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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)

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 今日はイザベラ・バード著「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けします。

 まだ読んでいる途中なんですが、すでに付箋いっぱい(^^ゞ。たぶんシリーズ化すると思います。

 引用を始める前に、いくつか補足を。
 まずはこちらの写真をご覧下さい。クリックすると新規画面で拡大します。
 
0908bird-soul.jpeg

 これは「朝鮮紀行」73ページに掲載されている写真です。
 キャプションには【ソウル、《南通り》[南大門路]】とあります。
 この写真、朝鮮史関連のサイトをよく回られている方でしたら、一度はご覧になったことがあると思います。
 たとえばこちらのHPにも掲載されています(上から2つ目)。

 このソウルの写真が長年私の記憶にずっとあったんですが、今回「朝鮮紀行」のソウルの町並みに関する記述を読んでみて、まさに写真通りだったんだなと再確認できた思いです。

 「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性です。
 1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。当時60代。パワフルですねー(≧∇≦)

 当時の朝鮮は開国直後でした。
 バードが最初に朝鮮入りした1894年の8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
 列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。

 3分の2ほど読み進めたところでの印象は、バードは朝鮮や朝鮮人に対してかなり辛辣な筆致です。もちろん良い面についても少しは記述していますので、そのへんも含めて引用したいと思います。

 また、日本がこの時代、朝鮮に大きく関わっていたこともあり、日本や日本人に関する記述もよく登場します。全体的に評価した記述が多いのですが、政治絡みでは批判的な記述もかなり出てきます。
 閔妃殺害事件では特にその傾向が強いです。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したと思われます(当時の外国人旅行者の中でもとりわけバードは閔妃に信頼されていたようです)。

 他に、バードの記述には西洋的あるいはキリスト教的な価値観による偏見めいた箇所、もっとありていに言えば「東洋を下に見た」箇所も多少ありますが、まあ当時としては仕方のないことでしょう。これは「朝鮮紀行」だけでなく「日本紀行」*1にも当てはまることです。

*1 バードは日本も旅行しています。1878年(明治11年)のことです。日本での体験を記した著書は1880年(明治13年)に出版されています。全訳版は現在日本でも読むことができ、講談社学術文庫から「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」として出版されています。この中身については拙ブログの「外国人から見た日本と日本人」シリーズ(現時点での最新エントリーこちら)で断続的に紹介しています。

 基本的に朝鮮で見聞きしたこと、感じたことを素直に書いているなという印象ですが、それにしてはバードは当時の政治的状況なんかもよく把握しています。

 まえがきで「協力をいただいた朝鮮在住の友人たち」が紹介されており、その中に駐朝イギリス総領事ウォルター・C・ヒリアー卿、朝鮮税関長J・マクレヴィ・ブラウン氏、ロシア公使ウェーベル氏などの名前があるので、おそらくはこういった筋から情報をもらったのだろうと推測します(もちろんバード自身が帰国後に当時の情勢を調べて記した部分もあるでしょうが)。

 前置きが大変長くなりました。
 以下、イザベラ・バード「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________

●知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居〈ちっきょ〉しており、きわめて劣った地位にある。(p.25)

●朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。とはいえそれは一〇〇〇年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文〈オンムン〉[ハングル]は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。もともと諺文は女性、子供、無学な者のみに用いられていたが、一八九五年一月、それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ、新しい門出となった。これは重要な部分を漢字であらわしそれをかなでつなぐ日本の文章の書き方と似ている。(p.32-33)

●開国の一〇年前に朝鮮国王は宗主国である清の皇帝に対し「教育ある者は孔子と文王の教えを守り実践している」と書き送っているが、このことこそ朝鮮を正しく評価するための鍵である。政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。日清戦争以降朝鮮人は清に援助を期待するのはやめたとはいえ、清に対しては好感をいだいており、崇高な理想や尊ぶべき伝統、道徳的な教えを清に求めている。朝鮮人の文字、迷信、教育制度、祖先崇拝、文化、考え方は中国式である。社会は儒教を規範とした構造をとっており、子供に対する親の権利や弟に対する兄の権利は清においてと同じく一〇〇パーセント認められている。
 このように旧態依然とした状況、言語に絶する陳腐さ、救いがたくまた革新のないオリエンタリズムの横溢する国に、本家には国をまとめる民族の強靭さがあるのに、それを持たない清のパロディたる国に、西洋による感化という動揺がもたらされたのである。(p.34)

