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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)

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 イザベラ・バード著「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第2弾です。

 ※第1弾はこちら。
  8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)

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 これは「朝鮮紀行」158ページに掲載されている絵です(クリックすると新規画面で拡大します)。バードが撮影した写真をもとに画家が挿画用に描いたものです。

 キャプションには【朝鮮の母親の衣装】とあります。いわゆる「乳出しチョゴリ」というやつでしょうか。

 第1弾で掲載したソウルの「南大門路」の写真もそうでしたが、朝鮮史関連のサイトをよく回られている方でしたら、こういった朝鮮女性の衣装の写真や絵を一度はご覧になったことがあると思います。

 ――「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。当時60代。

 当時の朝鮮は開国直後でした。
 バードが最初に朝鮮入りした1894年の8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
 列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。

 その他詳細は第1弾の前書き及び後書きをご覧下さい。

 以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●大きくてゆたかなたたずまいの川陽〈チヨニヤン〉の村で、わたしたちは村人から、「サーカス」があるから見にいこうと誘われた。行ってみて、場所が手入れもよく羽振りもよさそうなかわら屋根の大邸宅の中庭であると知り、引き返しかけたところへ、家にお入りくださいと心安く呼びかけられ、わたしは侍女たちに(文字どおり)捕まえられて、女たちの住まいのほうへ連れていかれた。わたしを取り巻いたのは、若いのもいれば年寄りもいて、妻もいれば妾も召使いもいるという四〇人は超しそうな女たちの集団で、だれもが晴れ着で装っていた。正妻はとても若く、インドかどこかの装身具をつけており、とても美人で、なんともいえずきめ細かな肌をしていた。が、四〇人を超すこの集団は、ひとり残らず礼儀に欠けていた。女たちはわたしの服を調べ、わたしを引っ張りまわし、帽子を取ってかぶり、髪をほどいてヘアピンを試し、手袋をはずさせてきゃあきゃあ笑いながらそれをはめた。そしてさんざんわたしをさかなにしておもしろがったあとその種も尽きると、自分たちの住まいを見せてもてなすことを思いつき、みんなしてかかえ上げんばかりの勢いでわたしに群がった。案内されたのは順につながった一四室ある部屋で、ほとんどどの部屋もせっかくのすらばらしい寄木張りの床が、ひどく醜いアニリン染めの「けばけばしく」て悪趣味なブラッセルカーペットで全面もしくは一部が覆われていた。安っぽい金ぴかの縁をした大きな鏡が淡い色合いの壁でぎらぎら輝き、フランス製の時計がどの部屋でも成り金的な趣味の悪さを発揮していた。(p.121-122)

●(前項のつづき)ホストは一八歳の若者で、朝鮮政府要人の長男である。((中略))この政府要人の息子はわたしのカメラの中を見たがり、写真を撮ってほしいと言った。そこでわたしたちは写真を撮るために、いまやたいへんな人数にまでふくれあがり、ますます不作法でうるさくなりつつあった野次馬を避けて屋敷の裏手におもむいた。わたしはホストの若者に朝鮮人の口には下品に見える外国製葉巻より、この国らしい長ギセルをくわえてもらった。ちょうどそのときホストの友人が何人かやってきた。その友人たち、つまりこの若者の取り巻きは、最近行われた試験で彼が優秀な成績をおさめたので祝宴を張っていたらしく、すぐさま出ていけと粗野なことば遣いでわたしたちを追い払おうとした。明らかに、礼儀を逸した好奇心が満たされたいまは、わたしたちがいることも、わたしたちが丁重にもてなされていることも彼らにはおもしろくないわけである。取り巻きのリーダーが荒っぽく話しかけると、ホストは政府首脳の息子であり、亡き王妃の近い親戚でもあるのに、わたしたちに背を向け、すごすごと自分の居室のほうへ引き上げてしまった。まさしく「捨てられたおもちゃ」となったわたしたちは、いくぶん屈辱的な思いで退去するしかなかった。(p.122-123)

