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追悼 上坂冬子さん

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 1コ前のエントリーの最後に少し紹介しましたが、作家の上坂冬子さんが今月14日、お亡くなりになりました。

 産経新聞は上坂さんが連載を持たれていたこともあって、関連記事が充実しています。

日本人の矜持守り抜く 上坂冬子さん死去(産経4/17)
軸のぶれない姿勢に敬服 張富士夫トヨタ自動車取締役会長 上坂冬子さん死去(産経4/17)
上坂冬子さんを悼む?―佐藤愛子さん「よかったわね」(産経4/18朝刊)
産経抄(産経4/19)
【老いの一喝】ノンフィクション作家・上坂冬子 枝葉末節な禁煙の理由(産経4/20)(遺稿)
注)3本目の記事は産経WEBにはなく紙面掲載のみのようです。紙面を起こされている風流庵さんのブログにリンクを貼らせていただきました。

 また、上坂さんは5年ほど前から月刊「正論」誌上に「今月の自問自答」というエッセーを連載されていました。
 訃報を知って、私は手元にあったバックナンバーを全て(但し毎月買っていたわけではないので、ところどころ欠けていますが)読み返してみました。
 本当に惜しい方を亡くしたなぁと、改めて惜別の念が沸き上がってきました。
 
 そこで今回は追悼の意も込めまして、その中から私が特に感じ入った文章をいくつか抜粋引用させていただくことにしました。
 上坂さんのメッセージを、皆様もどうか受け取って下さい。

※赤い文字強調は引用者によります。


2005年2月号【今さら惜しい命でもない】
 《引用者注:2004年11月15日、ロシアのプーチン大統領が二島返還を公言したことについて》

 すでに何度もいってきたことだが、旧ソ連のスターリンが日本の敗戦後に攻めてきて、四島を占領したことを私は腹に据えかねている。百五十年前に日露通好条約を締結して四島の外側に国境線を引いて以来、この国境線を変えねばならない事実は何一つおきていない。なのに、いまさら何でプーチン大統領はあんなことをいうのかと私は憤懣(ふんまん)やる方ないのだが、実は残念ながらプーチン大統領の発言は全くのデタラメと断言できない経緯も、あるにはある。

 一九五六年の日ソ共同宣言の文面は次の通りだ。
 「…歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡す事に同意する。ただしこれらの諸島は、日本とソビエトとの間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」

 何のことはない。平和条約を締結したら二島を返してやるよ、と書かれているのである。しかもこの宣言を二か月後に日本は批准しているのだ。何という手ぬかりかと私は地団駄踏む思いだ。百五十年前の条約はともかく、五十年前に両国で共同宣言を批准したではないかといわれれば、日本としてしどろもどろにならざるを得ない部分がないわけではない。

 それにしても、何でおろかにもこんな宣言を日本は批准してしまったのか。外交音痴にもホドがあると怒り狂うのはわけないが、実はあのとき、日本はのっぴきならない事情をせおっていた。大量の日本人がソ連に拉致されていたのである。戦後に有無をいわせず拉致され、労働力として使われた六十万人もの日本人がいたことは、よく知られている通りで、数の上では北朝鮮の比ではない。

 つまり人質を取られた上での領土交渉であった。たしかに悶着(もんちゃく)のタネとなるような文面の宣言を批准したのは日本の失敗にはちがいないが、あの共同宣言の二か月後に日本人抑留者の恩赦が発表され(さらっておいて何が恩赦だ!)、戦後十一年目にようやく最後に残った千二十五人の日本人の帰国にこぎつけたのである。

 だが、あのときはあのとき、いまはいまだ。あんな状況の下で決めた宣言にこだわるなら、こちらも六十万人を拉致したことの補償を要求しようじゃないか。

 私自身は去年、本籍地を国後島に移した。一九八二年に制定された「特別措置法」にしたがって移したのだから政府に責任もってもらわねば治まりがつかぬ。もし二島返還で納得するなら私は、我が本籍地を取り戻すまで国会前でハンストを決行するのみだ。

 いまさら惜しい命でもない。


2005年5月号【ゴネ得を許すな】
 相手のあることだから、ニッチもサッチもいかないところに追い込まれたのはすべて日本の手落ちだとはいわないけれど、ロシアといい北朝鮮といい、言いたい放題いわせ過ぎていやしないか。

 私にはスターリンに始まるロシアのトップと、金正日という異常な指導者のゴネ得方式に、日本は殆ど無抵抗に振り回されているかの如く見える。

 三月二十六日から、自民党の全国代表が根室に集って、北方領土に関する勉強会を開くと聞いた。公明党や民主党も計画中とか。この原稿が活字になるころには、正当なかたちで勉強の成果があらわれるのを期待したい。

 勉強会もいいけれど、北方領土問題の筋書きはあっけないほど単純で、六十年前、日本が短波放送で全世界に向かって降伏を宣言し、これを聞いて各国が攻撃を止めたのに、スターリンだけが日本の降伏を無視して四島を占領して以来六十年間居すわって動かない。

