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外国人から見た日本と日本人(13)

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 「外国人から見た日本と日本人」第13弾です。

 今回も有名な人、さほど有名でない人、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 なお、今回は台湾人の方の発言をいつもより多めに取り上げています。
 
 
イザベラ・バード=イギリス人。1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。当時の女性としては珍しい旅行家で、世界の広範な地域を旅行。
「イザベラ・バードの日本紀行(下)」より

 日本人の性格で評価すべき二点は、死者に対して敬意をいだいている点と、あらゆることに気を配って墓地を美しく魅力的なものにする点である。東京の墓地の美しさは京都のそれには及ばないとはいえ、多くある墓地はどれもみな手入れが行き届いている。

 また歴代将軍が「栄光のなかに眠っている」芝や上野の豪奢な廟から肉体労働者の遺骨の眠るつつましい墓に至るまで、死と生のあいだには厳格な差異はなく、「すべての生者に約束された家」はきちんとして、装飾が施され、そこに眠る者が生前占めていた地位に適ったものとなっている。

ブルーノ・タウト=ドイツ人。建築家。ナチス政権に職と地位を奪われ国外へ。1933年(昭和8年)5月に日本を訪れそのまま亡命。日本では建築の機会に余り恵まれなかったが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。著書に『ニッポン』『日本美の再発見』など。
「タウトの日記」より

 私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ、枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをする物だ。みな貧しい?それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ。

※タウトは1936年(昭和11年)トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築家教授としての招聘を受け、離日しましたが、その際、「私が死んだら達磨寺に埋葬してほしい」と言い残したそうです。死後、夫人によりデスマスクが達磨寺に寄贈された他、現在、洗心亭にはタウト自筆による独語の「私は日本の文化を愛する」の碑が建立されています。

コリン・ロス=1885年(明治18年)ウィーン生まれ。1938年(昭和13年)3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった。第一次大戦のときオーストリア新聞特派員として活躍し、その後、アジア、アフリカ、南北アメリカの各地を旅行し、政治、経済に関する論文やその旅行記を書くとともに、映画制作にあたった。
「日中戦争見聞記―1939年のアジア」より

 日本の有力政治家と国民の大部分は、今、恒久平和および中国との真の友好を熱望している。彼らが平和確立と友好関係樹立を念願していることは、日本側の立場に立てば無理からぬことである。わたしの個人的見解だが、平和と友好関係は広い視野に立てば、かならずや中国の利益となるはずである。世界情勢および時局を鑑(かんが)みれば、中国は日本の指導下ならば、封建的な大陸国家から近代的大陸国家に変貌することができるように思われる。

 他方、この変貌は、たとえ一時的にせよ、中国人の自尊心には耐え難いものであろう。中国人は昔から日本人を見下し、この島国民族を劣等模倣民族――日本人の自尊心に対するもっと手厳しい他の言葉はさておき――と見なしてきた。しかも今、中国人に民族の誇りが芽生えはじめようとしている。全体主義国家日本を道徳的、社会的に中国が凌駕していると欧米民主主義大国がお墨付きを与え、中国はこれを後生大事に守ろうとしている。したがって中国の指導層にとっては、敗北を認め、日本の優越を認めることはなかなかできない相談である。しかし事情はどうあれ、日本と中国は好むと好まざるとにかかわらず、生きるも死ぬも一心同体である。「中国の支配者は誰か?」という問いには、日本という要因を無視して答えることはできない。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 私たちは、日本人に国家神道を廃棄させた。しかし、国家神道は西洋型国家意識の日本版にすぎない。国家神道は、一八六八年、西洋の「指導」に応えて出てきたものだ。近代以前の日本では、神道は自然と祖先に対する信仰であり、習俗であった。軍事的なもの、国家的なものの対極にあるものだった。日本の外交は徹底して平和主義だった。日本列島は世界の常識からいえば、国家でさえなかった。仮に国家があったとしても、国家宗教といえるものは仏教だったのである。