●釜山の居留地はどの点から見ても日本である。五五〇八人という在留日本人の人口に加え、日本人漁師八〇〇〇人という水上生活者の人口がある。日本の総領事は瀟洒〈しょうしゃ〉な西洋館に住んでいる。銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行われている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒造、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った。(p.39)

●朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。平均身長は五フィート四・五インチであるものの、ゆったりした白服がそれよりも高く見せ、山の高い帽子をいつも忘れずかぶっているのでさらに高く見える。(p.40)

●(釜山の)旧市街はみすぼらしいところだとわたしは思ったが、朝鮮の一般的な町のみすぼらしさはこの町と似たり寄ったりであることをのちの体験で知った。狭くて汚い通りを形づくるのは、骨組みに土を塗って建てた低いあばら屋である。窓がなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり、個体および液体の汚物やごみがたまっている。疥癬〈かいせん〉で毛の抜けた犬や、目がただれ、ほこりでまだらになった半裸や素裸の子供たちが、あたりに充満する悪臭にはまったくおかまいなしに、厚い土ぼこりや泥のなかで転がりまわったり、日なたで息を切らせたり、まばたきしている。(p.41)

●一年後に会ったとき、三人(引用者注:朝鮮にキリスト教の伝道に来ていたバードの友人のオーストラリア人女性たち)は相変わらず元気で幸せそうだった。東学〈トンハク〉党の乱や日清戦争が引き起こした朝鮮人のあいだの動揺も、戦争そのものも、三人には外界のできごとだった。日本軍が近くに野営しており、許可を得てこの長屋の井戸を使っていたが、兵隊の態度はいつも丁重だった。(p.43-44)

●日本人居留地はこれ(引用者注:清国人居留地)よりはるかに人口も多く、街も広くてもったいぶっている。領事館は公館としては充分に立派である。街には小さな商店のならぶ通りが何本かあるが、扱っている商品はおもに自国の人々の需要を満たすものである。というのも外国人はアー・ウォングとイータイ(引用者注:清式の旅館「スチュワーズ」の支配人)をひいきにしており、三世紀にわたる[豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の]憎悪をいだいている朝鮮人は日本人が大嫌いで、おもに清国人と取り引きしているからである。しかし貿易では清国人に凌駕されてはいるものの、朝鮮における日本人の立場は、日清戦争前ですら影響力のあるものであった。(p.47-48)

●読者は済物浦〈チエムルポ〉(引用者注:ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)には朝鮮人はいないのだろうかと疑問に思われるかもしれない。彼らはあまり重要でなく、わたしもつい忘れてしまうところだった。増えつつある現地の人々の街はソウルに通じる道路が貫いている日本人居留地の外側にあり、英国教会の建っている丘のふもとに丸く集まっていて、さらに丘の中腹に散らばっている。岩棚ごとにそこから生えたような土壁の小屋があり、不潔な路地でつながっている。路地には汚い身なりのおとなしい子供たちが群がり、父親たちのふがいなさのむこうを張るように街道を眺めている。朝鮮的といえば、丘の頂上にある役所も朝鮮的である。朝鮮人には独特の処罰方法があって、役所の雑卒が容赦のない笞打〈むちう〉ちを行い、罪人を死ぬほど打ちすえる。罪人が苦痛に叫ぶ声は近くのイギリス伝道館の中にまで聞こえてくる。朝鮮にも収賄と汚職はあり、ここばかりではなくほとんどどこの官庁も不正で腐敗している。(p.49-50)

