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戦後の昭和天皇を振り返る

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「竹島プロジェクト」進行中。
詳細は「さくら日和」さんもしくは拙ブログ1/24付を。


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 「SAPIO」を1年ぶりぐらいに買いました。
 というのも、こういう特集が載ってましたので。

 【歴史を振り返れば現代が見える 第2弾 昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々】

 私(昭和39年生まれ)の知らなかったお話がたくさん載っていて、とても興味深く読みました。
 もうすぐ建国記念の日ということもありますし、私が特に「何か」を感じた箇所を一部引用させていただきます。
 なお、【  】内は原文の引用ではなく、私、くっくりによるまとめです。
 
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■[巻頭言]「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王

——昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
 またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

——昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。

殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(編集部注:信子妃殿下は麻生太郎現首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
 義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
 「太賀吉は元気でおるか?」
 とおっしゃったのです。
 実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

——国民に対するお気遣いも有名でした。

殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

——今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?

殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
 ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
 「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
 とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
 また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
 「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
 まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。
 
 
■[戦後]国民の心を抱きとめ、慈しみ、祈る「記憶の王」昭和天皇の「畏るべき」姿/松本健一

 戦後の日本再生のなかで、わたしは昭和天皇のさらなる「畏るべき」要素を垣間見た。
 昭和50(1975)年5月、イギリスのエリザベス女王が来日したときのことだった。天皇のアメリカ訪問の半年ほど前である。
 エリザベス女王とにこやかに並んで立つ天皇の間には1人の通訳官が立っていた。この通訳官は「二・二六事件」の重要な脇役だった真崎甚三郎大将(軍事参議官。もと教育総監)の息子だった。

 このことは何を意味していたのか。二・二六事件を起こした青年将校らを、天皇は「反乱軍」とみなしていた。その事件に関わった人間の息子を自らの通訳として立たせることによって、決起した青年将校のことは許さないが、その心情ぐらいは察してやってもいいとの意志表示ではなかったのか。
 ここに、わたしが「記憶の王」と呼ぶ昭和天皇の「畏るべき」姿がある。昭和11年の事件から40年近くが過ぎ、天皇もすでに74歳になっていた。肉体は衰えても天皇の記憶は少しも衰えていなかった。
 天皇が、二・二六事件において決起青年将校から一時は軍事政権の首班として推(お)された、真崎大将の息子とにこやかに並んでみせたのは、「記憶の王」が40年ちかくの時間をかけて判断を下した天皇政治だったのではないか、とわたしは考えている。
 天皇家として、天皇制が国内の権力闘争を超えて存続するシステムとなるための、天皇自身の判断だったのではないだろうか。


■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。(談)


■[皇居清掃]GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話/高森明勅

【皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったか?
 木下道雄侍従次長(当時)の証言によれば、昭和20年12月に宮城県内栗原郡の60人の青年グループが皇居の坂下門にやってきて、「二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れていると聞き、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京しました。どうかお手伝いをさせて下さい」と申し出たのが最初。
 実際は60人が突然やってきたのではなく、これ以前にグループのリーダー二人が上京、応対した筧素彦総務課長(当時)との間で勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。当時は占領下にあったため、筧氏は上の方に迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、一切の責任を負って自分の独断で受け入れを決意した】

 宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性五十五名、女性七名の計六十二名で、団長の鈴木徳一氏と副団長の長谷川峻氏(東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった。のちに衆議院議員)を除き、ほとんどが二十二、三歳の若さだった。過酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下道雄侍従次長(当時)証言)。
 むろん、占領当局によって拘束されることはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
 鈴木氏の証言を紹介する。

 「奉仕はだんだん進んで正午近くなった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取り次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(木下道雄氏「皇室と国民」)

<中略>「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我れも我れもと次々に奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌二十一年には早くも百八十八の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和二十六年で、何と四万人近くの国民が参加した(奉仕団は八百三十一団体)。

 こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行なったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行なっている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。

【皇居勤労奉仕への参加は現在ももちろん受け付けています。詳細は宮内庁のHPを】


■[会見秘録]マッカーサーが「思わずキスしようとした」ほど興奮した昭和天皇「男子の一言」/本誌編集部

 (昭和20年9月27日、昭和天皇とのマッカーサーとの第一回会見について)記録が公開されず、後に種々の資料が登場したことで、「何が語られたか」が論争になっているのは周知のとおり。もっとも有名なのは、『マッカーサー回想記』(1964年刊)のこの記述だ。

<天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
 「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでゆり動かした>

 回想記の出版以前にも、昭和30年9月、重光葵外務大臣が、天皇の言葉を受けたマッカーサーが「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとしたくらいです」と語ったと紹介している。
 こうした発言の真意をめぐり、「作文だ」「日米合作の天皇免責だ」などの意見もあるが、鳥居民氏(歴史研究家)は、「これまでの記録を見れば、発言の輪郭は明らか」という。

 「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。真珠湾攻撃は東条英機がやったことだが、すべては私に責任があると、天皇はいったのです。
 忘れてはならないのは昭和天皇が何を語ったかの議論に隠れている事実です。そもそもマッカーサーに天皇を免責するしないの選択はできませんでした。天皇を免責するという米国の基本方針は1943年に内々に決まり、トルーマンが大統領になっても変わりませんでした。マッカーサーはそれに従ったのです。
 マッカーサーが天皇に好意を抱いたのは確かでしょう。ただその好意を日本向けに度々見せたことには、外交上の狙いもあったと考えたほうがいいでしょうね」

 一方、昭和天皇は、この会見については「マッカーサーと、これはどこにもいわないと約束したから」と、最後まで語らなかった。昭和52年夏の記者会見で記者の質問に答え、その約束を守ることを「男子の一言」と表現している。


■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明

●昭和天皇は生涯にわたって、ご自分が行なわれたことを自慢されたことなど、一度もなかった。また、終生にわたって名誉や栄誉を求められたことも、まったくなかった。ご自分についてはじつに無欲な方だった。
 天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。

 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。
 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい

 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月〜21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。

 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。
 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」
 これが天皇のご返事であった。

●昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。
 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。

●天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。

●皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。

●昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。
 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。
 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。

●天皇の機知にあふれたユーモアは外国でも大いに発揮された。
 昭和50年、天皇皇后両陛下はアメリカを訪問された。カリフォルニア州のディズニーランドを行幸啓され、居合わせたアメリカの子どもたちとも交歓されて大いに楽しまれた。このときにミッキーマウスの腕時計を贈られ、帰国後にこの時計を腕にはめられるという茶目っ気も御披露された。

●御訪米時にお迎えしたのが、ジェラルド・フォード大統領だった。両陛下がお泊まりだったホワイトハウスの向い側にある迎賓館「ブレアハウス」にフォード大統領が訪ねて、予定時間よりも長く歓談された。両陛下は翌日にアメリカの国民的スポーツであるアメリカン・フットボールをご覧になる予定だった。そこで、フットボール談議となった。
 フォード大統領が「スポーツのゲームを(大統領として)観覧しますときには、どちらかのチームを応援することができないので困ります」と申し上げた。
 すると、天皇が相づちを打たれて、「とくに明日、あなたが出場されていたら、困りますね」とすかさず答えられた。
 天皇はフォード大統領が学生時代にアメリカン・フットボールの名選手としてならしていたことを、知っておられたのだった。

 この話は私が直接フォード大統領から聞いたものである。フォード大統領は昭和49年に国賓として訪日したときにはじめて天皇と会ったが、天皇の真摯(しんし)なお人柄にすっかり魅せられていた。
 昭和天皇のお人柄によって、深く魅了された外国の元首や政治家は多かった。

●昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。
 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。

 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」
 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。

 午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。

 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

●終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。
 ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。

