記述が終わり、日清戦争の記述が再開します。その後は「断髪令」「露館播遷(ろかんはせん)」へと展開します。

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 こちらは「第三十六章 一八九七年のソウル」(p.544)に登場する南大門の写真です。
 クリックすると新規画面で拡大します。

 後で引用しますが、1897年のソウルは、バードが最初に足を踏み入れた1894年と比べ、ずいぶんマシになっていたんだそうです。


 以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいものは省略しました。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________

●正午にわたしたちは高陽〈コヤン〉に着いた。戸数三〇〇の貧しい町で、かつては立派であったと思われるかなり大きな郡庁もくずれかけている。ここをはじめ平壌〈ピヨンヤン〉までのどの郡庁所在地でも、二〇人から三〇人の日本兵が庁舎に寝起きしていた。住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから(引用者注:秀吉の朝鮮出兵のこと)日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである。(p.371)

●(松都〈ソンド〉にて。朝鮮第二の都市で開城〈ケソン〉ともいう)広い通りが一本あって、その広さは両側にならんだわらぶき小屋で狭められてはいるものの、この通りでは街は分かたれている。ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった。((中略))わらぶき小屋では低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品がならんでいる。そのなかにはイギリス製の雑貨もあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわるというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた(引用者注:第2弾のp.223参照)。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p.381-382)

●松都の宿屋はどこもひどく、親切にも李氏(引用者注:イ・ハギン氏。旅に同行した通訳)の友人がわたしに家を一軒貸してくれた。一部くずれてはいるものの、ふた部屋あってイム(引用者注:駐朝イギリス総領事ヒリアー氏の紹介で同行した英公使館の衛兵)とわたしが泊まれる。そこに滞在し、わたしは快晴の気候に恵まれた二日間をすごした。李氏が友人の家を訪ねがてら、松都の名所に案内してくれた。名所は半日でめぐることができ、上流階級の屋敷も何軒か訪問した。わたしの宿泊先はそれに比べてとても快適ではあったけれども、イギリス本国ならば上流階級の牛小屋にも劣りそうである! とはいえ、朝鮮は一年の大半がすばらしい気候に恵まれている。またわたしの宿泊先にかぎらず、どこもかしこもみすぼらしくてほこりとごみだらけというのは信じがたいほどではあっても、この町はかなり「裕福」なほうである。給水のひどさは話にならず、あらゆる種類のごみと汚物が井戸の口まで堆積している。治安に関しては、大都市のまん中にあるさびしい横町で、外国人女性が英語のひと言も話せない朝鮮人兵士ひとり以外従者がまったくいなくても、無事暮らしていけるという事実は多くを物語る。朝鮮人兵士はそうしようと思えば、わたしの喉をかき切り金を奪って逃げることもできるのである。金のありかも簡単にわかるにちがいない。なにしろわたしの家には鍵というものがないのであるから!(p.382-383)

朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である。わたしたちはすでに京畿道〈キヨンギド〉との境である塔●(引用者注:山ヘンに晃)〈タプコゲ〉を越え、黄海道〈フアンヘド〉に入っていた。政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない。(p.392)

●四〇人の日本兵が荒れはてた庁舎を風通しのよい宿舎として使っていた。通りを歩いていたとき、そのうちのひとりが私の肩に手をかけ、国籍と、いつこの地に着いてどこへ行くのかをたずねた。礼儀にやや欠けるとわたしは思った。部屋にもどると一〇人ばかりの日本兵がやってきて徐々に戸口をふさぎ、戸を閉められないようにしていまにも部屋のなかへ入りそうになった。きちんとした身なりの警察官がわたしに帽子を掲げて会釈し、李氏の部屋に行ってわたしがどこから来てどこへ行くのかを尋ねた。そして李氏の返事を聞いて「わかりました」と答え、ふたたびわたしに帽子を掲げた会釈をして部下もろとも引き上げた。このような家宅訪問は何度か受けた。たいがいとても丁重だったとはいえ、質問のしかたは、こちらには当然その権利がある、この国の支配権はいったいだれにあると思っているのだといわんばかりだった。この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない。日本兵の来ているのが洋服でなかったなら、部屋を取り囲んだ彼らをわたしは無礼だとは考えなかったことだろう。(p.392-393)

●平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。「倭人〈ウオジエン〉(矮人〈こびと〉)(引用者注:日本人のこと)は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、おおくの住民はもどってきた。(p.403)

日本軍が入ってきて、住民の大部分が逃げだしたのを知ると、兵士は家屋の木造部をひきはがした。往々にして屋根も燃料やあかりに使った。そして床で燃やした火を消さずに去るので、家屋は焼失した。彼らは避難民が置いていった物品を戦闘後三週間で略奪し、モフェット氏宅ですら七〇〇ドルに相当するものが盗まれた。氏の使用人が書面で抗議したが、略奪は将校も現場にいて容認されていた。このようにして朝鮮で最も栄えた都の富は消えてしまったのである。(p.403-404)

そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊*1がのさばることもよくわかっていた。訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。(p.404)
*1 引用者注:1895年10月の閔妃殺害事件により日本の影響力が薄れた後、ロシアの将校がこの朝鮮人部隊に軍事教育を施すこととなる。ちなみに、日本の前はアメリカの軍事顧問がこの任に当たっていた。