●(前項のつづき)概して安ぴかの外国製品を大歓迎する風潮は、自由に使える金のある若い「名士」のあいだで急速に広まっている。彼らは朝鮮的な簡素さをばかにし、後輩たちにあくまでも自己本位でしかも度を越した乱費の手本を示しているのである。あちこちに庭のある邸宅は新しくて立派で、どこをとってもカネ、カネと叫んでいるようだった。わたしはよろこんで粗末な舟に帰り、「簡素な生活」に「高尚な思考」がうまくともなってくれればと願ったものである!(p.123)

●(漢江の湾曲部にできた平野のまん中に立つ粗く削った大石を積んだ石塔の近くで)何人もの男がひどく酔っぱらっており、過度に酒を飲むしきたりが多少なりとも目につかない日はほとんどなかった。舟乗りは夕方からの休息を大酒を飲んで祝い、わたしたちが舟をつなぐころになると岸に集まってくる人の群れは、必ずなかにひとりやふたりは酩酊して騒々しくふざける男がいて、いつもにぎやかだった。漢江遡行中とそのあとに観察したところによれば、酔っぱらいは朝鮮の大きな特徴であるといわざるをえない。そしてまた、酔っぱらっても恥ではない。正気を失うまで酒を飲んだとしても、粗野だとは見なされない。偉い高官が満腹するまで食事をとり、食事の終わったころには酔いつぶれて床に寝転がっていても、地位を失うことはなく、酔いが覚めれば、このような贅沢ができるほどゆとりがあるのはすばらしいと目下の者から賛辞を受けるのである。(p.125)

●清風(引用者注:町の名前)にかぎらずどこにおいても、一般庶民は、好奇心はすさまじいものの粗野ではなく、わたしたちが食事をするのを眺めるときでもたいがいある程度離れて見物していた。しかし庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い不作法な行為を何度も受けた。わたしの居室のカーテンを勝手に開けて中をのぞき、やめていただけないかと慇懃〈いんぎん〉に頼んでいる船頭に威嚇する者までいた。それとは逆に、無学な階層の男たちはこまやかな親切をさまざまな形でわたしたちに示し、早瀬でロープを引っ張るのをよく手伝ってもらった。(p.128)

●美しい地にあるパガミの村には、一本の柱にこう大書してある。「パガミを通る両班〈ヤンバン〉の従者は、礼儀正しく品行方正であれば問題ないが、素行が悪ければなぐられる」。なんと痛快な主張であることか! というのも、朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。パガミのはり札の意味もこれで説明がつくわけである。(p.137)

●非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎日笞〈むち〉で打たれる。あるいは捕らえられ、金が用意されるまでは両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである。(p.138)

●漢江を横切り、永春〈ヨンチユン〉の船着場に着いた。((中略))必ずしも礼儀をわきまえているとはいえない野次馬が郡庁までわたしたちのあとをついてきた。わたしは郡庁で金剛山〈クムガンサン〉へ行く内陸ルートの情報がすこしでも得られるのではないかと期待していた。郡庁構内へはいっていくと、下級官吏たちはとても横柄で、その無礼な応対ぶりをしばらくがまんしてようやくなかの部屋へ通された。そこには郡長代理が喫煙具をかたわらに、床にすわっていた。腹黒そうな、人をばかにしたような人相の男で、わたしたちのほうをちらりとも見ず、口をきいてくれたとしても部下を通して短い答えが返ってくるだけで、その間わたしたちは部屋の入口の前に、ついてきた群衆に押し倒されそうになりながら立たされたままである。東洋では内密に面談するということがめったにできない。わたしが朝鮮の役所を訪ねたのはこれが最後になった。(p.139-140)

●(郡庁から)町にもどるときも野次馬は文人階級の「名士」数人を先頭に、わたしたちにぴったりくっついてきた。若い男がひとり、わたしのうしろに来てくるぶしを蹴飛ばし、ちょっと下がる。そしてまた近づいてきて同じ動作を繰り返した。さらにもう一度蹴飛ばしかけたとき、ミラー氏(引用者注:バードと共に旅行している若い宣教師)がおもむろにうしろを向き、あわてず騒がずそのちんぴらの胸ぐらに的確な一撃をくらわせた。男はすっ飛び、道のそばの麦畑にひっくり返った。群衆はげらげら笑い、男の仲間がミラー氏に、どうかもうこれ以上手荒なまねはしないでくれと請うた。群衆は散り、ちんぴらはやはりちんぴらの例にもれず卑怯でずっとうしろに退いてしまい、わたしたちは渡し場まで気持ちよく散歩した。渡し場では渡し船のなかで長いこと待たねばならなかったものの、野次馬はおらず、船頭も乗客もきわめて礼儀正しくて親切だった。ミラー氏は手荒にふるまわざるをえなかったことを残念がっていた。たしかに私刑ではあったが、即決の処罰であり、まったく冷静に実行されたので健全な印象を与えたと思う。(p.140)