 当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。
 だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。
 それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。


■[素顔]陛下はどんなときにご機嫌を損ねられたか/本誌編集部

●昭和43年から崩御まで内舎人(天皇身辺の雑役)として仕え続けた牧野名助(もりすけ)氏も、陛下はきめ細やかな配慮やお気遣いを忘れない方でしたと追憶する。
 「ある総理大臣が宮殿行事で陛下に拝謁した後のことです。陛下は、総理の退出の車が車寄せにいるのか確認したうえで『それならば歩いて帰ろう』とおっしゃられたんです。陛下が車を呼んで総理の車とすれ違えば、総理はおそらく車を降りられて陛下をお見送りするだろうというご配慮からのお言葉でした。また、たとえば東京都知事と会うときは、八丈島の織物・黄八丈のネクタイをご使用になるなど、お会いになる方へのご配慮も忘れませんでした。皇族の方と会う場合ですら、必ずその方から贈られたネクタイをご使用になっていました」

●昭和天皇が厳しく守られていたのが時間だという。<中略>ただ、こうした厳しさは、すべて配慮とお気遣いに根差したものだった。
 「陛下のスケジュールが急に変更になってしまえば、多くの人に影響が生じてしまいます。とくに地方への行幸は、幹線道路の通行規制を行ないますから、予定が遅れると、関係者や警備をする警察はおろか、市民にまで迷惑がかかってしまう。陛下は、こうした事態だけは避けられたかったのでしょう」(前出の牧野氏)

●一方、その日常生活は、質素なものだった。牧野氏によれば、鉛筆はサックをつけても短くなるまで、ノートは端の余白部分まで使い切るのが当たり前。辞典に至っては、汚れが目立ち、表紙が破れてきても、修補させてご使用になっていたという。
 「室内の調度品も、なかなか取り替えようとなさりませんでした。椅子などは、私がお仕えした20年間でも、一度だけしか取り換えなかったと記憶しています」(前出の牧野氏)

●「陛下は国体などの開会式などに出席される場合、30分でも40分でも姿勢を崩さず、セレモニーをご覧になっていました。この点はどんな場面でも、ご高齢になっても変わりませんでした。まさに公人。それ以外の何物でもないという方でした」(20年以上にわたり皇室取材を手掛けてきた元カメラマンの瓜生浩氏)


■[食生活]「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」が御所の厨房の三大原則だった/工藤極

【工藤極氏は昭和49年から54年まで宮内庁管理部大膳課に勤めた。この特殊な職場に勤めたいと思ったのは、主厨長の秋山徳蔵氏が高齢を理由に勇退される、という新聞記事を読んだことがきっかけだった。工藤氏は第二係(洋食)に配属されていた】

●聖上(おかみ)——われわれ大膳課の職員は天皇陛下のことをこうお呼びした——の朝食には毎日オートミールとコーンフレークが交互に出されていた。普通の家庭の食卓と大して変わらないのだ。これは昼食、夕食においても同様で、宮様との会食や、要人が招かれた饗宴ではそれ相応の料理が出されたが、普段の食事は非常に地味で慎ましいものだった。

●大膳課で働くようになってまず驚いたのが、使っている調理器具が、いずれも年代物と言ってよい古い物だったことだ。<中略>調理にはミネラルウォーターではなく、水道水を使った。食器も金箔が押してあるようなものではなく、菊の御紋はあるものの、それ以外はどこの家庭にもある食器と違わなかった。

●洋食の内容は、古典的なフレンチだ。フレンチというと、すごいご馳走だと想像する方もいるだろうが、過剰なデコレーションもなく、シンプルな家庭料理だ。肉か魚が1品あり、それにスープ、パン、温野菜、生野菜というのが通常のパターンだった。スープはつかないこともあった。<中略>担当ではなかったが、和食も焼き魚にごはん、味噌汁、付け合わせ、といったシンプルなものだった。