●一八九四年九月一五日の午後、左将軍(清国軍の将軍)は奉天出発時の五〇〇〇人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった軍を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向かってジグザグにくだり、そして門からおそらく三〇〇ヤードと離れていないところで斃〈たお〉れたのである。朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃撃に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
  <奉天師団総司令官左宝貴ここに死す。>
 またべつの面にはこうも記してある。
  <平壌にて日本軍と戦うも、戦死。>
 敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。

●城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者一六八名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細かな看護を受けた。清国軍兵士の死体を放置した報いはいまわしい形で起こり、発疹チフスが突如流行した。この病気が日本軍に対していかに猛威をふるったかは、済物浦〈チエムルポ〉の日本軍墓地にある墓碑の長い列からある程度推測できる。(p.409)

●わたしが徳川〈トクチヨン〉にいるときに郡守が任地にもどってきて、人々はこのできごとにある程度関心を示した。雑卒が船着場付近の土手にならんで警笛を鳴らし、白服に黒い紗の上着をまとった四〇人の部下と二、三人の歌姫が輿〈こし〉に乗った郡守を出迎え、官庁まで輿といっしょに走る。数人の男たちが冷ややかに見物していた。これほどさもしい随行団は考えられないほどだった。
 地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道〈ド〉に四四人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均四〇〇人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に二ドル、年に総額で三九万二四〇〇ドルかかる。総勢一万七六〇〇人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭一〇〇枚を要求した。郡守はそれを二〇〇枚に、また郡守の雑卒が二五〇枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭二五〇枚のうち五〇枚を雑卒が、一〇〇枚を郡守が受け取り、知事は残りの一〇〇枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。(p.423-424)

●出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしは羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。ロシアの統制を受ければ、働いただけの収入と税の軽減が確保される。何百人もの朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。(p.425)

●(徳川から平壌への道中、戛日嶺〈アルリヨン〉にて)気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。しかしこの「もしも」はあまりにも大きい! どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権があたえられているわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる)ものの、役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた。それに改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉をほのめかしたので、朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしの見るかぎり朝鮮全土にあたえてしまった。(p.432)

●(前項のつづき)旅行者は朝鮮人が怠惰であるのに驚くが、わたしはロシア領満州にいる朝鮮人のエネルギーと勤勉さ、堅実さ、そして快適な家具や設備をそろえた彼らの住まいを見て以来、朝鮮人のなまけ癖を気質と見なすのは大いに疑問だと考えている。朝鮮じゅうのだれもが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食をまかなう以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである。官僚による搾取が生活の必要物資を購〈あがな〉う分にまでも不当におよび、どうにも耐えられなくなってはじめて、朝鮮人は自力で不正をただす唯一の手段に訴えるのであり、これは清国の場合と似ている。その手段とは許さざるべき醜悪なその郡守を追い払ったり、場合によっては殺してしまうことで、最近評判になった事件では、郡守の側近をまきを積んだ上に乗せて焼き殺すというのがあった。庶民の暴動はへんに挑発されると遺憾な暴力行為に発展することがなきにしもあらずとはいえ、一般的には正義に基づいており、また抗議としては効果的である。(p.432-433)

●(前項のつづき)搾取の手段には強制労働、法廷税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞〈むち〉で打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。(p.433)

●(順川〈スンチヨン〉の郡庁内の部屋で)兵士、書士、庁舎の雑卒、両班と文人階級の男たちにそこら辺のひま人が集まり、大声を張り上げるわ戸の紙を破るわであるから、わたしはうんざりする二時間を味わった。清国と同じようにおよそ野卑で不作法な文人階級の男たちを先導とする朝鮮人の野次馬は、ただただ耐えがたい。しまいにわたしは女たちの住まいのほうへこっそり引っ張っていかれたが、そこではまたべつの飽くことを知らぬ好奇心のえじきになった。
 朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。(p.435)

●女性の蟄居は五〇〇年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっとつづいてきたのは、ある朝鮮人がヒーバー・ジョーンズ氏に率直に語っているように、男が自分の妻を信頼しないからではなく、都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなくなったからである。かくして下層階級をのぞき、女性は老いも若きもすべてが法よりもつよい力を持つしきたりにより、家の奥に隠されている。(p.437)

●ダレ神父[『朝鮮教会史序論』の著者]によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!
 法律も女性の住まいまではおよばない。自分の妻の部屋に隠れている貴人は謀叛罪の場合をのぞき捕えることができない。また家の屋根を直す際は、隣家の女性が目に触れないともかぎらないので、あらかじめ近所に修理する旨を知らせなければならない。七歳で男女はべつべつになり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、朝鮮をある程度広く旅行したわたしでも、六歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいでものうげにうろうろしている少女たちをのぞき、ひとりも出会ったことがない。したがって若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。(p.438-439)

●郡庁所在地の慈山〈チヤサン〉でわたしたちは徳川〈トクチヨン〉へ北上したときの分岐点にもどった。((中略))町の人々からは、清国兵は情け容赦なくものを盗む、ほしいものは金も払わずに奪い、女性に乱暴を働く*2という悲痛な被害の話をきいた。前にわたしたちは慈山の隣村ウチンガンの渡し場で大同江〈テドンガン〉を渡ったが、この村は朝鮮人が恐怖に駆られて逃げだしてしまい、五三人の清国人が占拠して重要な駐屯地となっていた。日本の偵察兵ふたりが対岸にあらわれて発砲すると、清国軍派遣隊はばらばらに逃げだしたものである! 慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站〈へいたん〉部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。(p.441)
*2 引用者注:1937年(昭和12年)に始まった支那事変においても、支那軍は掠奪・暴行・強姦などやりたい放題だった(しかも自国民に対して)。このあたりは、「強制徴募」により支那軍の兵隊にさせられた陳登元氏の著作「敗走千里」に詳しい。「敗走千里」の内容は拙エントリー8/23付:GHQ焚書「敗走千里」支那軍の実態を参照。