蔡焜燦(サイ・コンサン)=台湾人。1927年(昭和2年)日本統治下の台湾・台中州清水に生まれる。1942年(昭和17年)に台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、1945年(昭和20年)に少年航空兵として陸軍航空学校に入学。敗戦後、台湾で体育教師、後に実業家に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長など歴任。「親日家」を超える「愛日家」と自称し、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。
「正論」2009年7月号 中村粲【NHKウォッチング第145回】掲載
 NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー第1回 アジアの“一等国”」の所感寄稿より


 たとえば第4代総督児玉源太郎の右腕であった民政長官の後藤新平に関する箇所には驚嘆し、そして憤りを覚えた。

 医学博士でもあった後藤新平は、道路・鉄道・水道などのインフラ整備をはじめ、台湾の衛生環境と医療の改善という大事業を成し遂げた偉人である。驚くなかれ、後藤新平は、東京よりも早く台北に下水道設備を完備するなどして、それまで疫病の地として知られた台湾から疫病を一掃したのである。そのおかげで台湾民衆は安心して暮らせるようになり、なにより台湾の経済発展の基礎が作られたのである。今日の台湾の経済発展と繁栄は、すべて日本統治時代にその基礎があることは、すべての台湾人が認識していることなのだ。

 否、たとえそれが日本の国益のためであったにせよ、台湾民衆はこのことで多大の恩恵を受けたわけであり、それを「侵略」とか「強制」「弾圧」といって非難する台湾人など誰一人いない。

 その他にも、後藤新平は、当時台湾で蔓延していた清朝時代からの悪弊であるアヘン吸引を医師としての知識を生かして見事に消滅させている。後藤新平は、中毒や常習者にのみアヘンを販売し、自然減を図った。そして結果として人口の6%にも上ったアヘン患者を1941年には、同0.1%にまで激減させたのである。悪習といえども他民族の習慣を、強引な手法ではなく時間をかけて撤廃していったのである。実はこうした「生物学の原理」に基づく台湾統治を喩えたのが、「ヒラメの目に鯛を付け替えることはできない」という言葉であり、NHK番組のなかで使われているような差別的な意味合いはない。

 さらに後藤新平は、同じ岩手県出身の新渡戸稲造を台湾に呼び寄せ、さとうきびの品種改良を行うなどして製糖業を殖産した。これによって台湾経済は成長してゆき、戦後も1960年代まではこの製糖産業が台湾経済を支え続けたのである。

 台湾人はそうした歴史の事実を忘れることはない。

蔡焜燦(サイ・コンサン)=台湾人。1927年(昭和2年)日本統治下の台湾・台中州清水に生まれる。1942年(昭和17年)に台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、1945年(昭和20年)に少年航空兵として陸軍航空学校に入学。敗戦後、台湾で体育教師、後に実業家に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長など歴任。「親日家」を超える「愛日家」と自称し、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。
撃論ムック「世界を愛した日本」【日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの】より

 我々の世代は今でもよく昔を思い出して話をしますが、内地から来たどの先生方も、台湾人の子供達を自分の子供のようにかわいがってくれて、まるで自分の子供みたいに接してくれました。戦後、日本と台湾が自由に行き来できるようになったとき、ひとつのブームになったのが戦前の先生の奪い合いです。台湾に赴任した先生も、先生が東京から千葉、千葉から埼玉と転勤するように、台湾でも台北から台南そして台中と各地を転々としました。そのため一人の先生にたくさんの台湾人の教え子がいるので、一度かつての日本人の先生が台湾に来るとなると、奪い合いが始まるのです。

 一度先生と再会すると、先生を懐かしがって、話をするだけでなく、帰り際に小型トラックに一杯、お土産を差し上げたりしました。

 その先生は当時既に九〇歳近かったのですが、その先生がぽろぽろと泣いていて、私たちも目を真っ赤にしていたのを覚えています。

 あのときの先生の顔、私は忘れることができません。日本人の先生方は本当に一生懸命勉強を教えてくれた。本当の親のように接してくれた。日本が戦争に負けて、しばらく会うことができませんでしたが、やっと会えたときの感動は、言葉にすることができませんでした。

蔡焜燦(サイ・コンサン)=台湾人。1927年(昭和2年)日本統治下の台湾・台中州清水に生まれる。1942年(昭和17年)に台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、1945年(昭和20年)に少年航空兵として陸軍航空学校に入学。敗戦後、台湾で体育教師、後に実業家に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長など歴任。「親日家」を超える「愛日家」と自称し、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。
撃論ムック「世界を愛した日本」【日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの】より