 この無法な状況を解決するには論理よりも迫力しかないだろう。日本にはそれが欠けている。それが欠けているからこそ、四島が駄目なら二島でどうだと叩き売りの論理が横行するのだ。

 年末から年始にかけて屋久島に行ってきた。印象に残ったことが二つある。一つは島の小学校の校門前に、一対の立派な門松がたっていたことである。ああ、かつて日本では年の始めをこうして一斉に祝ったものだと感動した。もう一つ印象的だったのは、その小学校の前に「きまりはキチンと守りましょう」と書いた貼り紙があったことである。世界遺産としての自然を誇る地として、人間社会の基本にかかわる単純明快な教えが貼り出されていたことに、私は懐かしさと同時に虚を突かれたような緊張を感じた。

 そう、外交の基本はきまりをキチンと守らせることにある。ゴネ得を許さぬことであろう。相手が悪すぎるからというのは理由にならない。悪いヤツには悪いヤツ向けの手荒な対応をとらずして、何が外交か。
 
2005年7月号【教科書を囲む“大バカの壁”】
 外務省で中国と韓国の歴史教科書を研究することになったという。

 両国は国定教科書だから、その気になれば扱いは簡単だ。日本に関する記述を分析して、反日デモの背景にあるといわれる愛国教育のヒズミの部分を指摘するつもりらしい。同時に日本の教科書も正しく翻訳してホームページに掲載し、中国、韓国の人々に示すそうだ。これを聞いた私は「それが、どうした」と憮然としている。

 中国、韓国、日本の専門家が互いに自国の教科書を持ち寄って研究会を発足させる案もあるというが、これに対しても私は「バカいっちゃいけない」とつぶやいたものだ。

 中国はしきりに東条英機首相を祀った靖国神社に日本の首相が参拝してはならぬというけれど、東条首相は支那事変と直接的な関係はない。支那事変をはじめたのは近衛文麿首相である。「国民政府を対手(あいて)とせず」といった近衛首相に怨念を抱くなら、それなりに理解しないでもないが、廬溝橋で銃声がおきたころ東条首相はまだ陸軍省副官である。怨念の根拠がはっきりしない。太平洋戦争がはじまってから日本軍は、もっぱら東南アジアに戦線を拡げているではないか。中国が太平洋戦争の勝利者然として東条首相を目の仇にするのは八つ当たりというものだ。こんな国とまともに歴史教科書を拡げて膝つきあわせて何が解決できるというのか。

 膝つきあわせて事実関係の誤りをただすならいい。しかし事実の歪曲を意図して教科書を作っている国に、そこんトコがちがいますといって何がどうなるというのだ。そこが分かっていながら外務省が正攻法をとるつもりなら何をかいわんやである。

 私が意地悪く外務省をコケにした言い方をするのは、性懲りのない外務省に愛想を尽かしているからだ。たとえば日ロ間では北方領土に関し、四島の名をあげて返還問題にふれた「東京宣言」を正確に記録して共同資料をとっくに作成している。にもかかわらず、さきごろプーチン大統領は突然、二島返還を言い出したではないか。

 問題は字づらではなく意図であり、最終的に紙の上の文言の無力を知り尽くしているはずの外務省が、膝つきあわせて反日を意図する国々と教科書を論じるという、その型通りにして芸も工夫もない発想に私はうんざりするのみだ。中、韓もバカなら日本も大バカだというしかない。いまのところ、バカとバカの間の壁が厚すぎる。

 じゃ、どうすりゃいいのかということになるが、インドネシアでわざわざ小泉純一郎首相が胡錦濤国家主席の宿泊先まで出向いて行って謝罪の上塗りをしたのに対して、胡主席がニコリともしなかった以上、つける薬はない。十三億の世論を静めるために中国政府も苦労していると甘い見方をする人もあるが、中国に世論があるように日本にも世論がある。国家の長たるもの、騒ぎ立てる世論より静かな世論を恐れるべきだろう。


2006年1月号【NHKにつわもの出でよ】
 さきごろ、NHKが受信料不払い対策として、“法的措置も辞さない”という方向を打ち出して、簡易裁判所を通じ督促すると発表したときには、ムカッとした。何を理由に百三十万もの人々が不払いを決めたか、分からないのか、と。

 そもそも、この不払いはNHKの番組と、それをテーマとして取り上げた経緯に対する視聴者の不信感によるものである。おおざっぱにいうと、平成十二年に韓国人従軍慰安婦問題にからんで有志の人々が集まって、東京で国際裁判を開催した。中心となったのは朝日新聞社の“名物記者”といわれた松井やよりさんで、彼女はすでに故人となったが皮肉にも国際裁判は、かつて軍人会館といわれていた九段会館を会場に選んで行われた。

 当時、私は私なりに興味をもって、何をどう裁くつもりなのか参加して確かめてみたいと考えていた。国際裁判というからには、外国の人々がどんな見解を述べるか知りたかったからだ。もっとも最近明らかになったところによると、外国側の代表に反日の北朝鮮の人がいたというから、最初から意図的な裁判だったのはまちがいない。