キリスト教伝道団は平壌でははかばかしい成果を得ていなかった。平壌はきわめてゆたかできわめて不道徳な都市だった。宣教師が追いだされたことは一度ではきかず、キリスト教はかなりな敵意をもって排斥されている。つよい反対傾向がはびこり、市街には高級売春婦の妓生〈キーセン〉や呪術師があふれ、富と醜行の都という悪名が高かった。メソジスト派伝道団は活動を一時中断し、長老派は六年かけて二八名の改宗者を数えるのみだった。それから日清戦争が起きて平壌は破壊を受け、住民は流出、商業は壊滅、六万とも七万ともいわれた人口が一万五〇〇〇に減り、わずかなキリスト教徒も逃げだしてしまった。
 戦争以降はとても大きな変化があった。二八名が洗礼を受け、中流階級の最も悪名高い放蕩者、あまりに不道徳でだれにも相手にされなかった男たちが清く正しい生活を送りはじめたのである。教えを受けている洗礼志願者が一四〇人おり、受洗に先立つ長期修練の対象となっていた。(p.444)
 
●庶民は通りや家の前や宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところ具合など、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことをうそと誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語〈ひご〉の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにはなはだしく欠ける。男たちは仲間とお互いの家を行き来して毎日を暮らす。家庭生活はない。奥の住まいにいる女たちは同性の客を迎え、また娘たちもそこにいる。男の子は幼いころから男の住まいに移され、そこで耳に入る会話から、自尊心ある男は女を蔑視せねばならないと学ぶのである。(p.453)
●朝鮮にとって一八九六年は前年の深い憂鬱をひきずったまま明けた。小さな謀叛がいたるところで起きてさまざまな官僚が殺され、ソウルまで進んできそうな反乱軍もあった。日本の影響力は傾いていた。日本軍は駐屯地からしだいに撤退し、朝鮮政府各省の日本人顧問や検査官は雇用契約が切れても更新されず、日本が支配的立場にあったときに実施した改革も一部は自然消滅してしまい、時勢ははっきり退行を示していた。行政機関は全土で崩壊しつつあった。(p.459)

●(前項のつづき)国内全体が動揺し何件かの深刻な暴動が起きたのには原因がある。その原因はわたしたちにはばかばかしく思えようとも、朝鮮人には広く根づいた風習を捨てまいとするつよい保守性があることを、なにはさておき教えてくれている。その原因とは一八九五年一二月三〇日の勅命による「まげ」への攻撃である!*3 これが全土を炎と燃えさせた! 憎き日本が優位を誇ろうとも、あるいは王妃が暗殺されようとも、国王が幽閉同然の待遇を受けようともじっと耐えてきた朝鮮人が、髪形への攻撃にはどうにも耐えられなかったのである。朝鮮人にとって「まげ」は清国人にとっても弁髪のはるか上を行く。清国人の弁髪は政府への服従あるいは忠誠のしるしにすぎず、髪の伸びそろった幼児期から結いはじめる。
 しかし朝鮮人にとって「まげ」は朝鮮人たるしるしであり、大昔からの慣習であり(五〇〇年前からとも二〇〇〇年前からともいわれる)、歴史のあるがゆえに神聖なものであり、たとえ実際にはまだ数歳の子供ではあっても、社会的法的に成人たるあかしであり、また姓の下につづけて、後世に残り祖先の位牌にも書きこまれるふたつの名を持っているというしるしでもある。(p.459-460)
*3 引用者注:断髪令は金弘集(内閣総理大臣)らが進めていた近代化政策である甲午改革、乙未改革の一環として行われたが、「身体、髪の毛、肌は父母から譲り受けたもので、傷つけないのが孝の始まりだ」という儒教の考えから反発が広まり、また断髪令は日本のまねだとして反日感情にも結びつき、乙未義兵が発生する原因にもなった。露館播遷後に、人心を収拾するため、断髪令は撤回された(Wikipediaによる)。

●これほど尊ばれ、いわれがあり、朝鮮人であることとかたく結びついている(朝鮮人は正真正銘の愛国心にははなはだしく欠けるとはいえ、愛国的傾向はつよい)「慣習」であるから、「まげ」を実質的に廃止する一八九五年一二月三〇日の勅命はまさしく青天の霹靂だった。「まげ」の廃止は前におもにアメリカ帰りの朝鮮人から提唱され、日本人の支持を得て内閣で討議されたことがあったが、一般の反発がすさまじく、政府も強要ができなかったのである。断髪令発令のすこし前には、三名の訓練隊高級将校が《中枢院》会議室に乗りこんで抜刀し、すべて公職に就く者には断髪を義務づける勅命を即刻発布することを求めた。震えあがった大臣たちはひとりをのぞいて全員それに応じたが、その例外となったひとりが、公布は王妃の葬儀が終わるまで待つよう了解を取りつけた。しかしながら、その後すぐに事実上幽閉の身だった国王が勅命を承認せざるをえなくなり、国王、皇太子、大院君〈テウオングン〉、そして閣僚が「まげ」を切り落とし、兵士と警察官がこれにつづいた。
 翌日官報が国王承認の法令を発布し、国王が髪を短く切ったことを伝えた。そしてすべての臣下が閣僚も庶民もひとしく国王の手本にならって、国王に今回の第一歩を踏ましめた進歩の精神に同調し、それにより朝鮮国を諸外国と対等の立場に立たせよと求めたのである!(p.462-463)