 烏山頭(うさんとう)ダムを建設した八田與一先生は今でも嘉南平野で神として讃えられています。彼の建設したダムによって、台湾の南西の大部分を占める嘉南平野が殺伐とした地から、肥沃な田園地帯へと生まれ変わりました。毎年五月八日の命日には八田先生の遺族を招いて慰霊祭が行われています。台湾人は今もその恩を忘れずに供養しているのです。

 この八田先生は、どんなに厳しくても工事作業員のリストラをしなかったと言います。今の日本のリストラは下のほうから首を切られていきます。ところが、八田先生は泣きながら幹部を呼びつけて、「君達みたいな優秀な人は、よそですぐ職が見つかる。だから君達は辞めてくれ」と言ったそうです。こういうやり方は八田先生以外に聞いたことがありません。だから今でも五月八日になると、誰が来いというわけでもなく、みな八田先生のために集まるのです。

盧千恵(ロー・チェンフイ)=台湾人。1936年(昭和11年)日本統治下の台湾に生まれる。高卒後の1955年(昭和30年)に来日し、56年、国際基督教大学入学。61年(昭和36年)、早稲田大学留学中の許世楷氏(2004年から08年まで台北経済文化代表処の駐日代表)と結婚。夫とともに台湾独立、民主化運動にかかわりパスポートを没収される。92年、国民党政権のブラックリスト解除で一時帰台、翌年帰台。2004年、代表夫人として再来日。児童文学者でもあり「台湾歴史童話」など著書多数。
「正論」09年6月号「折節の記」【未来を拓く台湾と日本の絆】より

 去年の十一月、先生方三名に引率された(長野の豊栄小学校の)六年生が、台湾へ修学旅行に来たのです。私たちの住む台中市の小学校で交流、ホームステイなどをした後、最後のプログラムに八田與一技師のお墓参りがありました。八田與一は烏山頭(うさんとう)ダムと嘉南大●(かなんたいしゅう。●は土ヘンに川。=田畑灌漑用の人工水路)の生みの親です。台湾中南部一帯の不毛の地を美田に変えた方で、戦後蒋介石政権によって全ての日本人銅像が廃棄された中で、唯一つ残った日本人銅像としても有名です。恩恵を受けた台湾農民がその銅像を隠し、李登輝総統の時代に元の場所に戻しました。

 修学旅行を終え、長野へ帰っていった子供たちから感想文が送られてきました。

 「…八田与一(原文ママ)さんのお墓参りに行きました。たった一つ台湾で残された日本人の銅像、台湾の方々へのありがたみ、心の中に大きく広がりました。銅像にそっと、『お疲れ様でした』と言ったら、八田さんの顔がわずかに微笑んだような気がしました」(飯島京子)

 「…僕はあまりの大きさに驚きました。これが八田与一さんの造ったダムなんだと圧倒されました。どれだけ苦労してこのような物を作ったんだろう。しごとで亡くなった人たちを記念する殉工碑を見に行きました。この殉工碑は、日本人と台湾人の差別なく平等に名前が彫ってありました」(加藤凛太郎)

 本来植民地支配というのは、差別の構造を持ち、その上に成り立つものであると言われていますが、八田技師はそのような時代に生きながら、台湾人と日本人を区別せず、壮大なダムを作り上げました。この事実が台湾人だけではなく、日本の子供たちにも深い感動を与えたことを知り、嬉しく思いました。

 網の目のように覆う灌漑水路の総延長は万里の長城の六倍にもなり、現在万里の長城は観光以外には無用の長物でしかありませんが、このダムと水路は今でも毎日嘉義から台南にかけての広い平野を潤しています。このダムと灌漑水路を研究している若い学者たちによって、世界遺産申請の運動が起こっていますが、台湾はユネスコに加盟していないので、日本に代わりに申請してもらえないだろうかと思案しております。慰安婦問題、南京大虐殺など、戦前のマイナス面ばかりを問われる日本は、こうしたプラスの遺産もあるのだと世界に向かって言えるのですから、私は大賛成です。

