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【終戦の日】外国人から見た日本と日本人(7)

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 「外国人から見た日本と日本人」第7弾です。
 今日は終戦の日(もう日付変わっちゃったけど)ということで、それにふさわしいと思うものを集めてみました。過去に紹介したものも何点か混じっています。
 (新規のものは■、紹介済のものは○)
 
 
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)=アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれる。1869年(明治2年)に渡米、新聞などで活動。1890年(明治23年)、松江に英語教師として赴任。その後、熊本、神戸、東京と移り住み、日本に帰化。多くの日本論も残した。
「日本-一つの試練」より

 天皇の命令ならば、一命をささげることを願うあの勇猛心、あれはみな、そういう庶民のなかにあるのである。
 げんに今、戦争に応召されている何万という若い人たちから、名誉をになって国に帰りたいなどということばは、ひとことも聞かれない。
 誰もが口に出して言っている望みは、死んで『招魂社』で長く記憶されたいということだけなのだ。
 『招魂社』とは、天皇と国民のために死んだ諸霊が集まるところと信じられているところである。
孫文=1895年(明治28年)に日本へ亡命、以後、世界中を巡る。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。
「三民主義」より

 ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。
 白色人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが、知能には違いはない。アジアには強い日本があるから、白人人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。
 日本の台頭は大和(日本)民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。
 かつてわれわれはヨーロッパ人がすることはわれわれにはできないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、われわれも日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。

コリン・ロス=1885年(明治18年)ウィーン生まれ。1938年(昭和13年)3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった。第一次大戦のときオーストリア新聞特派員として活躍し、その後、アジア、アフリカ、南北アメリカの各地を旅行し、政治、経済に関する論文やその旅行記を書くとともに、映画制作にあたった。
「日中戦争見聞記―1939年のアジア」より
 靖国神社の合祀祭(1939年(昭和14年)現在の日中戦争の戦死者が合祀された)についての記述


 わたしたちの東京滞在中の宿舎は靖国神社のすぐそばにあったので、一日中大祭をくまなく見物できた。それこそ始めから終りまで、すべての段階を体験できたといえよう。

 だが、わたしにとって最高の体験は、戦死者の神格化が発表される最初の夜の儀式である。わたしはこれまで、日本国民の魂の中に活動し、彼らの強さの源泉となっているものを、これほど強力かつ衝撃的に痛感したことはなかった。ヨーロッパ人が理解できず、奇妙に思われるもので、日本に住む外国人にすら、普通会得できないものがこの夜、神聖な祭りに加わった数万の人々にとっては、まったく自然な出来事なのである。

 ついに招待された人々は鳥居をくぐり、広々と蓆がひろげられてある場所に着座した。物音ひとつしない平穏の中で、彼らは蓆の上に正座した。見渡すかぎり黒絹の式服を着た大勢の人々が着座している様子はまさに硬直した溶岩の原野であった。

 一瞬のうちにすべての松明と灯火が消された。完全に何も見えない暗闇に神社の境内が包まれた。暗黒の中で音楽が奏でられた。これは1000年以上も前の古い詩にそえて作曲された賛歌「海行かば」のしらべであった。その音楽に合わせて荘重な行列が近づいてきた。その中央には英霊の住居とされている棺のような箱がかつがれてきた。

 ほとんど耐えがたい緊張に満たされた最高の瞬間であった。今や参列者一人一人はもはや耐え忍ぶことができなくなり、英霊に呼びかける声、すすり泣く声、そして祈る声が高々とひびきわたった。

 わたしたちは最後の一人が神社境内を去る瞬間まで、靖国神社の中に留まっていた。参詣者が鳥居をくぐり並木道の参道を通って入ってきたときと同様、今度はわたしは去りゆく人々の顔付をながめようと努めた。彼らはわたし自身が感じた夢見心地とはいわないまでも、入ってきたときと同じく感慨無量の表情をしていた。

 しかし同時にわたしはこの靖国神社の体験を何千キロの彼方に住み、この種の体験を欠き東方の魂を異質的なものと思っている欧米人に伝えることの困難さを痛感した。言葉などはただ不完全な手段にすぎない。神ならびに神格化の概念は東洋人と西洋人とでは、まったく異なった意味をもつ。

 ――そうはいうものの、この言葉の背後にある感覚は、少なくとも戦場に出た者すべてにとっては、東西を問わずなじみ深いであろう。おそらく、その感覚は大祭のはじめにあたってやにわにわたしの心に浮かんだ「われらは奥津城なり!」との言葉以上に適切に表現されることはあるまい。

 結局、靖国神社の大祭も、このことを意味している。わたしたち西洋人も少なくとも戦場で隣にいた戦友が次から次へと戦死してゆく有様を見、さらには11月9日、ミュンヘンのフェルトヘッレンハッレ*1の祝祭に接して感銘を受けたはずだ。