●このささやかな旅の素描は、旅の暗い部分が強調されることになりそうなので、朝鮮国内の旅行にはとても不快な面があること、「世界駆け足旅行家」にはまったく適さないこと、専門家ですら出発に大いに二の足を踏みかねないことがおわかりになろうかと思う。
 わたしにとって朝鮮の宿で不快きわまりなかったのは、人々とくに女性の不作法でどうにも御しがたい物見高さだった。今回旅したどの地域でも人々はこれまで西洋の女を見たことがなく、わたしはそれ相応のいやな思いをした。四方巨里〈サバンコリ〉はその典型といえるかもしれない。(p.166)

●(前項のつづき)わたしの部屋は不潔で人のごった返している中庭をはさんで馬たちとは反対側にあった。((中略))わたしの部屋には紙をはった格子戸が三枚あった。壁のない空間はあっという間に男や女や子供でぎっしり埋まった。戸の紙は引きちぎられ、汚れた蒙古人種の顔がいっぱいその破れ目からのぞく。キャンブリックのカーテンをたらしたが、そのカーテンも長い棒で部屋のまん中までつつかれてしまった。人々は戸のこちらになだれこみ、狭い部屋は人でぎっしりいっぱいになった。女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰かけ、わたしの服を調べ、部屋ピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォン(引用者注:バードの従僕で元サンパン乗りの清国人)に三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p.167)

●(前項のつづき)いっしょにやってきたのはゆたかな髪をまんなかで分け、長いおさげに編んでうしろにたらした、家の外で唯一見かけられるきれいな「女の子たち」、つまり未婚の男子である。押し合いへし合い、ほどをわきまえないなれなれしさ、騒々しいおしゃべり、そして汚れた衣服の臭い。こういったものを室温華氏八〇度[摂氏二七度]の部屋で展開されたのでは耐えられなかった。ウォンがこれで四度目の掃除をしながら、今度彼らが押しかけてきたら、ベッドにすわって拳銃を磨いていたらどうでしょうと提案した。わたしはこの提案を受け入れた。まだウォンが部屋から出ていくかいかないかのうちに、またも彼らは押しかけてきたが、さすがに今度はたちまち逃げだしていった。そしてそのあとの時間、わたしは悩みの種から解放されたのだった。好奇心をむき出しにした同じように強引でがまんできないできごとは毎日三度三度起き、このような具合ではいつもにこやかにしているのはむずかしかった。(p.167-168)

●旅人が馬または徒歩で進むペースはいずれの場合も一時間に三マイルで、道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、均〈なら〉してない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝生だけでできており、七月はじめの雨で流されてしまう。そして一〇月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。(p.169)

●(金剛山の長安寺にて)修行僧たちはひどく無学で迷信深い。みずから信仰している宗教の歴史や教義についてほとんどなにも知らない。経文の意味についてもそれは同じで、彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。漢字を知っている者もなかにはいるものの、また朝鮮では漢字の読み書きとはすなわち「教育」であるとはいえ、礼拝の際には彼らには意味などちんぷんかんぷんのサンスクリット語あるいはチベット語の文句をつぶやいたり唱和したりするのである。大半の修行僧からわたしが受けた印象は、彼らはなんの意味もなく宗教的な儀式や作業を行っており、何人かの例外をのぞいて、信仰を持っていないというものであった。朝鮮人は一般に僧をはなはだしい放蕩者だと考えており、たしかに大きな寺院のひとつではそんな僧もいると気づかずにはいられなかったが、しかしロマンチックで古雅な環境や、見るからに秩序のある平穏なその生活ぶり、安心して世話を受けている老人や困窮者に対する慈善の心、それにやはりこの身に受けた好意や親切を考えると、わたしは彼らがなんらかの魅力を持っていると認めずにはいられない。そしてまた、その欠点よりも美徳のほうを忘れずにいたいと思う。(p.187-188)