 桜の美しい季節に霞会館へ招かれ、「血と汗の時代はもう遠い昔になり、台湾人と日本人がともに過ごしてきた五十年、ともに作り上げてきたものは共有の財産となって台湾に残っているのです。わたしの故郷台中市に残されているだけでも台中駅、台中公園、台中水道局……それらは決して歴史の残影ではなく、今でも生きて人々の生活を豊かにし、過去、現在と未来を結び、台湾と日本を親しく結ぶ絆となっています」と、このように話してきました。

※拙ブログ関連エントリー
 07/8/11付:台湾の国連加盟申請不受理と盧千恵さんインタビュー

金美齢=台湾人。1934年(昭和9年)台北生まれ。日本統治下の台湾で育ち、日本敗戦後国民党による台湾人弾圧時代を経験。1959年(昭和34年)日本に留学後、台湾民主化運動に参加。このため30年間以上も台湾の土を踏むことができなかった。多くの大学で講師を歴任。1988年から2000年までは学校法人柴永国際学園JET日本語学校校長も務めた。台湾の民主化が進んだ後、2000年から2006年まで総統府国策顧問。日本滞在期間50年。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 台湾人に生まれた私は、一九四五年、小学校六年生の時に戦争が終わるまで、国籍としては日本人だったわけです。もちろん百パーセント日本人という感覚ではありませんでしたけれど、日本の教育を受け、心情としても日本人でした。

 その後、中国が入ってきて自分たちは中国の一部だと言われて、いろんな変遷があるなかで、表面的に国籍が変わろうが、やっぱり日本人として培ってきた自分の中味は一朝一夕に変わるわけないですから、引き続き日本語で本を読んだりして、日本に対する憧れみたいなものは、ずっと持っていたんですね。

 不思議なことに、日本は戦争に負けたにもかかわらず、何か非常に明るいイメージがありました。日本文化が制限されているなかで入ってきた映画の『青い山脈』を観たり、『リンゴの唄』も、なぜか伝わってきて、皆で歌っていました。誰かが隠し持ってきた「文藝春秋」とかね(笑)。当時、国民党の圧政に苦しんでいた台湾人にとっては、離れてしまっただけに、より切実な憧れとして、日本のものが心に残ったというのは真実です。私から上の世代は、無条件にそういう気持ちを持っていたんじゃないでしょうか。

〈中略〉台湾では、戦後、日本時代を懐かしんで、「リップンチェンシン(日本精神)」という言葉が使われるようになりました。それは、旧日本軍などが使った国粋主義的な意味合いではなくて、清潔、公正、誠実、信頼、責任感といった人間が生きていく上で守るべき倫理、美徳といったものを総称した言葉なんですね。今は、日本との係わりを離れて、例えば、台湾人を指して「あの人はリップンチェンシンで商売している」という風に使います。反対語として、インチキはするわ、お金が万能だわ、汚職は大変だし……というやり方を「中国式」といいます。どちらも台湾人が作った言葉です。もちろん、どこの国にもいい人と悪い人はいますけど、パーセンテージの問題で、日本人は大多数、非常に高い割合で皆さん、優しくて、いい人ですよ。それが、最近、残念ながら「日本精神」が失われてきて、「中国式」に汚染されてきているような気がしますね。

モハマド・ラフィ=インド人。1976年(昭和51年)生まれ。メッキ塗装会社に勤める会社員。日本滞在期間通算約5年。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より

 静かに美しく毎日が過ぎていき、全てが、いろいろなものや人の役割が、きちんと機能している。

 日本の人たちはそういった意味で、自分たちの国をとても大切にしていると思います。自分の国を汚くすることがない、私はそれを尊敬しています。公共の場所や道路を散らかさない、という意味だけではなく、政治的な問題や社会的な問題が起こったときなどにも暴動を起こして建物を壊したり火を放ったりしないし、ストライキで国中が混乱状態になってしまうような事態も起こりません。それは大変珍しいことです。

 今日の続きとしての明日を、明日の続きとしての明後日を、安心して待つことができるので、未来への計画も期待も持つことができます。一日一日が平安とともにあります。それが日本の経済力やハイテクノロジーなどの、世界に誇っている力を生み出しているもとになっていると思います。