 ところで参加申し込みに当たって調べてみたところ、主催者側の許可を得た人しか入場できないという。おまけに参加費がかなり高価で、全コース聞くと一万五千円ほどになると知って私は即座に諦めた。私に入場許可が与えられるはずはないと思ったからだ。

 いまではよく知られるようになったが、そもそも従軍慰安婦は日本に存在しなかった。戦時中に軍とは別に業者がいわゆる“売春婦”を戦場に連れていったのが、軍組織と誤解されて日本軍の卑劣な行為と喧伝され、これを教科書にまで書き入れたところさえある。

 マスコミの中には興奮気味に日本の恥部としてこの問題をとりあげたところもあったし、純情(?)な元日本兵のなかに自ら慰安婦係だったかのように告白、反省して世の注目を集めたりした人もあった。もっとも、後にこれが彼の狂言だったというおまけまでついたが、そんな捏造話が飛び出すほどに世をあげて慰安婦問題に明けくれた時期がある。

 私は逆に朝鮮半島が日本に併合されていた時代の話だから、業者が日本人女性のみを慰安婦とせず朝鮮半島出身の女性も同じように戦地へ連れて行ったのは、朝鮮半島出身の人を差別したといわれている戦時中に、風評に反して公平に扱った証拠ではないかと発言したことで“他民族の人権を無視した悪い奴”とレッテルを貼られ、某市主催の講演会をキャンセルされたのを思い出す。

 それはともかく、こんにちの不払い問題は、そもそもあの曰く付きの国際会議をNHKが取材して、これをもとに番組を作って流したことからはじまっている。

 取材許可のチェックのやかましかった国際裁判の主催者は、NHKだけに許可を下したのだろうか。だとすると不思議な気もするが、それはまあいいとしよう。あの種の裁判が公平なはずのNHKで放送された場合を心配した人のなかに、安倍晋三、中川昭一議員らの名があがって、彼らがNHKに公正にやっているんだろうね、といわんばかりの念押しをしたとして朝日新聞が取りあげてから事が複雑になった。かりに政治家が「何だかややこしい国際会議を取り上げたようだけど大丈夫だろうな」くらいいったとしても、私にはそれほど重大な問題とは思えない。フツーの人が当然抱く疑問だから、言論の自由の範囲内だ。

 NHKの予算申請の不許可を匂わせたとか、政治家風を吹かせたなどの明らかな事実関係はいまのところ報じられていない。にもかかわらず途中からNHK職員が涙ながらに政治家の圧力についてのべ、追い打ちをかけるように朝日新聞がこれを裏付けるかのような記事を書いてから、問題の核心は、政治家による報道の自由の束縛に集中した。やがて朝日新聞の記者がNHKに政治家とのやり取りを問い詰めたテープが、ひそかに持ち出されて雑誌に内容が公開されたり、朝日新聞が取材の不備の部分について公表したあたりから、世論も静まりはじめている。

 この時とばかりNHKが、まるで免罪符を得たかのように簡易裁判所を通じて受信料不払いの督促を言いだしたのは、どう考えても腑に落ちない。

 歴史家の秦郁彦氏は慰安婦問題の第一人者で、あの国際裁判の会場にも行かれたそうだ。何事も緻密に正確に捉える秦氏によれば、裁判の終わりに「天皇裕仁を絞首刑に処す」と断罪し、会場からは三分ほど拍手喝采が続いたという。

 NHKが取材したのは、こういう裁判だったのである。


2006年3月号【今は昔の“改憲論者”イジメ】
 《引用者注:平成4年、新潟市主催の憲法記念日の講演をキャンセルされた上坂さん。当初は市役所側も乗り気だったのに、「ある理由」から本人にことわりもなくキャンセルされた》

 だが、そのまさかが本当であった。物の始末のいい私の手元に、新潟日報のスクープのきっかけとなった文書が残っている。

 一枚は平成四年四月二十三日付で、日本社会党新潟支部執行委員長 安部央一および社会党・市民連合議員団団長 山田武雄の両氏の連名、もう一枚は日本共産党新潟市議会議員団団長 須田浩の名で、長谷川義明市長に宛てて、「憲法記念市民の集いに関する緊急申し入れ」としてあった。

 大筋からいうと、その年の「中央公論」五月号に私が「自国を自力で守る方策も具体案もなく、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認をうたい上げるのは、観念主義やロマンチシズムの域を超えて、誇大妄想に近い」と書いて、憲法に対する国民の認識を問いただすよう提案したコラムを取り上げ、改憲論者を憲法記念日に講師に招くとは何事かと、市長に抗議したものらしい。

 当時は、改憲を口にしただけで“非国民”扱いであった。

 (中略)私は繁栄日本の陰に戦犯絞首刑の悲劇があったことを話すつもりだったのが、改憲論者に話させるなと大モメにモメたあげく新潟市主催の集いは中止となった。代わりに自治労などが呼びかけ人となって新潟大学の鯰越溢弘教授と評論家の小沢遼子さんを講師として参加費五百円を徴収したあげく、独自の集会を開いたとあとで聞いた。