●景観は緑が少なく単調である。果樹とひょろひょろの松以外に樹木はない。姿形の美しさもまったくなければ、景色になんらかの風格を与えてくれる門や塀といった排他のしるしもなにひとつない。こういったところがわたしの受けた第一印象だった。しかしのちの旅行でわたしは、朝鮮の冬独特の澄んだ光を浴びたとき、この道から眺めた景色にさえ、思い返してもうれしくなるほどの美しさと魅力があるのを知るようになった。またソウルの場合、一種ふしぎな趣という点では他のどの首都と比べても優劣つけがたい。ただし、どこにでもしゃしゃり出てくる土ぼこりを大きな特徴のひとつとするそのオリエンタリズムは、急速に地表から失われつつある。(p.52-53)

●わたしは昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、ことばにならないみすぼらしさと色褪せた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点ではほかに比類のない中世風の行列、人で込んだ路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押しよせる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みを知っている。が、人ははじめからそのように「呑みこめる」ものではない。一年かけてつき合ったのち、わたしはこの都を評価するにいたった。すなわち、推定人口二五万のこの都市が世界有数の首都に値すること、これほど周囲の美しさに恵まれた首都はまれなことを充分に悟ったのである。(p.55)

●城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興〈シャオシン〉へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのだから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬〈かいせん〉持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしている。(p.58-59)

●南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には茶屋、劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ五〇〇〇人の日本人居留地がある。ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。女は顔を隠していないし、着物に下駄ばきの人々は日本と同じように自由に動きまわっている。ここではまた下っぱの兵士や憲兵、それにスマートな帯剣の将校も見られる。将校は一定間隔で警備を交代するが、朝鮮では反日感情が根づよいためこのような警戒が必要で、日本公使館員が戦いをまじえつつ海まで逃げざるをえなかったことが二度あった。(p.64)

●ソウルの「風光」のひとつは小川というか下水というか水路である。ふたのない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した排泄物やごみのあいだを、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物をひしゃくで手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯をしている貧困層の女性の姿に、男ばかりの群衆を見飽きた目もあるいは生気を取りもどすかもしれない。これはソウルに特有であるが、女性たちは一様に緑の絹のコート――男物のコート――を着ており、「衿」を頭にかぶって目の下で押さえ、耳のところから幅広の長い袖をたらしている。朝鮮の女性はあだっぽい美女ではないので、顔や体を隠すのはむしろけっこうなことである。(p.65-66)

●路地は疥癬〈かいせん〉持ちの犬の天国である。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。(p.67-68)

●イギリスを発つ前に朝鮮から届いた手紙で、わたしは、朝鮮国内を旅行するのは容易ではない、信頼できる従者を探すのはむずかしいし、信頼できる通訳となるとまず見つからないと知らされていた。((中略))何人もの候補者にわたしは面接した。全員英語はあやふやで、態度はおどおどして煮え切らず、使いものになりそうになかった。旅に同行する意欲充分の候補者もいてなかば契約しかけても、翌日になるとばつが悪そうに椅子のはじでもじもじしながら、母親からむこうにはトラがいるから行くなと言われたとか、三カ月の旅行は長すぎるとか、家からあまり遠くは離れられないとか言う。ようやくこの程度ならと思える英語のできる若い男があらわれたものの、この男は場馴れしたようすで会釈して部屋に入ってくるや、安楽椅子にどっかと腰を下ろし、アームにかけた足をぶらぶらさせたものである!彼は旅についていろいろ質問し、ソウルを離れるのは長期になりそうだから、荷物を運ぶのと自分が乗るのにそれぞれ馬が一頭ずつ必要だと言った。わたしは、旅のわずらわしさを解消するには荷物を極力制限しなければならないと答えた。この男は最低九組の着替えを持たなければ、旅行には出られないという!外国人は二組しか持っていかないものだし、わたしも二組に減らすつもりだと述べると、この男は「ええ、でも外国人は不潔ですからね」と答えた。朝鮮人がこのようなことを言おうとは!そこでわたしはいましばらくソウルに落ち着いて友人たちの世話になり、事態が「好転する」のを信じるしかなかった。(p.70-71)