 日本の一番好きなところ――私にとっては仕事のやり方です。それは日本の人々の人柄にも通じて言えることですが、正直で大変精密、そして繊細です。何でも適当に済ましてしまうところがありません。仕事をする場所でも、機械や道具でも、システマチックで、そして作る物自体も「本物」で、信頼することができます。

 私は子供の頃から「日本」を知っていました。それは私の祖父がその質の高さから日本の製品がとても好きだったので、家にテープレコーダーや時計などがあったこと。それから祖母をはじめとする周りの女性たちは、日本製の布地、特にジョーゼットが大好きで、よく「メイド・イン・ジャパン」の言葉を目や耳にしていたからです。今は日本で生活していますが、もし日本以外の外国で暮らすことになっても、私は何か買うなら、できる限り、「メイド・イン・ジャパン」のものにするつもりです。

 なぜなら、日本のものは精巧にできていることや丈夫であるということ以外にも、品質の表示に偽りがないという素晴らしい点があるからです。信頼することができるからです。工業製品、食品、石油などどんなものでも、そこに書かれているとおりのものでできている、そのものがちゃんと入っている。それは、日本の人は当然だと思っているかもしれませんが、素晴らしいことなのです。

王敏(ワンミン)=中国人。1954年(昭和29年)河北省承徳市生まれ。大連外国語学院日本語学部卒業、四川外国語学院大学院修了。文化大革命後、大学教員から選出の日本国費留学生として宮城教育大学で学ぶ。現在、法政大学国際日本学研究所教授。日本滞在期間20年。
加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」より
 1982年(昭和57年)に国費留学生として日本に留学した際の感想


 中国に親しみをもっている人が多いのに驚きました。みなさんがとても親切で、家族料理もご馳走になりました。短い一年三カ月でしたが、日本についてたくさんのことを学びました。

 留学で得た印象は沢山あります。中国では古代の小説にしか出てこないものが、日本には残っていたんです。たとえば桃の節句や七夕祭り。それらはとくに文化大革命で迷信として破壊されてしまったんです。暖簾(のれん)や漆(うるし)の器、お盆といったものも、中国では文物として博物館に展示されているものです。とっても感動しました。

 それから本。昔、秦の始皇帝が焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をやりました。次元が違いますが、文化大革命は外国の本はすべて禁書としてしまったのです。ところが日本ではどんな本も自由に読めるんですね。毎日二十四時間使っても読みきれない本がある日本は、勉強したい者の最高の環境だと思いました。

 日本語の響きも美しいと感じました。中国語には四声という高低のアクセントがあるんですが、日本語はイントネーションがなだらかで、せせらぎのように聞こえます。中国語の場合はときどき興奮するように聞こえるのですが、日本語は非常に温和でやさしく耳に響きます。

オウレリウス・ジーカス=リトアニア人。2009年6月現在30歳。ヴィタウタス・マグヌス大学日本研究センター所長を務める。金沢大学に1年、早稲田大学に1年半の留学経験あり。裏千家の茶道も修めた知日派で日本語も流暢。現在の研究テーマはヨーロッパ、またリトアニアにおける「日本のイメージ」。
2009年6月、国際交流基金の招きで来日した際、産経新聞・阿比留瑠比記者のインタビューに応えて

記者
「なぜ日本のイメージを研究しているのか」

ジーカス氏
リトアニアでは、非常に日本の好感度は高い。日本は素晴らしい国として認められている。リトアニアも外国から日本のように尊敬される国になるにはどうしたらいいのかと理由を考え、この研究テーマとなった。日本のパブリック・ディプロマシー(広報文化外交)を学びたい」

記者
「日本のどんな点について評価されているのか」

ジーカス氏
「日本は何と言っても技術の国として知られているが、私より上の世代だったら、茶道、生け花、武道など日本の伝統文化に興味を持っている。剣道クラブは3年前に初めてできたが、今では5カ所にある(※リトアニアの人口は350万人)。若い世代は、やはり漫画とアニメだ。これが日本を好きになる最大の理由であり、これらはクール・ジャパンとして評価されている。私の授業でも、学生たちは漫画に関心を持ち、授業でも『できるだけ漫画のことを教えてくれ』と言ってくる」〈中略〉