 (中略)ところで、社会、共産両党の代表の文書にはもう一つ特徴があった。平成四年といえば、例の従軍慰安婦問題の渦中であった。両党の申し入れ書は口裏を合わせたように、この問題に触れている。

 「上坂氏は朝鮮人従軍慰安婦問題について『従軍慰安婦は必要悪』だったとか『今頃になって問題にするのはおかしい』『(慰安婦には)朝鮮人だけでなく日本人もいた』などと事実認識を欠いた論陣を張って問題となった人物で」「このような人物に憲法記念日の講師を依頼するということは、単に憲法問題を巡って解釈の違いがあるなどという問題ではすまされない」と、書きまくっている。


2006年4月号【戦中・戦後を歌い切った人】
 《引用者注:日本の童謡歌手、川田正子さんの訃報に接して》

 私は川田正子の訃報を聞いたとき、一つ残念に思ったことがある。童謡ではないけれど、歌って欲しかった一曲があるのだ。「九段の母」である。

 「上野駅から九段まで 勝手しらないじれったさ
  杖をたよりに一日がかり せげれ来たぞや 会いにきた」

 こんど会うときは靖国で、といった息子との約束を果たすために、東北から夜行列車に揺られて上野駅に着いた老母の様子を歌ったものだろう。勝手がわからないといっても、上野から九段まで一日がかりでたどりついたとは、なんとも心もとない足取りだ。そのあと神社に向かって手を合わせ、うっかり毎朝の仏壇と同じように念仏をとなえてしまったなどという笑えない歌詞もあり、息子が金鵄勲章をいただいて母は果報者だという一節もある。金鵄勲章とは、当時、特別な手柄をたてた兵士におくられる勲章で、よくも悪くもこれが日本が通ってきた道なのだ。

 戦後派と言われる人々は、この部分を飛ばして教育を受けてきたせいか、近隣諸国から首相の靖国参拝にイチャモンをつけられてバッチリ言い返せないのが何とも情けない。一日がかりで九段に参拝した老母は亡くなったろうが、父が靖国に祀られている還暦過ぎの息子はいまも日本の各地でひっそりと暮らしているというのに。

 靖国問題は心の問題でもなければ、歴史認識の問題でもない。国際法の問題である。つまりサンフランシスコ平和条約に署名も批准もしていない中国や韓国はこの問題を口に出す資格はないの一言に尽きるのに、それが何故いえないのか。日本人でさえ靖国問題の核心を掴んでいない不勉強な人々が少なくないからだ。

 いまとなっては、いきなり国際法を取り出しても無理だろうから、まず「九段の母」に耳を傾けたい。私の知る限りあれは昭和一桁なら歌える。せめて川田正子にもう一頑張りして、いまこの時に「九段の母」を歌って逝ってほしかったのに。


2006年5月号【無知にして頑迷固陋な国よ】
 《引用者注:タイトルの「無知にして頑迷固陋な国」とは中国を指している。この当時、中国の李肇星外相がヒトラーを引き合いにして日本のいわゆるA級戦犯を批判していた。上坂さんはこの号で李外相を「この程度の認識で靖国参拝に反対しているなら、日本としては歯牙にもかけず聞き流すしかない。今度という今度こそ私も呆れ果てた」と激しく批判した》

 そういえば、東条(英機)は悪人だという思い込みもかなり行き渡っている。

 勝ち目のない戦争をはじめた無謀な首相、白旗をかかげるタイミングを外して日本をとことんまで窮地に追い込んだ強引なリーダー、などと位置づけられている。

 しかし半世紀前、東京裁判が始まったころに「東条見直し論」が、ひそかに蔓延していた。朝日新聞の「天声人語」でさえ、
 「電車の中などで『東条は人気をとりもどしたね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東条礼賛のものを時に見受ける」(昭和二十三年一月八日)
 と書いている。

 おそらく東京裁判法廷で天皇をかばいぬいた東条の証言に人々は好感を持ったのであろう。もっとも朝日新聞のことだから、締めくくりは東条の陳述に共鳴してはならないとしているが。

 二十年ほど前、A級戦犯を裁いた「東京裁判」のドキュメンタリー映画が、戦後はじめて日本で上映されたが、このころにも東条見直し論がかなり取り沙汰された。

 四時間半におよぶこの映画は、昭和天皇がいかに心ならずも開戦の決断を下したかを東条が証言した様子を浮かび上がらせているし、敗戦国のトップとしてプライドに満ちた態度で証言した様子もつぶさに写し出されている。人々は、ここでそれまでの思い込みをたださずにいられなかったのであろう。