●(金剛山の長安寺にて)ほんのひと握りの例外をのぞき、修行僧全員が頭陀袋〈ずだぶくろ〉を下げ鉢を手に徒歩の旅に出て、ぬかるみと土ぼこりだらけの険しい道を歩き、不潔でむさ苦しい宿に泊まり、その坊主頭と信仰をさげすむ人々に物乞いし、最下層の人々からも「目下に対することば遣い」をされなければならないのである。((中略))このあたりの寺院で仏教の生みだした文化全般、そして親切なもてなしや配慮、やさしい態度は、この地以外の儒教信奉者を自称する朝鮮人のなかで目撃した尊大な横柄さ、傲慢さ、慢心ときわめて対照的である。(p.196-197)

●大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもつぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンド(引用者注:1ポンド=約454グラム)はゆうにある肉を食べるのを見たことがある。「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのは間違いない。朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。(p.203-204)

●距離の魔法がとけるにつれ、磨釵洞〈マチヤドン〉(引用者注:全国的に有名な八つの景勝地のうちの一つ、侍中台〈シジユンデ〉の西にある淡水湖)の村落はパープルから地味なグレーの色調に変わって味気ないその実体をあらわし、美しい海辺で休息をとるというロマンチックな夢は消えた。長くてゆがんだ、狭くわびしい通りからはさらに狭い横道が分岐し、魚の腐肉とごみの山で豚と、毛が抜けて目のにごった犬と、皮膚病にかかった子供たちがいっしょくたになって転げまわっている。水たまりには茶色い浮きかすが厚く張り、ふたのない下水になりさがってしまった小川にはどろどろした緑色の汚水がどんよりと流れている。白砂の浜は干してある魚で黒くなり、魚をならべる枠がそこかしこにある。あたりには耐えがたいにおいがたちこめ、男も女も子供もだれもかもが体も服も汚れ放題で、わたしたちの行くほうへ集まってくる。そして宿屋は朝鮮で泊まったなかでも不潔きわまりないことこの上なく、この夜の記憶はわたしの脳裏に完全に刻みこまれてしまった。(p.206-207)

●磨釵洞をはじめ、手ごろな海岸で船を退避させられるところなら必ずある海岸沿いの村落は、その存在理由を沿岸漁業とする。八〇〇〇人を超える日本人漁師が釜山周辺の沿岸漁業で生活を営んでいるという事実は、きわめて豊富な漁獲量があることを示している。朝鮮の漁民は意欲にはなはだしく欠けるとされており、オイセン氏は一八九一年度の元山(ウオンサン)に関する税関報告で「幼稚なわなを沿岸に仕掛けておいて、毎日一時間かそこら見張っていればとれるような漁獲高で満足している」と朝鮮の漁民を非難している。とはいえ、わたしが通りがかった各村落には七隻から一二隻の漁船があり、海に出ていたことを言っておかねばならない。航海には適さない舟であるから、沿岸から離れないのもむりはない。漁業が停滞しているのは、ほかの諸産業と同じく、労働者の所得がまったく不安定でしかも官僚が搾取しているからであり、朝鮮の漁民はどうせなにかと口実を設けて取り上げられてしまう金銭なら、儲けようという気にはならないのである。(p.208)

●(村落チンプルにて)作物は整然と植わっており、畦〈あぜ〉や灌漑用水路もよく手入れされている。日本と土壌がきわめてよく似ているのであるから、しかも朝鮮は気候には日本よりはるかによく恵まれているのであるから、行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。(p.211)

●長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまやかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。夏のあいだは除草しておくべきなのにそれがされていないし、石ころが転がったままの地面も多く、また畑の周辺や畦は手入れが行き届いていなくて、石垣がくずれたままになっているのは目ざわりである。農地を通る小道はかなり傷み、両側には雑草が生えていて、畑のうねはあまりまっすぐではない。それでもさまざまなことから予想していたよりは、概して耕作はずっと良好であるし、作物ははるかに清潔である。(p.211)