●断髪令が国民の反感を買った理由のひとつに、尊敬もされず一般に黙認すべき厄介者と見なされている僧侶が剃髪していることがあり、また断髪令は朝鮮人を日本人と同じような外見にさせて自国の習慣を身につけさせようとする日本の陰謀だと受けとめられた。朝鮮人らしさを奪う勅命は日本の差し金だという考えはきわめてつよく、あちこちで起きた断髪令反対の暴動は日本人への敵意を公然とあらわしており、殺人にいたった場合が多い。
 地方では動揺が激しかった。政府高官ですらジレンマで進退きわまった。髪を切れば、住民の激怒を買い私欲をむさぼれる職位から追いだされてしまうどころか、殺されてしまった例もある。かといって「まげ」のままでいれば、内閣から解任される。ある地方では新任の高官が断髪した頭でソウルから到着したとたん、最悪の事態に備えた群衆から、これまでわれわれを治めてきたのは朝鮮人である、「坊主の郡守」などまっぴらだと抗議され、すごすごとソウルに引き返してしまった。(p.464-465)

●髪を切った人々は地方住民に暴力をふるわれるのを恐れ、ソウルから遠出をしようとはしなかった。首都から五〇マイルの春川〈チユンチヨン〉では命令を強制しようとした知事とその部下全員を住民が大挙して殺害し、町とその周辺を占拠した。ソウルの城門にははさみを持った警察官がいて入ってくる者に勅命の履行を強制するので、髪を刈られてしまった農民は家にもどることができなかった。一八九六年一月なかばには物価があまりに高騰したためソウル市内でも「騒動」が起きるのではないかと懸念され、また「地方住民は今回の断髪令の対象としない」というあらたな法令が発された。
 事態はさらに悪化し、一八九六年二月一一日、極東全体がセンセーショナルなニュースに唖然とした。「朝鮮国王が王宮から抜けだし、ロシア公使館に移った」*4というのである。(p.465-466)
*4 引用者注:露館播遷(ろかんはせん)。1896年2月11日~1897年2月20日。高宗(李氏朝鮮の第26代王)がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。詳細はWikipediaを参照。

安全な身となった国王は長いあいだ手から離れていた大権をふたたび取りもどすと、以来少しも抑制しなかった。典型的オリエンタリズムにあふれた勅書二点の全文をつぎにご紹介する。ふたつとも王宮脱出後数時間で市内じゅうに掲示されたものである。
【勅書】
 ((略))
【兵士への勅書】
 わが国は悲運にして、毎年のごとく謀叛の徒に苦しめられてきた。現在朕はあらたな陰謀を告げる文書を有している。それゆえ朕はロシア公使館に居を移した。諸外国の代表がすべて集まっている。
 兵士よ! 朕を警護せよ。汝は朕の子供である。過去の紛争は謀叛の輩らの悪事によるものであった。汝はすべて大赦され、責任は問われない。心安らかに職務を全うせよ。謀叛の首謀者すなわち趙羲淵〈チヨフイヨン〉、禹範善〈ウポムソン〉、李斗●(●=王ヘンに黄)〈イトウフアン〉、李範来〈イポムネ〉、李軫鎬〈イチンホ〉、権●鎮(●=さんずいに榮)〈クオニョンジン〉*5は見つけ次第斬首し、朕の観覧に供せよ。
 汝兵士はロシア公使館にて朕に仕えよ。
     健陽元年二月一一日 玉璽〈ぎょくじ〉
*5 引用者注:趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗●(訓錬隊第一大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、権●鎮(当時警務使)、この6名は閔妃殺害事件の犯人とされたものの特赦になっていた。が、著者バードは彼らについてなぜか一切言及していない。この引用文に登場するのみである。

●(前項のつづき)これにつづき、同日、何千人もの人々が断髪令撤回の布告文を読んでいる一方で、これまで数度にわたりその座に就いてきた首相(引用者注:金弘集)と農工商務大臣が捕らえられ、街頭で斬首された。怒り狂った暴徒は首相を「まげ」失墜の張本人と見なし、残虐きわまりないやり方で死体を切りきざみ侮辱した。べつの閣僚は日本兵に助けられ、そのほかの謀叛者は逃亡した。新内閣が設立され、監獄の扉が開かれて囚人が罪人も無罪の罪の者もひとしく解放された。またすでに日本人一名が一般大衆の激怒のえじきとなって死亡しており、日本人に危害を加えてはならないという厳命が国王から布告された。そして日が暮れるまでに過去六ヶ月間に発布された勅命の大半が撤回され、「まげ」は勝利をおさめた。(p.469)