 毎日グラフの柏木辰興記者によれば、
 「A級戦犯として絞首刑になった東条英機を見直す気運が強まっている。戦史専門家の間でも、東条英機は首相になって対米戦回避に尽力しており生硬な主戦論者ではないとか、当時は天皇、統帥部の強い権限があり、独裁者ではあり得なかったなどというものだ」(昭和五十八年八月二十一日)
 とあるから、世論はドキュメンタリー映画にかなり刺激されたものと思われる。さらに、この後がいい。柏木記者の見解として、
 「東条内閣の成立を伝えた当時の新聞は『一億国民の総司令官、東条さんしっかり頼みます』『実行家のカミソリ宰相に期待』などの見出しが躍っていた。田中角栄を『今太閤』『学歴なしの庶民宰相』と持ち上げた比ではない。どこぞの政党は別としてマスコミ、文化人、財界をはじめ国民こぞってが東条に期待、戦意高揚を助けた」
 と述べて、マスコミが作り上げる風潮の恐ろしさを伝えていた。私の年代だと、ここで拍手喝采したくなる。

 東条が悪い、日本の指導者の罪だ、などというけれど、悪いといえば一丸となって戦った日本中が悪い。
 「生きては帰りません。この次に会うときは靖国神社で」
 と、男たちは私心を捨てて戦場に向かい、家族はそれを喜んで見送った時代が日本にあったのだ。そんなバカなとはいまだからいえることで、当時、子供だった私はお国のためには命もいらぬと思ったし、私の周辺の大人も迷うことなくそう思っていたかに見える。ウソだと思ったら戦時中の新聞を開いてみるがいい。ひとり息子を迷うことなく戦場に送った母親や三人の息子が立派にお国のために死んだのを喜ぶ両親の話が連日のように美談として紹介されている。

 見方を変えると、日本人は当然のこととして愛国心を持ち戦争が始まった以上、四の五のいってないで勝たなきゃならぬと思い詰めていた。いまだから歴史認識だの侵略だのと丘の上から景色をみるような思いで、いっぱしの論戦を交わすけれど、当時は自分の国を愛し守るという美学に反論の余地などなかったのである。それが戦争というものだ。戦争は狂気に支えられて進行するものであり、いったんはじまった以上、人道的に戦うなどということはあり得ないと私は思っている。

 視野がせまいといわれればそれまでだが、当時の国民にとってそれは爽快で、すっきりと心おちつく境地であった。すくなくとも少女だった私は、当時を思い出して後悔や反省など微塵も感じない。近代化を目ざした国家として、国民として一度は通らねばならなかった通過地点であったとさえ思っている。

 戦争を知っている私が通過地点として切り離した過去を、戦争を知りもしない人が事あるごとにもっともらしく論理づけて、日本人の歴史認識の誤りにむすびつけるのは自由だが、私はそれを受け付けない。


2006年12月号【漁船銃撃はロシアの殺人だ】
 《引用者注:2006年8月16日、北方領土で日本の漁師が射殺され船長以下3人が拿捕された事件が発生。上坂さんは根室に飛んだ》

 憤然としながら私はまずは根室湾中部漁業協同組合、通称湾中に向かった。

 ロシアで裁判を受け、いわれるままに罰金をはらって釈放された坂下登船長は湾中の組合長で、釈放後ただちに腰の持病の手術のために釧路の病院に入院中だったから、専務理事の神内克彦氏が質問に応じてくれた。そもそも漁協は組織とはいうものの、それぞれが号令によって一丸となって動くようなシステムにはなっていない。組合員一人一人が一国一城の船主だから、今回の事件に当たっても死亡した漁師への弔慰金はもとより、ロシアへの二百十四万円の罰金も、すべて船長の自己負担だという。

 それはおかしい、と私は口走った。もともと政府が「我が国固有の領土」と繰り返し公言してきたにもかかわらず、領土内でおきた殺人事件に国家として手も足も出せず、釈放を前提にした罰金も、すべて個人負担というのは理不尽ではないか。日本政府に“甲斐性がない”ために、国民は自国の領土内で殺されたという点を、私は声をからして叫びたい。国後島での裁判は弁護士も通訳もロシア人であった。悪名高き「東京裁判」でさえ日本人弁護士が法廷で被告を守ったというのに。たしかに、自主的に紛争を避けるべく北海道庁が危険の可能性を示して海上に調整規則ラインをきめ、漁師も原則的にこれを守りながら安全操業につとめてきたのはまちがいない。しかし、海の上の不安定なラインを、たまたまわずか数百メートルはずしたからといって撃つことはないじゃないか。

 (中略)いつ起きても無理ないとされていた恐るべき問題が、ついに起きて死者を生んだのである。ロシア側は死んだ日本人漁師に謝罪して弔慰金を支払い、船長も船も即刻日本に返すべきだと誰もが当然思うだろう。だが、ロシア政府は「全責任はロシアの領海で犯罪行為を犯した漁船と、日本人漁民の密漁を放置していた日本政府にある」と言い返している。昔なら戦争に突入していただろう。

 問題のポイントは中間ラインを越えたとか越えないという点ではない。まして密漁などという表現はもってのほかというべきで、すべてはスターリンの無法にはじまっている。問題は民主ロシアがいまだにスターリンの暴挙を“実績”とみるのか、それとも暴挙を否定して先進国の名に恥じない態度をとるかどうか、にかかっている。