●(釈王子〈ソグワンサ〉にて。釈王子は朝鮮仏教の隆盛期に李朝最初の王・太祖が教えを受け、暮らした所)でっぷり太って陽気な中世の修道士を思わせる僧侶が、古風な建物の入口にあわられ、わたしたちを迎えてくれた。この住職と修行僧たちは来客用広間でハチミツ水をふるまってくれたが、それと同時に来客簿を取りだし、わたしたちにいくら払ってくれるかと尋ねて、答えた金額をしっかり記帳した。強引にお金を巻き上げられた馬夫たちをして「どろぼうになりさがった」と言わしめたこの修行僧たちの強欲なやり方は、同じ聖職者でも金剛山の修行僧たちのあの親切な思いやりとは対照的で、これが歩いてほんの一日の距離にある条約港の悪しき影響でなくてなんであろう!(p.220)

●日中のいちばん暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。((中略))路地の悪臭はすさまじく、土ぼこりはまったくひどいもので、哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのにいは完全に胸が悪くなった。屠殺方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソウルでもほかの町でも外国人は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧〈ちょうな〉を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。(p.223)

●わたしたちは朝鮮国内で最も整然として魅力的な町に入っていた。一八八〇年に日朝貿易に対して、一八八三年に海外貿易全般に対して開港した元山条約港の日本人街である。
 通りは広くて手入れが行き届き、波止場は整然とし、家々はこぎれいかつじょうぶで、つんと取り澄まして諸事にうるさい日本人の性格をあらわしている。和洋折衷の大きくてとても目立つ日本領事館、日本郵船会社「NYK」の社屋(NYKは極東に住む西洋人にとって「P&O」[英国最大の海運会社、ペニンシュラー&オリエンタル汽船会社]と同じくらいなじみのある略称なのである)、定評のある日本の銀行、こぎれいな読書室のある税関の建物、西洋の品物が手ごろな値段で購〈あがな〉えるこぎれいな日本の商店、洋装の教師のいる大きな学校、ちょこまか動く矮人〈こびと〉の男たち、歩き方はぎくしゃくとしているもののベールなどで顔を隠さない、しとやかな女たち。こういったものを特徴とするこの気持ちのいい日本人居留地は、幸運にも歴史を持たず、その発展は急速ではないものの、平和でおだやかで、朝鮮その他の外国との軋轢〈あつれき〉に損なわれてはいない。先ごろの戦争[日清戦争]ですら、清国領事とわずかにいたその同国人を退去させたとはいえ、それは人口からいえば微々たる数で、この町にはこれといった爪痕を残さなかった。例外といえば、日本人の支払う莫大な賃金のおかげで、荷役夫が穴あき銭ではなく円でギャンブルができるようになったことくらいである!(p.223-224)

外国人のなかにも東学〈トンハク〉党に共鳴する声はあった。なぜなら悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態で、あまりな搾取に対し、よくある農民蜂起を超えた規模で武装抗議するための時は熟していると考えられたからである。
 しかしまさにこういったことがさしたる関心もなく元山で語られていたとき、既成のものごとの秩序に対する恐るべき脅威が形をとりつつあった。そして数日のうちに東学党は葬り去られてしまい、世界じゅうがこのちっぽけな半島に注目する結果となったのである。
 わたしは六月一七日に汽船で元山を発ち、一九日に釜山に到着したが、釜山港に日本の砲艦が停泊しており、その朝、肥後丸から二二〇人の日本人兵士が上陸し、丘の上の寺に宿営していること、東学党が釜山・ソウル間の電信線を切断したことを知っても驚きはしなかった。
 釜山に在住するわずかな西洋人のあいだに動揺はなかった。大規模な商業街を持っている日本人は防衛手段に多大な関心を示しており、それはまた当然至極な反応といえた。日本軍が済物浦〈チエムルポ〉(引用者注:ソウルの海港。漢江(ハンガン)の河口にある)に上陸したといううわさはまったく軽視されていた。
 ところが、二一日の早朝に済物浦に到着すると、きわめて刺激的な事態が展開していた。日本の軍艦六隻、合衆国の旗艦、フランスと清の軍艦が各二隻、ロシアが一隻という大艦隊が外港に待機していたのである。(p.229-230)