●(前項のつづき)王妃のつよい影響力と反逆的将校の粗暴な支配から解放された朝鮮国王がいかにその自由を用いたかは、ここに記すまでもない。王宮脱出直後から国王は「ロシア公使の手中にあるたんなる道具」になるだろうというのがおおかたの見方だったが、それはみごとにはずれ、一年とたたないうちに、ウェーベル公使が口をはさんで国王の政治的手腕のまずさをカバーしてくれないだろうかと期待する声が大いに高まったほどであった。公使がなぜ国王に干渉しまいと決意したかは、いまにいたるまで謎となっている。(p.469-470)

●一八九六年七月、税関長J・マクレヴィ・ブラウン氏が勅命により国庫の支出管理権を授かった。氏は財政腐敗という複雑な問題に焦点をあてて悪弊の一掃に取り組み、大きな効果をあげた。
 九月には日本の保護下で組織された内閣〈ネカク〉にかわり一四名のメンバーで構成する議政府〈ウイジョンプ〉が設けられた。これは旧体制にある程度もどる変化だった。
 日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。国内は不穏で東学〈トンハク〉党にかわり「義兵」が出現した。地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制されていたが、宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。また国王自身、潤沢な王室費がありながら、公金を私的な目的に流用し、安全な住まいにおさまってしかも日本人その他の支配から自由になると、さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった。王権を抑制する試みがあったにもかかわらず、国王の勅命が法であり国王の意思を絶対とする絶対君主制にもどってしまったのである。一方、日本は徐々に撤退し、また撤退を余儀なくされ、日本が朝鮮で失った影響力はことごとおくロシアの手に渡った。とはいえその変化の利点はさだかではなかった。(p.471-472)

●日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は一八九四年七月二三日に日本兵が景福宮〈キヨンポツクン〉を武力で占拠した時点からはじまった。相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられることではない。(p.474)

一八九四年七月、大鳥氏(引用者注:大鳥圭介)は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。そして翌年一月には漢字と「無知な文字」とされていた諺文〈オンムン〉[ハングル]の混合体が官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった。当時は《審議会》[軍国機務処]の決議が官報に掲載されるということ以外、めぼしい改革は行われなかった。その後日本の官報に近づくよう改革がなされ、官報の重要性という点では失ったものより得たもののほうが大きい。《承政院》の権力はしだいに小さくなり、名称も《承宣院》と改められた。内閣および《懲正裁判所》のメンバーは直接国王に上奏できるようになりはじめていた。一八九五年四月、日本式に近づける改革がさらに行われた。これは朝鮮人にとってはきわめて重大な変革で、官報の日付が「第一号――建国五〇四年四月一日木曜日」*6という具合に記されるようになったのである。(p.475-476)
*6 引用者注:日、月、火、水、木、金、土の曜日名が朝鮮でも使用を課されることとなった。

狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。
 科挙制度が廃止されたこと、官吏の登用方法が変わったこと、西洋人による感化が働きはじめたこと、諺文〈オンムン〉採用機会が増えたこと、新しい思想が徐々に流入してきたことにともない、こういった純粋に中国式の教育を求める声は一部衰退した。また教育全般において関心の停滞しそうな状態となったため、首都から影響の広がっていくような新しい教育方法を実施して鼓舞することが必要となった。(p.489-490)

●(朝鮮との貿易について)わたしの考えるところでは、日本の成功は、地の利はべつとして、朝鮮の津々浦々に目はしのきく出張員を送り、その出張員から仕入れる情報の正確さ、そして朝鮮市場の好みと要求とを調べる製造業者のきめ細やかな配慮に主として起因している。日本の商品は荷揚げ後小柄な朝鮮馬に合せて梱包しなおす必要のない、取り扱いやすい大きさにまとめられて港に届き、その価格や幅や長さや織りは朝鮮の消費者の意にかなっている。日本人は一八インチ幅の綿地にこそ端布をさほど出さずに朝鮮服を仕立てられる唯一の綿地であると心得ており、そのような布を市場に出荷する。そして輸入会社の出張員の報告に従って、大阪をはじめとする生産地の職工は、じょうぶで人気のある朝鮮南部製の手織り綿布の織り方や布幅や長さをたちまち器用に自分たちの製品に取りこんでしまう。こうしてできあがった製品は棒でたたいて汚れを落とす朝鮮式の洗濯にも耐える朝鮮製綿布のイミテーションであるどころか、本家本元の朝鮮人職工の目すらあざむき、朝鮮の女性にたいへんな人気を博しているのである。今後も朝鮮をイギリスの市場としつづけるためには、失地回復は商業の常套手段といえる日本のやり方を採用してこそ可能であるにちがいない。
 まとめとして、わたしはあえてつぎのように提言する。朝鮮の国民の環境は日本もしくはロシアの援助を得て漸進的に改善されるはずである。外国貿易は購買力の増加と輸送手段の整備により多かれ少なかれ着実に増えるにちがいない。イギリスがどれだけのシェアを占められるかは、イギリスの製造業者に朝鮮人の好みや便益に合わせて製品を適応させる気があるかどうかに大きくかかっている。(p.497-498)