●大膳課では料理人として多くを学んだが、その1つに、食材は常に余すことなく使い切る、ということがあった。例えば鶏肉は御料牧場から丸ごと1羽仕入れるのだが、これをさばいて胸肉2枚、もも肉2枚、手羽、ぼんじりと分ける。胸肉、もも肉はグリルするなどして主菜にし、残った手羽は後日、軽く湯がいてカットしスープの具にする。骨はスープの出汁を取るのに使う。ぼんじりは軽く揚げてから薄いコンソメで煮て、付け合わせにする。野菜の皮は後でスープの具にし、葉物だったら漬物にするといった具合だ。これは「一物全体食」といって、食材を全部使うことで栄養バランスが偏らないようにする考えで、大膳課が長年守ってきた伝統であり調理の基本となっている。

●もう1つ、守るべき基本があった。それは秋山さんの後を継いで主厨長となった中島伝次郎さんがよくおっしゃっていたことで、「明治の料理の三大原則」だった。こういうと何やらものすごく難しいことのように思うが、実は非常にシンプルで、「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」である。つまり商品にならないものを作るな、余った食材を捨てる前に何かに使えないか考えろ、在庫を把握して常に鮮度を見ろ、というものだ。

●いずれも日本の家庭で失われつつある文化、心構えを大膳課では誰もが持ち、天皇の食卓にはそれが受け継がれているのである。


■[祭祀]「神事優先」の伝統を重んじる陛下は「宮中祭祀の簡略化」に反対だった/斎藤吉久

 宮中祭祀の簡略化は昭和40年代以降、入江相政侍従長が具体的に着手しているが、これは正確には「簡略化」ではなく「破壊」といっていい。
 宮中祭祀は、天皇自らが祭典を執り行なう「大祭」、掌典長(しょうてんちょう)が行ない天皇が拝礼する「小祭」、毎月1日、11日、21日に行なう「旬祭(しゅんさい)」などに分けられる。このうち、まず旬祭が昭和43年に簡略化された。1日は親拝(天皇自ら拝礼すること)だったが、それが5月と10月の年2回に削減された。さらに45年には宮中祭祀第一の重儀である「新嘗祭(にいなめさい。11月23日)が簡略化されている。新嘗祭は天皇が神嘉殿(しんかでん)において新穀を天神地祇に捧げ、自らもお召し上がりになる祭儀であり、「夕(よい)の儀」と「暁の儀」がある。このうち親祭(天皇が自ら執り行なう)は夕の儀のみとし、暁の儀は掌典長が執り行なうこととなった。
 簡素化は続く。<中略>これらは、陛下の「ご高齢」に対する配慮ともいわれるが、果たしてそうか。簡略化が始まる43年、陛下はまだ60代であった。しかも46年にはイギリスなど欧州7か国を訪問し、50年には訪米している。理由は他にあったのではないか。

<中略>昭和天皇は祭祀を重んじたというよりも、歴代天皇がそうであったように、天皇第一のお務めとして、粛々とこなされたのだと拝察する。
 その陛下が、「ご高齢」を理由に簡略化が推し進められる状況をどう思われたのか。明言されていないが、陛下のお心を察することができる言動がいくつかある。前述の通り新嘗祭が簡略化された時、陛下は「これなら何ともないから急にもいくまいが暁(の儀)もやってもいい」とおっしゃったと『入江相政日記 第4巻』(朝日新聞社)に記されている。このお言葉を受けて入江は「ご満足でよかった」と書いているが、そうではないだろう。これは“祭りを正常化せよ”という意思表示であったと捉えるのが自然である。
 実はその翌年から夕の儀も掌典長が執り行なう予定であった。入江日記では57年6月には「お祭りすべてお止めということですっかりお許しを得」たはずなのに、陛下は病床に伏される直前の61年まで親祭(天皇が自ら執り行なう)を貫かれたのだ。
 争わずに受け入れるという至難の帝王学のもとで、最大限抵抗されたのだろう。