●わたしが済物浦に着く二、三日前のできごとはこの局地的な動乱を陰へ追いやってしまったのである。なんと好都合な干渉の口実を東学党は日本にあたえてしまったことか、それを明らかにしたい一心で、わたしはいま、もはや過去の歴史となってしまったできごとをこのささやかな章で思い返している。
 朝鮮にとって国の存亡に関わり、外交的に最重要な意味合いを持つ疑問は、「日本の目的はなにか。これは侵略ではないのか。日本は敵として来たのか、味方として来たのか」であった。(p.233-234)

●極東政治情勢の学徒ならだれしも、この日本軍の巧妙かつ常軌を逸した動きが済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものでもないことがわかっていたはずである。ぐらついた日本の内閣が失墜か海外派兵かの二者択一を迫られたのだとさまざまなすじは言い、またそう信じた。しかしこれはまったくのこじつけである。日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地がない。朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食糧についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを測り、三カ月分の米を朝鮮で備蓄していたのであるから。そしてその一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にまでも足を運んで清国の強みと弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミーの銃器、旧式で鋳〈い〉ぞこないの多いカロネード砲について報告していたのであるから。彼らは清国各地方からどれだけの兵士を戦場に動員できるか、いかにして彼らを教練し武装させるかを清国人以上に知っていた。また、腐敗と不正がはびこり、そこに愛国心の欠落が結びついて、兵站部など書類上でしか存在しないも同然の状態になりはてている清国が、戦闘を維持するのはおろか、まともな軍隊を戦場に送りこむことすらとうてい不可能であることも知っていたのである。(p.234-235)

厳格に統制された折り目正しい矮人〈こびと〉の大隊は着実にソウルへと進軍しつつあった。当時とその後しばらくのソウルの状況はつぎのとおりである。国王は人目の届かぬ王宮に隠れ、名ばかりの政府はすでに瓦解していた。イギリス総領事のヒリアー氏は休暇で本国にもどっており、総領事臨時代理のガードナー氏は朝鮮に赴任してまだ三カ月しかあっていなかった。合衆国公使はそれよりさらに日が浅かった。フランスとドイツの領事は保護には関心がなく、あったとしても微々たるものであるから、考慮に入れる必要はほとんどない。九年にわたりロシアの代表を務めてきた有能かつ慎重な外交官であり、外国人社会全体から信頼を得ていたウェーベル氏は、北京駐在代理大使に任命され、その前の週にソウルを離れていた。したがって、あと残って相対していたのは、臨時の任務で来朝していた北京駐在日本公使の大鳥[圭介]氏、そしてソウル在住清国弁理公使を数年務め、清国皇帝の信任も絶大に厚い人物袁世凱〈ユアンシーカイ〉だった。袁世凱は外国人たちからたいへんな勢力をもった如才のない辣腕家と目され、「王位の陰の力」と一般に見なされていた。(p.236)

 _________________________「朝鮮紀行」引用ここまで


 この後、バードはイギリス副領事の忠告により済物浦(ソウルの海港。漢江(ハンガン)の河口にある)をあとにせざるをえなくなりました。荷物を元山に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。

 そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。

 また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と記しています。

 満州(馬賊、満州族の特徴、奉天で遭遇した洪水など)の記述を経て、その後はいよいよ日清戦争、そして王室――李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした――の記述に入ります。

 このあたり、かなり政治色が濃くなっていくのですが、続きはまた次回ってことで<(_ _)>

 ――それにしても、朝鮮の野次馬の不作法は限度を超えてますね(T^T)。バードが「ベッドに座って拳銃を磨いて」彼らが寄りつかないようにしたという箇所を読んだ時は、正直苦笑いしてしまいました。

 もちろん朝鮮の人々全てが粗野だったり不作法だったりというわけではないようですが……。
 付け加えると、同じ朝鮮人でも、とりわけ貴族や役人や知識層など地位の高い人は概して態度が悪いようです。

 また、庶民が上流階級から「搾取」されているという種の記述は何度も何度も出てきます。
 李朝末期の役人や貴族はひどく腐敗していたと聞きますが、それはやはり間違いではないようです。

 ちなみに彼女は朝鮮旅行をする十数年前(明治11年)に日本を旅行しており、その体験記は1880年(明治13年)に出版されました。
 全訳版は現在日本でも読むことができ、講談社学術文庫から「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」として出版されています。
 (この中身については拙ブログの「外国人から見た日本と日本人」シリーズ(現時点での最新エントリーこちら)で断続的に紹介しています)