●国王は一年以上にわたってロシア公使館で政務を執られた。これは臣民の大多数にとっては非常に不愉快な策で、君主が外国公使館の保護を受けるとは当然国民全体の屈辱だと考えられたわけである。国王をもとの王宮にもどす陰謀があるといううわさがそこかしこに飛びかい、ロシア人将校が輿にぴったりついて歩かなければ、国王が亡き王妃の廟を訪ねようとされないときもあった。
 ロシア公使のウェーベル氏は当時朝鮮に住んで一二年たっていた。氏はロシア帝国の有能かつ忠実なしもべである。国王からも、また外国人社会全体からも信頼され、国王の王宮脱出までは朝鮮人の親密で沈着な友人だった。氏の助言があれば、国王がとんでもない登用を行ったり、独断で臣下を逮捕・監禁したり、順調に職務をこなしている官僚を理由もなく左遷したり、ヨーロッパ諸国へ使節団を送るだの警官隊を必要以上に強化するだのといった、あとさき考えぬ浪費をしたりするのは防げたかもしれない。しかし氏は受け身に回り、朝鮮人を「自業自得で苦し」ませ、おそらく本国からの命令のもとに行動して、朝鮮に「首をつるのに充分なロープ」をあたえた。こうした一連の行動は、今後ロシアが干渉する際にすじの通った弁解としかねないものである。本国からの命令がなかったとしても、かくも人望篤くかくも優秀な外交官が事態を完璧に掌握できるときに、その価値ある助言で国王を助けるという、他の外国員全員が心から賛同したはずの策をなぜ取らなかったのかという不可解な謎は残る。*7(p.537-538)
*7 引用者注:現在では「露館播遷によりロシア公使ウェーベルの傀儡政権が成立した」と評されたりもするが、p.469-470やp.537-538のバードの記述を見る限り、ウェーベルは国王(高宗)には干渉しなかったらしい!?

●(前項のつづき)いずれにしても、ロシア公使館に遷幸〈せんこう〉して以来国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは、対照的に好ましくない。
 昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。国王の寵臣のひとりが公に告発されたときには、正式の訴追要求がなされたのに、その寵臣はなんと学務省副大臣になっている! 一八九五年一〇月八日[乙未事変](引用者注:閔妃殺害事件のこと)の反逆的将校や、武力で成立した内閣の支配からも、心づよくはあっても非人道的なところの多かった王妃の助言からも、また日本の支配力からも解放され、さし迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅命は法となり、国王の意思は絶対となった。
 ((中略))人が理由もなく投獄され、最下層民の何人かが大臣になった。金玉均〈キムオツキユン〉を暗殺した犯人が式部官に任命され、悪事をつづけてきて有罪の宣告を受けた者が法務大臣になった。官職をこっそり売買したり、国庫に入るべき金を途中で着服したり、貧乏な親戚や友人を「箔〈はく〉づけ」して官舎に住まわせるためにほんの数日間だけしかるべき官職に就けたり、高官が少しでも非難されたらすぐに辞任するという習慣がはびこったりした結果、国政はつねに混沌とした状態にあった。善意の人ではありながらも優柔不断な国王は、絶対的存在であるのに統治の観念がなく、その人柄につけこむさもしい寵臣のおもちゃであり、貪欲な寄生虫にたかられ、しかもときには外国の策士の道具となっている。そして常設しておくべき機関を壊すことによって政府の機能を麻痺させ、私欲に駆られた官僚の提案する、金に糸目をつけない計画を承認することによって、経済財政改革を一過的で困難なものにしている。こんなめちゃくちゃな政治のやり方は、ロシア公使館にのがれて自由を得るまでの国王には決して見られなかったものである。(p.538-539)

●ソウルの多くの区域が、なかでもとくに《南大門》と《西大門》の付近が文字どおり変貌していた。両わきに石積みの深い運河があり石橋のかかかった、狭いところで幅五五フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった通路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみぞは舗装され、道路はもはやごみの「独壇場」ではなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを「すっ飛ばして」いく。「急行馬車」があらわれるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ店舗は何軒も建っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規則も強化されている。ごみや汚物は役所の雇った掃除夫が市内から除去し、不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!*8
 この大変身は四カ月前から行われており、意欲的で有能な税関長の発案を、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長李采淵氏が支持したものである。氏はまれに見る慎み深い人で、市内環境改善をいっさい自分の功績とはせず、すべては税関長マクレヴィ・ブラウン氏のおかげによるものだと語っている。
 古都の趣をだいなしにしていた、路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きわまりない旧いソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている。とはいえ、これはじつのところはおもに旧に復しているのであって、一八九六年の秋まで残っていた暗くて狭い路地は、広い道路を徐々に浸蝕してできたものにほかならず、その路地を撤去したら道路の両側の水路があらわれたというわけである。(p.543-545)
*8 引用者注:2008年、日本のネットで、この段落の「ソウルは清潔な都市に変わろうとしている」という箇所を「当時のソウルは清潔で人々はとても快適かつ豊かに暮らしている」に変更し、「韓国語版の『朝鮮紀行』は改竄されている」とした悪質なコピペが出回った。バードは「汚いソウル」と「清潔に変わろうとしている」2つのソウルを見ている。前者は最初にソウル入りした1894年、後者は3年後の1897年。そう、日本とロシアのおかげで近代化しつつあるソウルの2つの姿をバードは記したのだ。しかしながら、この段落のページ見開きに掲載された1897年の南大門通りの写真(このエントリーの最初に提示した写真)は、私たちが今日よく目にするみすぼらしい屋根が続く南大門通りの写真である(この「朝鮮紀行改竄デマ事件」についての詳細はこちらを)。