 たしかに祭祀はご負担である。例えば新嘗祭では座布団もない硬い畳の上に長時間お座りになり、御直会(おなおらい)をされる。そのため、新嘗祭が近づくと、陛下は居間でテレビをご覧になる時、普段はソファに座ってご覧になるが、座布団を敷いて正座してご覧になっていた。当日は午後3時に始まり、すべての祭儀が終わるのは翌日の午前1時頃だったといわれる。しかし、周囲が「ご高齢」「ご負担」を繰り返したのには違和感を覚える。
 負担軽減が必要であれば、国事行為を皇太子に代行させたり、憲法には記載のない公的な行事へのご臨席を減らすという方法もあったはずだ。だが、現実には公務が優先され、宮中祭祀が犠牲となった。

<中略>実は背景には厳格な政教分離の考えがあった。当時の事情を知るOBによれば、「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになったことが原因」だという。新しい職員たちは国家公務員であるという発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。宮内庁内に厳格な政教分離の考えがはびこり、「なぜ祭祀に関わらなければならないのか」などと側近の侍従職までもが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めたのだとう。


■[ワイド]我が心の昭和天皇 「柔道は骨が折れますか?」事件の真相/山下泰裕

【皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードについて】

 怪我の功名といえばいいのか。失敗を悔いる間もなく意外な展開が待っていた。私の勘違いがおかしかったのだろう。陛下と私の会話に静かに耳を傾けていた他の出席者から笑いがおこった。さっきまでのピンと張り詰めた緊張が一瞬で解け、会場には和やかな空気が漂った。陛下も楽しげな笑みを湛え「今日はよく来てくれました」と私をねぎらってくださった。

 あの勘違いのおかげで、私は運良く陛下の自然なお姿と笑顔を知ることができたと思っている。私にとって大きな体験だった。陛下の慈しみ深い表情を目前で拝見したとき、こう感じたのだ。
 陛下は、常に世の中の平和や人々の安らぎを心から願っているのだ、と。
 私は、いくら言葉を重ねても相手には届かない「思い」というものがあると考えている。そんな陛下の「思い」が、表情、立ち居振る舞い、雰囲気から私の心に響いてきた。(談)


■[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫

 私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。

<中略>全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。

<中略>今上陛下まで数えれば125代という、世界で唯一無二の家系の重みを背負いながら、一瞬にして人を包み込むおおらかさをお持ちになっている。それがご威光になるのである。そのお姿を間近に拝見するたびに、私には、自然に万歳を唱えた炭鉱労働者たちの気持ちが理解できた。
 敗戦、そして復興という、我が国の歴史の中でもとりわけ激動の時代に、昭和天皇という偉大な存在を戴いたことは、日本人にとって幸福なことだった。(談)


■[ワイド]我が心の昭和天皇 日本中が一つの気持ちになった「大喪の礼」の舞台裏/石原信雄

【平成元年2月24日、「大喪の礼」が執り行なわれたこの日は、朝から霙(みぞれ)混じりの雨が降りしきるこの年一番の冬日となった。石原氏は竹下政権下で、事務方の内閣官房長官。それは「大喪の礼」の実務を取り仕切るという大任を与えられることを意味していた】

 昭和天皇の御遺骸を載せた霊轜(れいじ)が、会場の新宿御苑に到着する。
 「参列者、沿道の人もコートや合羽を着用して構いません」
 常に国民を第一に考えていた陛下を思い、そう異例の通達を出していた。しかし、霊轜が近付くと参列していた国民も、警備担当者もコートや合羽を脱ぎ、傘を閉じて拝礼した。ちなみに、後に暗殺されたパキスタンのブット首相は、生前の陛下を偲び、あえて薄着の民族衣装の礼服を身にまとい、翌日、風邪をこじらせた。