●この国に典型的庶民生活があるとすれば、それは首都にしか存在しない。イギリスの農業地帯ではロンドン志向がつよいが、朝鮮ではソウル志向がそれよりもつよい。ソウルは中央政府の所在地であるばかりでなく、官僚の生活の中心地でもある。官職いっさいの中央であり、官職に就く唯一の道である文官試験の行われる場所なのである。ソウルに行けばなにかに「ありつけるかもしれない」という期待がつねにある。したがってソウルをめざす風潮は、恒常的なものにしても一時的なものにしてもたえずあり、午後の日和のなか、両班〈ヤンバン〉の歩きぶりをまねつつ広い通りをぶらぶらしている若者の大部分は、是が非でも官職に就きたくてたまらないのである。世論などないとはいえ、流行が世論のごとく見なされる現象はソウルにしか見られない。(p.84)

●ソウルに住む人々はその生活程度を問わず、たとえ数週間でもそこを離れるなど金をもらってもいやだと考える。朝鮮人にとって、ソウルは生活するに値する唯一の場所なのである。とはいえ、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、コドゥン[行幸](引用者注:国王と従者、官僚、兵士らが町中を行進する儀式)というまれな例外をのぞいて、見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない!(p.85)

●清国と同じように孔子廟とその教えを記した碑があるのはべつにして、ソウルには公認の寺院がひとつもなく、また僧侶が城内にはいれば死刑に処せられかねなかったので、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物のあたえる迫力がここにはない。《南大門》外に軍神をまつった小さな堂があり、とてもめずらしいフレスコ画が描かれているが、参拝者に出会ったことはめったになかった。寺院がないのは朝鮮の他の都市の特徴でもある。仏教は李王朝が創建される以前、千年にわたり大衆に好まれた宗教だったが、一六世紀以来「廃止」されており、実質的に禁止されてしまった。聖職者に対して過酷な法律が制定されたのは、三世紀前に日本が侵略してきたとき、日本人が仏教僧に変装して都に入る許可をもらい、守備隊を虐殺したからだと朝鮮人はいう。*1 その真偽はいずれにせよ、朝鮮ではよほど探さなければ仏教の形跡は見つけられない。(p.85-86)
*1 引用者注:Wikipediaによれば、李氏朝鮮時代(1392-)に入ると儒教が国教となったため、仏教は徹底的に弾圧。第4代の世宗の時代(在位1418-1450)までに仏教の勢力は著しく衰退。以降、朝鮮王朝末期まで強い迫害を受けた、とある。
またこちらのサイトによれば、仏教僧がソウルへの出入りを禁止されたのは第11代の中宗(在位1506-44)の時代であり(入れたのは土木工事で使役される際のみ)、秀吉の朝鮮出兵(1592-1598)より明らかに前である。が、朝鮮人が主張するところのこの種の話(「昔、日本人に○○を盗まれた」という種の明らかな言いがかり)は「朝鮮紀行」には幾度となく登場する。


●朝鮮が宗教を持たず、外国人からもたらされた宗教をいそいそと受け入れる国だという考えは捨てるべきである。朝鮮人の受け入れる宗教は、努力せずに金を得る方法を教えてくれる宗教である。無関心がはなはだしく、宗教的機能が欠如しており、興味をそそられる宗教理念が皆無で、孔子の道徳的な教えはどの階級にもたいして影響をおよぼしていない。朝鮮人に言わせれば、自分たちは宗教がなくともとてもうまくやってきたのだから、宗教などにわずらわされたくない、とくにこの世でなにもしてくれないくせに束縛と犠牲をしいる宗教なんぞでわずらわされるのはまっぴらだというわけである。(p.91-92)

●通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称三二〇〇枚で一ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。一〇〇円分の穴あき銭を運ぶには六人の男か朝鮮馬一頭がいる。たった一〇ポンドなのにである!(p.93-94)