記者
「ところで、あなたは『杉原「命の外交官」財団』理事でもあるそうだが、杉原千畝(駐リトアニア領事代理、『日本のシンドラー』とも呼ばれる)はリトアニアでもやはり評価は高いか」

ジーカス氏
杉原は、日本とリトアニアの大事な接点であり、リトアニアではものすごく知名度が高い。90%ぐらいの人は、名前も、どういうことをした人物なのかも知っている。歴史教科書にも載っていて、小学生から人道的人物として教えられている

記者
「あなたは、2007年5月に天皇、皇后両陛下がリトアニアを訪問されたときには通訳も務めたそうだが」

ジーカス氏
「両陛下は首都、ビリニュスの対ソ連独立戦争の犠牲者の墓地で花を捧げられ、遺族らと交流された。リトアニアは、ソ連から独立してまだ20年もたっていない。私は主に皇后さまの通訳をしたが、皇后さまは亡くなった市民14人の妻や息子たち遺族に当時の様子について質問され、温かいお言葉をかけられた」

記者
「例えばどのようなことを」

ジーカス氏
「1991年の対ソ抵抗運動で起きた14人の悲劇を『血の日曜日事件』というが、皇后さまは涙を流しながら、『そのとき息子さんは何歳でしたか』と尋ねられ、母親が『20歳でした』と答える場面などがあった。皇后さまは『お悔やみを申し上げます』と言われ、その場に集まった数十人と優しく握手をされた。リトアニアには他の国の王族も来たことがあるが、対応は全く違う。皇后さまのように親しく声をかけられることなどはなかった

記者
「2006年5月には、リトアニアを訪れた当時の麻生太郎外相の通訳も務めたそうだが」

ジーカス氏
「これはリトアニアの歴史にとってはとても重要なことだった。外国の外相としては、麻生さんが初めての訪問者だった。『自由と繁栄の弧』という発想はなかなかいいと思う。…ソ連から独立してとてもよかったと思う」

※全文はこちらを参照。
 国を憂い、われとわが身を甘やかすの記>09/6/24付:リトアニアから見た日本のイメージ


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 今回、台湾人の方の発言を多めに取り上げましたが、これは、NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー第1回 アジアの“一等国”」へのアンチテーゼでもあります。

 「親日の台湾人の発言ばかり集めただけじゃないの?」などと訝しく思う方は、ぜひYouTubeから1-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】(全部で13本あります)をご覧になって下さい。
 これは台湾の討論番組で、台湾人識者らが日本統治時代について語っているのですが、日本人も知らないような親日的な話がたくさん出てきます。

 09/7/12付拙エントリー:【動画】外国人から見た日本と日本人(12)でもごく一部ですが、その台湾人の方々の発言を書き起こしています。
 少しだけ再録しておきます。

 「(日本人が台湾に来て)3年目(1898年)5月8日は住民去就決定日。これは台湾住民の国籍選択猶予の最後期限で、実際に台湾を退去した人は総人口の0.2%にも満たなかった。私はこれが重要だと思う。彼らはちゃんと人道を守る。日本人になるか、もしくは台湾を出て中国人になるかを選択させた。(猶予は)2年間あった。もし国民党がやってきたらそんなことはできない」

 「日本人は台湾を統治する時、軍人の他に多くの専門家もやってきた。一番有名なのは伊能嘉矩だ。彼は1895年に台湾に来て、10年にわたって台湾を一周した。原住民の村の隅々までも含めて一周してから、彼は台湾文化誌を書いた。彼が書いた本は未だに台湾の民俗学、人類学、各地の調査報告の入門書だ。10年だけで彼は台湾についての基礎研究を築いた。後に私たち台湾人学生らの若者は、彼らの教育をもとにその方向へ歩いた」

 「4年目すなわち明治31年、児玉源太郎総督と後藤新平行政長官が台湾に就任。児玉は日本政府の要職と兼任するので、後藤が総督府の事実的な責任者になった。二人は台湾に深く貢献したので、李登輝元総統は日本に後藤新平賞を贈った。私は云いたい。これらの歴史を台湾人は知っているか?」