<中略>国民は、御不例になって以降、陛下をただ静かに見守り続けた。戦後日本において、天皇陛下に対する自らの気持ちを発露させたのは、このときが初めてではなかったか。
 なかには、御不例が秋だった関係で、日本全国の学校で運動会を中止する動きが広まるなど、行き過ぎた自粛もあった。「陛下のお心に沿うものではない」と過度の自粛を避けるよう政府から呼びかけたが、それも国民の陛下を思う気持ちゆえのことだった。
 陛下の御崩御から大喪の礼までのひと月余り、警備態勢の確認や交通規制のシミュレーションで国民に多くの負担を強いながら、一切、クレームがなかった。
 沿道に集まった20万人もの人々、テレビの前で静かに見つめていた全国の人々。昭和天皇を静かに見送りたい——この日、日本中がその気持ちで一つになったのだ。(談)

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 いかがでしたか。

 今回紹介したのは本当にごく一部です。もっともっとたくさん、昭和天皇にまつわるお話が載っていました。
 「SAPIO」のこの号はまだ書店にあると思いますので、皆さん、この際ぜひご購入を。Amazonにも在庫があります。


 以下、私の雑感。

 「私は天皇陛下万歳とはいいません」と言っていた婚約者を戦争で亡くした女性教師、皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていた炭鉱の労働者、そんな彼らもいざ陛下が目前に来られると、自然と「万歳」と唱えてしまったというエピソードには、思わず身震いしました。

 これ、理屈で考えても簡単に答えは出ないですよね。きっとご本人たちも、なぜ自分が「万歳」と言ってしまったのか分からなかったのではないでしょうか。

 女性教師のエピソードを紹介した松崎敏弥氏は、「昭和天皇には大変強いオーラのようなものがあった。それは威圧感ではなく、ふんわり包み込むような温かい雰囲気だった。これは巡幸でお言葉をかけられた皆が感じたものなのではないだろうか」と述べています。

 昭和天皇のそういった温かいオーラを感じ、思わず「万歳」と言ってしまった部分ももちろんあるのでしょうが、私はもっと根っこのところで、たとえば日本人のDNAが、天皇や皇室に対し自然と畏敬の念を抱くようになってるんじゃないかな?などと思ったりもするんです。
 (少数ながら例外もいますが、そういった人は親や教師から受けた教育的側面が大いに影響しているのでは。たとえば親が熱心な共産党員のため、物心ついた時から反天皇だったりとか←これは私のかつての友人(^^ゞ)

 「SAPIO」同号に掲載されている、小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言スペシャル『天皇論』第3章 初めての新年一般参賀」に、このような記述があります。

 「天皇はエンペラー(皇帝)ではない。プリースト・キングであって、祭祀王だ。イギリスのエリザベス女王はドイツ系であるし、スウェーデン王室はフランス系である。欧州の王室の起源はよそから来た征服者であり、国民とは別民族なのだ。つまり王と国民は対立関係になるから革命が起きる。これは中国でも同じである。日本の天皇の起源は神話にある。天皇は国民の安寧を祈る祭祀王だから、欧州でいえば王室よりもローマ法王に近い。そもそも神話に起源を持つ祭主がいる国というのが世界でも珍しい。天皇は国民と対立関係にないから日本では革命が起こらないのである

 自然に「万歳」と唱えてしまう理由をあえて理屈付けるとしたら、私は、この小林氏の説明がぴったり来るような気がします。


 それにしても、宮内庁管理部大膳課にお勤めだった工藤極さんのお話には、主婦の一人として耳が痛くなりました。
 「一物全体食」と「明治の料理の三大原則」(焦がすな・捨てるな・腐らすな)……。今、わが家の冷蔵庫に、消費期限切れの物がいったいどれぐらいあるだろう!?(T^T)


※拙ブログ関連エントリー
 08/10/11付:天皇はなぜ尊いか(付:石井選手の発言)

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「お気楽くっくり」更新済
 少数派ならではの珍現象。最初はてっきりわざとやってるんだと。

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