●舟の乗組員は、舟の持ち主であるキムとその「雇い人」のふたりだった。キムは背が高く屈強で、貴族的な風貌の絵になる老人で、雇い主は口をきくのを二度しか耳にしたことがない。二度ともひどく酔っぱらったときで、そのときはたいへんな饒舌ぶりを発揮した。概してふたりは折り目正しくもの静かだった。わたしは四六時中ふたりのすぐそばにいたわけであるが、一度として彼らのふるまいにいやな思いをしたことがない。キムは舟の借り賃として月に三〇ドル支払っていたが、彼のものぐさぶりはみごとだった。のらりくらりすごす、舟は遅く出し早めにつなぐ、のろのろ進む、櫓なり棹を使うときは労力を最小限に抑える。これがキムのポリシーなのである。一時間棹を動かしたら舟をつないでたばこを一服、ときには半日かけて米を買う、疲労困憊〈こんぱい〉のふりをして雇い主の感受性に訴える、不精者のよく口にする言い逃れをことごとく用いる。これがキムの習性なのである。契約では三人雇うことになっていたが、キムはひとりしか連れてこず、曖昧な弁解でごまかした。しかしせめてこれくらいは悪く言わせてもらいたい。なにしろ彼らは一日に一〇マイル以上進んだことがなく、七マイルしか行かないこともしばしばで、激しい早瀬に来るといつも引き返したがったのである。(p.99)

●漢江沿いの山々には、ヒョウ、カモシカ、数種のシカが見られる。傑出したものはここでもやはり朝鮮全国の例にもれず、トラである。最初わたしはトラとその略奪行為についてはたいへん懐疑的だった。((中略))けれどもトラにまつわるうわさ話はたえず耳に入るし、村人たちのこわがりようをこの目で見たり、馬夫〈マブ〉[馬丁]やクーリーから暗くなって旅するのを拒否されたり、またたしかに最近数カ所で人や家畜がいなくなったこと、元山〈ウオンサン〉のこぎれいな地域においてさえ、わたしの到着する前の日に少年と幼児がさらわれ、町を見下ろす山の斜面で食べられてしまったことから、わたしも信じざるをえなくなった。(p.103)

●貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくない。自分たちばかりか、朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めてくる、だれもかれもを満たせるだけの生活必需品はある。負債はおそらく全員がかかえている。借金という重荷を背負っていない朝鮮人はまったくまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資に貧窮しているのである。彼らは怠惰に見える。わたしも当時はそう思っていた。しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」とうわさされた者、たとえそれが真鍮〈しんちゅう〉の食器で食事をとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流された者は、強欲な官吏とその配下に目をつけられたり、近くの両班から借金を申しこまれたりするのがおちなのである。とはいえ、漢江流域の家々はかなり快適そうなたたずまいを見せていた。(p.110)

●小集落はべつとして、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校といっても私塾である。家々でお金を出しあって教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。諺文〈オンムン〉[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、わたしの観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。(p.111)

●(舟の持ち主である)キムのなまけ癖と言い逃れのうまさ、激しくはないものの頻繁にあらわれる早瀬、それにどうしても必要な食料探し――こういったもののおかげで舟の進み具合はのろく、旅に出てはじめのちょっとした町であり、亡き王妃の生誕地でもある驪州〈ヨジュ〉に着くのに四月一九日までかかった。わたしにとって驪州は、敵意はないものの騒々しくて不愉快な群衆に囲まれたはじめての場所として忘れられない。「見せ物」になりながら、それがなんの益にもならないのは屈辱的なことである!だれにもじゃまされずにプリズムコンパスを使えないものかと河のなかの岩まで行けば、あやうく水中へ突き落とされそうになるし、門楼に入れば、よく見える場所という場所にどやどやと野次馬がのぼってきてコンパスを激しく動かすので、精巧に平衡のとってある針はいっこうにじっとしない。人々は汚く、通りは臭くてさびれており、しかも最悪なのは役所で、機会があってそこへ行ったものの、慇懃〈いんぎん〉な応対すら得られないほど関子〈クワンジャ〉*2にはなんの効力もないことがわかった。(p.119)
*2 関子〈クワンジャ〉=「旅行者は領事館を通して外務省から関子という全国の政府役所に宛てた書状がもらえる。これをたずさえた者は手厚く世話せよ、とくに食べ物、交通、金銭の面倒を見よという書状である。しかし旅行者がソウルできちんと金を払い込んでいるのに、下級官吏が外国人の金銭を立て替えても、政府から返してもらえないことがままあり、この制度は官吏にとってきわめて不愉快なもので、わたし(バード)は金銭のためにはこれを利用しないとイギリス領事に約束した」(p.94)