 (中略)占領を機に与えられて、こんにちまで掲げてきた日本国憲法や教育基本法が間もなく本格的に作り変えられるのは結構なことだ。

 だが、靖国といい北方領土といい、問題の核心にふれることなく切り抜け方策ばかりを追い求めてきた日本を目の当たりにした国民に、ここですんなり愛国心を持てというのは、どだい無理な話である。


2007年6月号【江田島の卒業式に思う】
 《引用者注:江田島で行われた海上自衛隊の第57期一般幹部候補生と第59期飛行幹部候補生の卒業式に参列して》

 驚いたのはその数で、第五十七期幹部候補生のうち防衛大学出身者は八十三名で、一般大学から海自の幹部を目指して合格した人が九十六名おり、彼らは共に一年間の訓練を経て同時に卒業するという。防大より一般大学から幹部を目指す人のほうが多いとは知らなかった。ほかに第五十九期飛行幹部候補生が三十七名で当日の卒業生は全員で二百十六名、うち女性は十四名である。

 名前を呼ばれた順に「ハイッ」と大声で返事をして壇上に上り、白手袋をつけた両手で学校長から卒業証書を受け取ると、一読するかのように顔の高さまで掲げ、そのまま左に向きを変えて証書を二つ折りにし、輪を上にして左手に持ちか変えたあと壇上から下りる。

 一糸乱れぬ形で二百十六名全員への授与が終わると、次に優等賞受賞者十名が壇上に進む。優等賞を受領するときは成績順に登壇するのだそうだ。格差ではなく、これがケジメであろう。卒業証書受領のときは名前を呼ばれると「ハイッ」といって敬礼をしたのに、今度は黙って敬礼をしている。これも一つのケジメで、卒業証書を受け取るまでは一等海曹長だった学生が、証書を受け取ったとたんに三等海尉に昇格したわけで、士官になってから「ハイッ」という返事は要らない。運動会の徒競走ですら一等賞を与えてはいけないなどといっている時代に、江田島では百年一日の如くケジメを外さぬ式典が伝統的に受け継がれていたのである。

 そればかりではない。チリ共和国海軍から毎年首席一名に勲章が与えられる。日露戦争のころ、チリから受注したイギリス製の軍艦ができ上がったとき、チリ側の配慮によって日本は緊急を要するだろうからと優先的にまわしてくれたのがきっかけで、以来日本はチリの海軍と昵懇の間柄なのだそうだ。駐日チリ大使がスペイン語で賞状を読み上げ、首席の学生の胸につける。この日、留学生として江田島で学んだシンガポールおよびタイ王国の海軍軍人も同じように卒業した。迂闊にも私はこれほど厳粛にして国際的な色彩をもった卒業式が行われてきたことを全く知らなかった。私が無知だったのか、それとも他の複雑な事情からか。

 《引用者注:この後、卒業生らは155日にわたって10か国12港の遠洋練習航海に出発。上坂さんはそれの「追っかけ」をした》


2007年9月号【昭和天皇が見た“きざし”】
 《引用者注:東京都立川市の昭和記念公園の一角に平成17年11月27日に設立された昭和天皇記念館を訪問して》

 何よりも驚いたのは、館長室で見せていただいたビデオに昭和六十三年八月十三日、ご静養中の那須から全国戦没者追悼式に出席されるためヘリコプターで上京されたお姿が映し出されていたことだ。崩御のわずか五か月前にいわば最後の力をふりしぼって、さきの戦争の犠牲になった人々を追悼されたわけで、さすがにおやつれの様子がありありとあらわれていた。天皇として戦没者の慰霊だけは何としてもと思われたにちがいない。昭和天皇の神髄を表した画面だと私は思った。

 崩御はいうまでもなく昭和六十四年一月七日だが、その少し前からロサンゼルスにいた私は、ご容体が良くないというニュースを聞いて即座に帰国したのを覚えている。昭和の終わりは日本に身を置いて見定めねばならぬという思いに駆られてのことであった。

 帰国後はテレビを枕元に置いて臨時ニュースを聞き洩らすまいと体勢を整えていたが、あんのじょう一月七日の早朝、頭上のテレビのざわめきで私は目を覚まし、昭和の終わった瞬間を噛みしめた。私の年代にとって、昭和とはこうして見送らずにいられない時代だったのである。

 それにしても、良い時期に良い記念館を建てたものだと私の世代はしみじみ思う。いや“私の世代”に限らず、昭和は世代を越えて日本と日本人にかけがえのない経験を強いた時代にちがいない。二度と味わいたくない体験や、もう一度取り戻したい習慣を含めて貴重な時代ではあった。だが満足感に似たそんな思いを抱いて帰りかけた私を、打ち砕いたのが最後の全国戦没者追悼式に寄せられた昭和天皇の御製である。