 それでもまだ「その番組に出た台湾人らがたまたま親日だっただけなんじゃないの?」などと訝しく思う方は、台湾は日本の生命線!さん7/20付エントリーをご覧下さい。1904年9月24日付(日本の台湾領有から9年目)のニューヨーク・タイムズの記事が掲載されています。
 特派員による当時の台湾のレポートで、記事のタイトルはこうなっています。

【日本人が変えた未開の島「台湾」
 他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々
 ―他の植民地主義国家への教訓】


 他に、たとえば「台湾引揚史」(台湾協会編)にはこのような記述があることも併せてお知らせしておきます(09/4/27付拙エントリー:「たかじん委員会」NHKスペシャル台湾歴史歪曲問題で紹介済)。

 「引き揚げる教師の今後を心配して、生徒がお金を集め学校と父兄の了解を得て届けに来た
 「台北駅前で日本人を満載した列車に向かい、“日本人は我々盲人にも教育を施してくれたことを感謝する”と盲人が大声で演説を始めた」
 「引き揚げを待つ間、元勤務地の高砂族の人々が山から台北までわざわざ食料を運んできた
 「引き揚げ列車に向かって、何百人という台湾人が手に手に日の丸の旗を振っていつまでも見送ってくれた
 「部落の有力者の一人は、日本は食糧難で困っているから、しばらく台湾に居なさいと親切に言ってくれた



 ……というわけで、第14弾につづく……!?


※参考文献
・イザベラ・バード著「イザベラ・バードの日本紀行(下)」(講談社学術文庫)
・撃論ムック「世界に愛された日本」若杉大【日本文化を愛した外国人】
・コリン・ロス著「日中戦争見聞記―1939年のアジア」(講談社学術文庫)
・ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(メディアファクトリー)
・「正論」2009年7月号 中村粲【NHKウォッチング第145回】
・撃論ムック「世界を愛した日本」蔡焜燦【日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの】
・「正論」2009年6月号 盧千恵「折節の記」【未来を拓く台湾と日本の絆】
・加藤恭子編「私は日本のここが好き!―外国人54人が語る」(出窓社)
国を憂い、われとわが身を甘やかすの記>09/6/24付:リトアニアから見た日本のイメージ

※「外国人から見た日本と日本人」シリーズ
07/10/16付:外国人から見た日本と日本人(1)
07/10/23付:外国人から見た日本と日本人(2)
07/11/27付:外国人から見た日本と日本人(3)
08/1/8付:外国人から見た日本と日本人(4)
08/2/11付:外国人から見た日本と日本人(5)
08/6/3付:外国人から見た日本と日本人(6)
08/8/16付:【終戦の日】外国人から見た日本と日本人(7)
08/12/23付:外国人から見た日本と日本人(8)
09/1/31付:外国人から見た日本と日本人(9)
09/4/4付:外国人から見た日本と日本人(10)
09/5/30付:外国人から見た日本と日本人(11)
09/7/12付:【動画】外国人から見た日本と日本人(12)

※その他関連エントリー
05/12/5付:憂国フラッシュリンク集
06/10/8付:【アンケート】「生まれ変わっても日本人になりたい?」結果と全コメント
07/3/5付:「日本人」について考えさせられた記事
08/11/3付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
08/12/16付:「ATLAS日本」アメリカから見た現代日本
09/3/21付:桜と日本人の感性
09/5/23付:日本とトルコ 友好の歴史

※おすすめブログ
反日ワクチン>外国人の見た日本人A
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NHKスペシャル「アジアの“一等国”」偏向報道問題
国民の受信料で作られた反日洗脳番組に抗議を!


この問題の詳細は以下のサイトを。抗議OFFのお知らせなども。
台湾は日本の生命線!
NHKスペシャル 「アジアの“一等国”」偏向報道問題まとめWiki

8月1日(土)横浜でNHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動が行われます。「NHK大罪」Tシャツを着て横浜市内の散策もします。詳細はこちらを。
【原告募集!】 NHK集団訴訟 「訴訟委任状」提出のお願い
引き続き第二次原告募集中!(総原告数1万人を目途に締め切る予定)
 ……………………………………………………………………
NHK「日本の、これから」ご意見・出演者募集中!
8月15日放送予定。テーマは「核」。

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