●(驪州の役所について)庁舎は場所もすばらしく、王室の使う構えも大きくて装飾も多い建物をその敷地内に擁していながら、子供たちの遊び場に使われており、廃屋のようなありさまだった。木造部はくずれ、梁や棟は落ち、塗料ははげ、戸にはった紙は破れてはためき、すすけた壁からは石膏がたれさがり、かつては立派だった門楼も欠けた脚部の上に立っている。中庭の敷石はあるものは沈下し、あるものは浮き上がり、ブタクサとペンペングサがそのすきまにふてぶてしく生えている。貧困と投げやりと憂鬱が極度にはびこっていた。門内には朝鮮の庶民の生き血をすする者たちがおおぜいいる。チロリアンハットに青色の多い粗織り綿の制服を着た兵士、わんさといる雑卒、書記、警官、送達吏がただいま仕事中のふりをしているし、数ある小部屋ではさらに多くの男たちがすずりや筆をそばにおいて床にすわり、長いキセルでたばこを吸っている。(p.119)

●(前項のつづき)お世辞にも礼儀正しいとはいえない吏員がわたしの関子を受け取り、きわめて不作法にわたしたちを二室ある小部屋のほうへ案内した。そのうち内側にある部屋で地方長官は床にすわり、年長の人々が何人かそのまわりにいた。わたしたちはふたつの部屋のあいだにある入口にとどまるよう指示された。うしろには野次馬がぎっしりつめかけている。わたしは深々とおじぎをした。なんの関心も払われなかった。従者のひとりが長官にキセルをさしだし、自分では火もつけられないほど長いその着せるで長官はたばこを吸った。ミラー氏(引用者注:バードと共に旅行している若い宣教師)がご機嫌うるわしく存じますとあいさつした。返事はなく、視線が彼のほうに向く気配もまるでなかった。ミラー氏がこの町周辺のことで少し情報がほしいと、訪問の目的を告げたが、簡略きわまりない返事がひと言あっただけで、長官は部下のひとりのほうを向いて話しはじめた。そして粗野な意見がめぐるなかで、わたしたちは一般的ないとま乞いのあいさつを朝鮮語で述べて退出した。むこうからあいさつは返ってこなかった。(p.119-120)

●(前項のつづき)驪州には「名門両班」が多いと聞いており、また戸数たった七〇〇の町の長官が高位の者であるはずはなさそうだった。うわさでは、長官が地元に帰ってくると、まわりは彼に「ぞんざいなことば遣い」で話し、目下扱いをしてあれこれ指図する。したがって彼はおもにソウルに住み、廃屋化した広大で凝った造りの庁舎でふんぞり返っている男が代わりに仕事を行い、官職の役得を仲間に割りあてる。好き勝手にやられても、「両班」はまるであずかり知らないのである。しかしこれはここに限ったことではない。漢江沿いの郡守はほとんどすべてがおもに不在地主で、彼らは時間も俸給も搾り取った年貢も首都で使う。わたしはほかにも三人の郡守から同じような応対を受けた。三円を穴あき銭に両替してほしいと頼んだだけであったが、そのたびに金庫は空っぽだと断られた。わたしの関子は外務省発行のもったいぶった文書であるものの、用途は両替のみで、これがあればこそ、鶏をなかなか売ってはもらえない町でも高値で買えるのである!(p.120)