  やすらけき 世を祈りしも いまだならず
  くやしくもあるか きざしみゆれど

 平穏を取り戻せない日本に天皇は心を残して崩御されたことになるが、あれから二十年を経て、昭和天皇に見えていたはずの兆しすら私には感じ取れない。天皇を悔しがらせた思いは未解決どころか、日本は後退の一歩をたどっているのであろうか。昨今の政治状況を見ながら呆然とするばかりである。


2008年2月号【終焉20年目の「昭和」観】
 敗戦の翌年の元旦に昭和天皇はいち早く「人間宣言」をされた。それまで神格化されていた天皇が人間だったことを、そのとき私たちは知ったのだが特に驚いたりはしていない。大人たちも同様だろう。神と信じ込んできた存在が人間だったとタネ明かしされたのに何故驚かなかったかといえば、神と信じきっていたわけではないからだ。いまふうにいうなら誰もが当時の空気を心得ていて疑義は口にしなかったのである。

 人間宣言以後、人間なら戦争責任を問えという動きも、一般的には起きていない。昭和天皇には陸軍と海軍を統括する統帥権があったのだから、組織図的に言えば戦争の最高責任者である。しかし、GHQ(連合国軍最高司令部)のマッカーサー元帥でさえ天皇を戦犯扱いにしなかったのは、もしそうすれば占領政策どころではなくなると思ったからだろう。戦後しばらくして私は天皇の戦争責任について考えた時期があるが、当時の空気を承知している世代として、もしあのとき天皇を戦犯に指名したら、まちがいなく日本中暴動が起きたであろうと思う。良くも悪くも、いったん身につけた感覚はすぐには切り替えられるものではない。

 戦犯といえば、かつてBC級戦犯の取材をしたとき、
 「戦友は『天皇陛下バンザイ』といって死んでいった。自分もまもなく国家の罪を背負って絞首刑に処せられねばならない。なのに天皇はこの先も生きていけるのか」
 と疑問として書き残した遺書が一通だけあった。未亡人を訪ねて、夫の遺書のその部分に込められた思いを聞いてみたところ、彼女はしばらく黙っていたが、
 「天皇様に罪があるわけじゃなし」
 と呟いた。敗戦の翌年から七年半にわたって昭和天皇が全国を巡幸されたときも、各地で“熱狂的”に迎えられたと新聞が伝えている。前記の未亡人のところにも連絡があって、戦死者や戦傷病死者や戦犯として国家のために命を亡くした人々の遺族は、最前列に特別席を用意して招くといわれたが、彼女は辞退している。天皇を恨む気にならないものの、天皇に近寄るのをことさら避けるようにした未亡人の心境は、戦争をくぐり抜けてきた日本人なら誰しも暗黙のうちに了解するだろう。私には手に取るように分かる。

 一度だけこの遺書と未亡人の言動を私なりにまとめて著名な総合雑誌に寄せたことがあるが、掲載直前に名編集長の判断によって外された。戦後、三十年目ごろのことだ。あのころまで戦時下の空気が脈々と生きていて天皇、戦争、昭和に関するチェックは良識としてタブーであった。私も原稿がボツになったことに特に異論を挟んでいない。昭和天皇および天皇制に関して、私の世代は特に礼賛も否定もする気はないが、その底流に共に戦争を乗り越えてきたという、ほんのりした親近感があるのは否めない。いまふうにいうと、戦時に対するKY(空気を読めない)世代とは、ここが違うのだ。

 国家はまちがいなく天皇制を戦争に利用した。だが、それは特定のリーダーによる策略でも一握りの野心家の共同謀議でもなく、様々な偶然の積み重ねによって生じた時の流れがないあわさり、抜き差しならない状況となって人々を巻き込んだ結果といっていい。昭和天皇はいわばその制度に殉じ、天皇、天皇制、昭和、戦争が怒濤となって日本および日本人を呑み込んだといおうか。引きずられた私たちは当時の空気を読んで、昭和天皇を核としながら一生懸命に国家の方針にしたがった。つまり万事良かれかしと思いつつ、私心を捨てて時代に協力し戦争を生き抜いてきたのである。

 複雑な厚みを孕んだあの時代を思い浮かべると、いまになって戦争は悪である、憲法九条は善である、昭和の思い出は日本の恥部だ、天皇および天皇制のもたらした弊害を一掃するのが民主主義だ、といわんばかりの一刀両断の分析の浅はかさが、私には気にかかってならない。

 戦争は悪というよりおろかであったと思う。しかしそのおろかさの中で私たちは真剣に生き、互いに協力して未成熟な国家が陥りがちなコースを通過してきた。戦時下に国中が心を合わせ如何に真剣に国家の大事を切り抜けるべく努力してきたかは、皮肉にも当時の新聞が明らかに証明している。

 天皇を頂点として陸海軍は国家を守るべく体当たりで取り組み、ジャーナリズムが先頭に立ってこれをリードするような時代を、日本じゅうが一丸となって体験して今日にいたった。あえて蛇足を加えるなら、子ども時代をこの空気の中で過ごした私は当時を思うとかすかな快感さえ感じる。若い世代が自らのKYを棚にあげ、あの時代を一刀両断のもとに否定して、粗雑に平和を守れといいつのるのが気になってならない。