●改善整備されたのは大通りのみにとどまらない。狭い道路の多くが道幅を拡張し、砂利を強いて両側に石の側溝がつくられている。なかには住民自身が工事したものもある。そのほか、ソウル独特の悪臭が消えた。衛生規則が強化され、また家の前の積雪は除去することが全戸に義務づけられるところまで教化が進んでいる。その変身ぶりはたいへんなもので、わたしは一八九四年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ってこの章に添えられればと探してみたが、そんな場所はどこにも見つからなかった。とはいえ、首都修復は朝鮮式の法則に則ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない。(p.546)

●朝鮮における教育に関連して特記しておかなければならないのは、ごく最近の一八九六年末、『儒学経緯」という本が発刊されたことである。この本は学務大臣申箕善〈シンキソン〉が編集し、二名の学務顧問が序文を書いていて、費用は政府持ちで刊行された。『儒学経緯』にはつぎのような記述がある。
 五二ページ
 ヨーロッパは文明の中心すなわち中国からあまりに遠く離れている。ゆえにロシア人、トルコ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ベルギー人は人間よりも鳥獣に似ており、その言語は鶏が鳴いているように聞こえる」((中略))
 五〇ページ
 世界の中央たる清帝国のいかに偉大で栄〈は〉えあることか! 清帝国は世界で最も大きく最もゆたかな国である。世の偉人はすべて中国の生んだものである」(p.547-549)

●朝鮮の生皮は皮革業に対する身分差別と迷信による偏見のせいで、これまで日本に送られて加工されていた。この工場を設立して加工方法を教えてくれる日本人指導者を招聘〈しょうへい〉したことにより、ソウルのみにかぎるとしても、愚かしい偏見に終止符が打たれたばかりでなく、きわめて有利な産業が緒に就いたわけで、ほかの産業もこれにつづいている。(p.551)

●一八九七年にソウルに導入された最も画期的な変革のひとつに監獄の改善がある。これは元上海警察顧問官で現在朝鮮警察庁顧問官のA・B・ストリップリング氏によるところが大きい。氏はもともと日本人が提唱した監獄の改革を人道的かつ進歩的に実行している。拷問は大都市の監獄からは姿を消していたが、それ以外の監獄では一八九七年の一月にいたっても政治犯が拷問を受けているという陰気なうわさがあった。(p.552)

●監獄改善に関しては多くの対策がなされてきたが、囚人の区分をはじめまだ手つかずのままになっている問題も多い。それでも、ソウルの監獄は改革が行われていない清その他の東洋諸国にくらべれば、非常に好ましい方向に差をつけている。拷問は少なくとも表向きには廃止されたし、切断された首や胴体をさらしたり、笞〈むち〉打ちや身体のそぎ切りで死にいたらしめるようなことは日本の支配を受けていた時代になくなった。ソウルの監獄を見学した日の午後、わたしは繁華街の雑踏のなかに三脚状に組んだ棒につるした首がさらされ、《東大門》外の道ばたの血だまりのなかに首のない胴体が転がっているのを見たのが、わずか二年前だとは信じられない気持ちだった。(p.554)

朝鮮の重大な宿痾〈しゅくあ〉は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし、職位は商品として売買される。居候をおおぜいかかえている男にとって、そこから逃げだすひとつの道は官吏になることなのである。下級にせよ上級にせよ官吏になれば、公金で居候たちを養っていける。であるから官職がどんどん新設される。目的は、国を治める者たちの親戚や知り合いを食わせるため、にほかならない。だからこそ朝鮮では政治の内紛や暴動が頻繁に起きる。おおもとはほとんど揺るがない。朝鮮の革命家は信念を支えに命をかけようとはしないのである。(p.556-557)

●ひとつ確実に言えるのは、戦争と日本の支配期が朝鮮全土にあまりに唐突な動揺をあたえ、またそれまで年代を経たものとしてあがめられてきたさまざまな慣習や制度の信用を徹底して失墜させてしまった以上、たとえ一八九七年にある程度見られたような時代逆行の動きがあったとしても、朝鮮を昔の型にはめもどすのはもう不可能だということである。(p.560)

●この三年間にあった朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると、つぎのようになる。清との関係が終結し、日清戦争における日本の勝利とともに、中国の軍事力は無敵であるという朝鮮の思いこみが打破され、本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた。貴族と平民との区別が少なくとも書類上は廃止され、奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。残忍な処罰や拷問は廃止され、使いやすい貨幣が穴あき銭にとってかわり、改善を加えた教育制度が開始された。訓練を受けた軍隊と警察が創設され、科挙〈クワゴ〉はもはや官僚登用にふさわしい試験ではなくなり、司法に若干の改革が行われた。済物浦〈チエムルポ〉から首都にいたる鉄道敷設が急ピッチで進められており、商業ギルドの圧力はゆるめられ、郵便制度が効率よく機能して郵便に対する信頼は各地方に広がった。国家財政は健全な状態に立て直され、地租をこれまでの物納から土地の評価額に従って金納する方式に変えたことにより、官僚による「搾取」が大幅に減った。広範かつ入念な費用削減が都市および地方行政府の大半で実施された。(p.561)