 「日本紀行」での日本に対する記述は「朝鮮紀行」での朝鮮に対する記述とは対照的です。日本の庶民にかなり好意的ですし、日本の統治システムや役人・警官等の振る舞いについても高評価です。

 以下、「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」より引用。

 「わたしの受けた第一印象は、この国はよく統治されているというものです。上陸したとたん、サンパンや人力車の料金表、掲示板の公告文、きちんとした警察官、乗り物の提灯、外国貨幣の拒絶、郵便規則などなど、「規則」に出会うのですから。それにこれも言わなければならないでしょうか。ぼられることがまるでないのです!」(横浜にて)

 「この町に外国人は多いのに、わたしたちはおもしろいもの、あるいはめずらしいものとしてじろじろ見られました。ハリー卿がたいへん快活に外交経験のなにがしかを回想しているあいだに、わたしたちのまわりにはひとりでに野次馬が集まり、口を開けて黒く染めた歯をのぞかせ、とても黒い目でぽかんとわたしたちを見つめました。でもそれがあまりに丁重なので、見つめられているという気はしませんでした」(吹上御苑にて)

 「だれもが清潔できちんとした身なりであること、みんなきわめておとなしいこと、昼日中に何千人もの人々がお寺に押しよせているのにみんな礼儀正しくて秩序が保たれていること、ひとりの警官もその場にはいなかったこと。こういったことに私は深い感銘を受けました」(浅草観音寺にて)

 「『ふつうの人々』がどのように振る舞うかをとても見たかったので、三等車に乗りました。車両は肩の高さより上は仕切りがなく、たちまち日本人の最も貧しい階層の人々で完全に満員になりました。三時間の汽車の旅でしたが、わたしは乗客の彼ら同士やわたしたちに対する親切心と全体的な礼儀正しさにつくづく感心しました。非常に行儀がよくてやさしく、それはみごとなもので、故国の大きな海港都市あたりでおそらく見られるものとはとても対照的です。それに日本人はアメリカ人のように、きちんとした清潔な服装をして旅し、自分たちや近所の人々の評判に気を配るのです。わたしたちの最良のマナーも優美さと親切さの点で彼らに及びません」(神戸-大阪間の汽車内にて)

 「どの店でもわたしが腰を下ろすと、野次馬が店先に集まります。野次馬は主に女性と子供たちで、ほとんど全員が赤ん坊を背負っており、まじめな顔で黙ってぽかんとこちらを見つめるので、わたしはどこか落ち着きません」(日光、入町にて)

 「この日本の野次馬たちは静かでおとなしく、乱暴に押し合いへし合いすることは少しもありません。相手があなたでなければ、彼らのことでこんな愚痴をこぼすこともなかったでしょう。警官のうち四人がまたやってきて、町の外れまでわたしを警護してくれました」(会津平野、高田にて)

 「わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クヮイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました」(会津平野、津川にて)

 「その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイルを危険な目に遭うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う

 
 バードはこのように日本では、珍しがられて野次馬にじろじろ見られるということはあっても、それ以上無礼な目には遭ったことがなく(もちろん例外はあったでしょうが)、朝鮮で体験したような、たとえば宿の部屋に大勢で押しかけられたりとか、ましてや暴力を振るわれたりということはなかったようです。

 また、日本の場合、都会では(少なくとも日光までは)ある程度、宿も人間も清潔であるものの、田舎の方は衛生状態が悪いという記述が目立ちます。
 ところが朝鮮の場合は、首都ソウルですら衛生状態が悪いと記述されているのです(8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)を参照。ちなみにバードが日本を旅したのは1878年、朝鮮を旅したのは1894年~1897年)。

 「日本紀行」と「朝鮮紀行」を読み比べた時、日本人に対する好意的記述・批判的記述の割合を7対3とすれば、朝鮮人に対するそれは真逆で3対7といったところでしょうか。
 「まじめで大人しく礼儀正しい日本人」「見栄っ張りで騒がしく礼儀知らずな(特に上流階級)朝鮮人」という、ステレオタイプともとれる図式がそのまま当てはまってしまう印象を、残念ながら私は受けました。


 ……というわけで、第3弾につづく!……


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