2009年1月号【ガンの虚実を見定めん】
 《引用者注:冬坂さんは2005年に婦人科系のガンを手術。3年後「転移の疑いあり」と診断された。その後もガダルカナル慰霊の旅や、日仏修好条約150周年にちなんでパリへの旅を決行。が、パリで発熱し緊急帰国》

 ガンの場合、命の残り時間が比較的はっきりしているようだから、人生の締めくくりの準備が可能という点で便利だと、かねがね私は思っていた。医者にあと半年といわれたのが二か月分余分に生きて八か月後に亡くなったとか、余命一年と宣告された通りに世を去った等とよく聞く。だが、これも根拠に乏しい話だそうで、残り時間がわかればノーベル賞ものですと専門医は言うのである。最後のぎりぎり段階で「あと二か月」などというのがその通りになった例はあるが、これなども当てずっぽうと見た方が正しいと私の信頼する医者たちはいうのだ。

 たぶんそうだろう。人間の体の不思議と、入り組んだ運命の組み合わせの妙を思うにつけても、たとえ大雑把にせよ残り時間など計算によって出せると思うほうが間違いだ。

 で、この先、私はたぶん気長に抗ガン剤の治療を受けることになろう。東京・芝の御成門のテレビ塔の見える大学病院で、一親等なしの後期高齢者という気軽な立場の私としては、せめて現代人を悩ますこの病気の風評の部分とホントウの面とをできるかぎり観察してゆきたいと、自分に言い聞かせている。


2009年2月号【資産家の子は悪人なのか】
 麻生太郎総理が就任したとき、マスコミはこぞって彼の出自が資産家であることをいいつのった。わざわざ空から豪邸を写し出したりもしている。私は「固定資産税が大変だろうなぁ」と思ってその家を見たが、そういう見方は例外だったろう。

 しかし、麻生氏は好んであの一家を選んで生まれてきたわけではない。にもかかわらず、その後もやれ一流ホテルで食べたの飲んだのと書き立てられている。

 (中略)麻生内閣発足以来、二か月で支持率が急落したという。この前の政権も、前の前の政権も二か月で申し合わせたように下落したとのことで、日本はどうなる、自民党はどうなると騒ぎたてている向きもあるが、私に言わせれば二か月で飽きるように世論を誘導しているのではないかとさえ思われる。

 (中略)出自が出自だからバカ殿だと言い切る根拠はあるまい。そもそも個人の出自にこだわるのは差別である。

 同じように、青春時代に一日三百円で過ごした私は自助努力で身辺をかためて老後にそなえてきており、指示された通りの税を一度も滞納なく納めてきている以上、定額給付金は辞退どころか心待ちにしている。私は現政権に満足しているわけではないけれど、どこでどう狂ったのか、政党が組織のいろはを放棄して政局のつかみ取りに終始し、人間の本質を出自でかためてイメージを先行させるようなインチキが氾濫するのを、世も末だからといって見過ごすわけにいかない。


2009年5月号【百年に一度がどうした】
 不況、不況と騒ぎたてて政権交代の要因にまで結びつけたりしてるのは、何と雑なことか。人間の生活力や生命力を軽くみすぎていると思われてならない。
 戦中戦後を切り抜けてきた私たちの年代にとって、アメリカの失態による“不況”にすくなくとも軽々しく躍らされたくない。むしろ実態としても、話題としてもまもなくおちつくだろうと、私は多寡をくくっているのだ。

 そんなことより、いまこそ所属する企業と私たちの生活の歴史、ひいては日本の歴史にそって伸びてきた地元の歴史など振り返ってみるいいチャンスにすべきだと思われる。

 私は、よくもまぁ国家も国民も企業も今日まで立派に数々の障害を乗り越えてきたものだと日本をホメてやりたいし、今後のことも日本人の生活力を信じて、さほど心配などしていないのである。おおきな流れに身を任せて、むしろ安心さえしている。

 この不況を百年に一度の大事件のようにとりたて、政局の焦点をボカすのはズルイ。


 いかがでしたか?

 どれも心に響く文章ばかりですが、私は特に
 2005年5月号【ゴネ得を許すな】の
「無法な状況を解決するには論理よりも迫力しかないだろう」
「悪いヤツには悪いヤツ向けの手荒な対応をとらずして、何が外交か」

 2005年7月号【教科書を囲む“大バカの壁”】の
「国家の長たるもの、騒ぎ立てる世論より静かな世論を恐れるべき」
 という言葉に唸らされました。

 少なくともこれらの点に関して言えば、麻生さんは「国家の長」としてはなかなか適任じゃないか?と思います。先日の北ミサイル問題への対応もそうですし、あと、以下の動画などを見るにつけ……。

【中東和平】平和と繁栄の回廊(ニコニコ動画)テキスト起こし
「危機をチャンスに変えろ」(前編)~G20 舞台裏(YouTube)


※拙ブログ“追悼”エントリー
07/8/4付:追悼 阿久悠さん

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