●今日の朝鮮人は何世紀にもわたる弱い立場の産物であるとはいえ、それでも朝鮮で一年近くをすごし、そこに住む人々をおもな研究対象とした結果、わたしは一八九七年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
 I 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
 II 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。(p.563)

●戦争を起こした表向きの理由は、日本政府は慎重に期してそれに固執して言えるが、日本にとって一衣帯水の国が失政と破滅の深みへと年々沈んでいくのを黙って見すごすわけにはいかない、国政の改革が絶対に必要であるというものだった。日本がこの例外的な責務を引き受けたその最終目的はどこにあるか、それを憶測する必要はない。日本がたいへんなエネルギーをもって改革事業に取りかかったこと、そして新体制を導入すべく日本が主張した提案は特権と大権の核心に切りこんで身分社会に大変革を起こし、国王の地位を「給料をもらうロボット」に落ちぶれさせたものの、日本がなみなみならぬ能力を発揮して編みだした要求は、簡単で自然な行政改革の体裁を示していたことを指摘すればこと足る。
 わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。(p.564-565)

●(前項のつづき)一年有余、失敗はままあったにもかかわらず日本は前進をつづけ、有益かつ重要な改正を何件かなしとげ、またその他の改革を始動させた。日本にとってみれば、現在行われている改革は自分たちが敷いた路線の上にあるものではないかと念を押していいのである。そこへ三浦子爵の残忍なクーデター(引用者注:閔妃殺害事件のこと)が起き、日本は文明諸国に対して国家と外交能力への信用を失ってしまった。つづいて日本は駐屯隊を引き上げさせ、多数いた顧問官、検査官、軍事教官を帰国させた。そして積極的な専制から外見上自由放任主義的な方針にかわったのである。「外見上」とわたしは書いたが、それはこの賢明で野心的な帝国が朝鮮での不運な状況をいっさいのおわりと認識し、絶望のうちに身を引いた(!)とはとうてい考えられないからである。(p.565)

ことあるたびに、ロシアは朝鮮で支配的立場に着けるチャンスを見逃してきた。そんな立場になど着きたくもないというのがほんとうのところのようである。わたしたちにはうかがい知れないが、ほかに狙いがあってそれと両立しないのかもしれない。同時に、日本の影響力は静かにまた着実に増大している。たしかに三国[ロシア、フランス、ドイツ]が下関講和条約に干渉した大きな目的は、日本が大陸進出の足がかりを得るのを阻止することにあったが、日本が待機戦術をとって過去の失敗を逆に生かし、正式の保護権も得ないまま、商業と移民というあくまで実利的な目的のために大陸の一地域を自国の領土に加えることは、必ずしもありえないとは思えない。予断は危険であるが、つぎのことは言える。もしもロシアが現在見通されるような遅々とした展開に満足せず、朝鮮に関してなんらかの積極的な意図を明示するつもりであるとすれば、日本にはその車輪にブレーキをかけるくらいの力は充分備わっている! とはいえ、朝鮮がひとり立ちをするのはむりで、共同保護というようなきわめてむずかしい解決策でもとられないかぎり、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない。(p.568-569)

●ざっとではあるが、以上が一八九七年末時点での朝鮮における政治情勢である。朝鮮は長くつづいた中国との緊密な政治的関係を断ち、日本から独立というプレゼントをもらったものの、その使い方を知らずにいる。イギリスは見当がつかなくもない理由から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない。そして朝鮮の領土の保全と独立は、極東における利害関係が敵対しているといって語弊があれば、対立している帝国主義列強のなかでも、最も辛抱づよい国と最も野心的な国のなすがままとなっている。朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのはじつに残念な思いである。(p.571)

 _________________________「朝鮮紀行」引用ここまで


 この後、朝鮮半島は日本とロシアの対立の場となり、日露戦争(1904年2月~1905年9月)へとつながっていくわけですが、それはまた別の話――。

 奇遇にもバードは日露戦争真っ只中の1904年10月に72歳で亡くなっています。彼女はこの戦争をどんな思いで受け止めたのでしょうか?
 p.568-569とp.571の記述を見る限りにおいては、日露戦争勃発の可能性は十二分に予見していたようですが。

 さて、断髪令に対する朝鮮庶民の反発は凄まじいものだったようですね。
 反日感情を伴ったという側面ももちろんあるのでしょうが、小中華思想の影響も非常に大きかったようです。
 衛正斥邪(儒教を守り攘夷を行う)を唱える儒者たちにとって、断髪令は小中華朝鮮の礼俗を捨て去り、夷狄(野蛮人)に堕するものと受けとられたそうです(こちら参照)。

 日本でも明治4年に断髪令(散髪脱刀令)が布告されましたが、これは髪型を自由にして構わないというものであり、「まげ」を切れと強制するものではありませんでした。
 幕末からすでに「まげ」を結わずに散髪する風潮が広まっていたこともあり、朝鮮とは違って非常にゆるやかな転換だったんですね。

 朝鮮人は保守的すぎて変化に弱く順応性に欠ける、日本人も保守的ではあるものの同時に変化にも強く順応性もある。そのような印象を私は持ちます。
 もちろんどちらが良い悪いという話ではありませんよ。たとえば敗戦後の日本を見た時、日本人は不幸にも「順応性がありすぎた」がために国柄を大きく破壊しまったんじゃないかと、私は時折思ったりもしますから。

 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」紹介はこれにて終了です。
 皆様、お付き合いありがとうございました。


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