 _________________________「朝鮮紀行」引用ここまで


 李朝末期の朝鮮については、イザベラ・バード以外にも様々な外国人が一様に、その貧しさや民度の低さを指摘しています。
 たとえば――

 朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に二度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の六、七月、次いで粟類の取り入れ前の九、一〇月である。(中略)彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である」(フランス人宣教師、シャルル・ダレ著「朝鮮事情」)

 朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞の外で夜を過ごすことは大変危険だった。城塞の外には人命をハエの命ほどにも思わぬ山賊やならず者で溢れていた」(スウェーデンのジャーナリスト、アーソン・グレイブスト著「悲劇の朝鮮」)

 皆さんご承知の通り、朝鮮半島の歴代王朝はずっと支那の「属国」でした。
 そして19世紀以降アジア諸国はほとんどが欧米列強の植民地に転落し、朝鮮の宗主国の清国でさえアヘン戦争後にはイギリスの半植民地状態に陥っていました。

 日本にとって当時最大の脅威は南下政策を進めていたロシアでした。安全保障の観点から、日本は朝鮮が支那から独立して近代国家になることを望んでいました。
 が、朝鮮は「小中華」から脱却しようとせず、またロシアの脅威にも気付きませんでした。

 「朝鮮紀行」の序文は、1897年(明治30年)10月付で駐朝イギリス総領事のウォルター・C・ヒリアーという人が書いているのですが、そこにこのような記述があります。

 「朝鮮についていくらかでもご存じのすべての人々にとって、現在朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗しきった行政という重荷に朝鮮はあえぎつづけている。かつては清が、どの属国に対しても現地の利害には素知らぬ顔の態度をくずさぬまま、助言者と指導者としての役割を担っていたが、清国軍が朝鮮から撤退後は日本がその役目を請け負った。最も顕著な悪弊を改革する日本の努力は、いくぶん乱暴に行われはしたものの、真摯であったことはまちがいない

 その後、文章はこう続きます。

 「日本の着手した仕事は状況の趨勢からロシアが引き継がざるをえなくなり、恐怖に駆られた国王は、国王にあらずとも強靭果敢な人間が充分におびえかねないテロ行為からの救出をロシア公使に訴えた」

 「ロシア公使の誠意ある支援と協力のおかげでなしえた改革もある。とはいえ、依然手をつけられていない問題も多い。発展をめざした前進――公正を期すためにいま一度繰り返すが、始動させたのは日本である


 このようにヒリアーは朝鮮が他国の保護状態におかれることが絶対的に必要であると述べ、日本が果たした役割もそれなりに評価しています。

 こうした評価はバード自身も行っています。彼女は「朝鮮紀行」の最終章で以下のように記しています。

 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない

 「日本がたいへんなエネルギーをもって改革事業に取りかかったこと、そして新体制を導入すべく日本が主張した提案は特権と大権の核心に切りこんで身分社会に大変革を起こした

 「一年有余、失敗はままあったにもかかわらず日本は前進をつづけ、有益かつ重要な改正を何件かなしとげ、またその他の改革を始動させた

 「朝鮮がひとり立ちをするのはむりで、共同保護というようなきわめてむずかしい解決策でもとられないかぎり、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない


 19世紀末の朝鮮は官僚システムが腐敗しきっており、さりとて自浄能力もなく、また王室も意志の弱い高宗(国王)のもと、大院君(国王の父)と閔妃(国王の妃)一族との間で権力闘争が絶えず、さらに先ほど述べたように宗主国である清の衰えも明らかでした。
 まさに崩壊寸前の状況だったのです。

 ですから、バードやヒリアーのような見解は当時の外国人にとっては共通の認識だったと言えるでしょう。
 朝鮮民族にとっては今でも絶対に認めたくないことでしょうが。


 ……というわけで、第2弾につづく!?……


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