 これすなわち日本人の英雄神格化と同じ「われら生者は奥津城なり」の気持である。わたしの中に種子がまかれた。ただ心配なのはそれが開花し、果実を実らせるかどうかということだ。

*1 一般的には「フェルトヘルンハレ」と表記するようです。ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆(1923年11月8日-9日)でナチスの党員16名が死亡したことから、ナチス・ドイツ時代に聖地となっていた場所。日本で言うところの靖国神社みたいなものであろうかと。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 私たちは、最大の損害を出した戦場が硫黄島と沖縄であることを知っている。だからこの作戦が実施された1945年春の時点で、日本は依然として大きな軍事的脅威であると信じていたのだ。これは日本の侵略軍を壊滅させるための作戦ではなかったが、アメリカ人はそれを認めようとしない。なぜこの作戦が必要だったかといえば、私たちの政策決定者が日本本土占領の意志を固め、日本を屈服させるには本土上陸しかないと信じて(正確には、信じているといって)いたからだ。私たちの政策決定者が日本の戦力と性格を正しく把握していなかったために、硫黄島と沖縄で多くの米兵の命が失われたといっていいだろう。

 日本の戦争機関は私たちが大規模爆撃を始める3月以前にすでに敗北し、わずかな防衛力を残すだけになっていた。これは占領後の調査報告が公式に認めていることだ。

<中略> 硫黄島と沖縄の日本人とカミカゼは、彼らを征服するために送られた膨大な数の人間にとってのみ脅威だった。彼らは「アメリカの安全を脅かして」いたわけではない。この作戦でアメリカを「征服」しようと思っていたわけでもない。アメリカが日本を征服しようとしていたのだ。

 これが日本人を「世界で最も軍国主義的な国民」とする私たちの論拠である。私たちはこういう状況の下で大きな損害を受け、日本も私たちをはるかに上回る損害を出した。この事実から私たちは「戦闘的な人種」という偽りの像をつくり出した。点々と散らばる自分たちの島を絶望的に守ることと、遠く離れた巨大な大陸に攻め入って征服することは、まったく違う。ところが、私たちはそれを忘れ、戦ううえでも平和計画をつくるうえでも、この誇張された日本民族像を政策決定の基盤にしているのだ。

 沖縄作戦は、本土上陸か原子爆弾がなければ日本は占領を受け入れない、という論理で正当化された。しかし、占領後に公表されたアメリカの公式報告は、この論理が間違っていたことを明らかにしている。この判断の誤りが、私たちに数千のアメリカ将兵を失わせたのである。私たちの政策決定者は、なぜ、本土に上陸しなければ日本は無条件降伏しないと信じていたのだろうか。

 この疑問に対して、スチムソン元陸軍長官は、日本人との戦いは「死ぬまで戦う能力を存分に見せつけてきた人種」との戦いだった(1947年、ハーパーズ・マガジン)としか答えることができないのだ。スチムソンは、戦争中に非常に多くの日本人が死んだことをいっているようだが、日本人が死んだのは、彼らがファナティックに戦争が好きだったからではなく、圧倒的に優勢な敵と戦っていたからだ。日本人を軍国主義的人種として告発することで、私たちは論理を逆転させている。私たちは、日本人のファナティックな行動を立証するために、私たちの力の優位を証拠としてつかっている。私たちはさらなる証拠として原子爆弾までもちだした。私たちは日本人を完全に屈服させるために強力な新兵器をつかったが、そのためには根拠のない告発をつくり出す必要があった。そして原爆をつかった私たちの行為は、告発事実を裏づけるさらなる証拠であるというのだ。

 もしアメリカ人が本当に平和を望むなら、対外政策の在り方にもっと厳しい目を向けなければならない。世界征服の野望を抱いているかのような偽りの状況に「引っぱっていかれる」のは、ひとり日本国民だけではないからだ。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 日本国民へ
 新年を迎えました。新しい年とともに、日本に新しい朝が明けたのです。もはや未来は少数のものによって決められることはありません。軍国主義、封建主義、あるいは集団主義による肉体的、精神的束縛は取り除かれました。思想統制と教育の悪用はもうありません。いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できるのです。集会の自由も保障されます。
 ――ダグラス・マッカーサー将軍、東京、1946年1月1日

<中略> 残念ながら、日本の歴史に関する私たちの戦争中の記述は、あれは「キャンペーン演説」だったとか、「戦争プロパガンダ」だったとかいって、葬り去ることはできない。私たちは、誰もがすべてを知り、自分で判断できる歴史の正確な記述に高い価値を置いている、という。私たちは、日本の制度を「戦争願望」を醸成するものとして排斥してきた。その最大の根拠は、神話を史実として取り入れ、偽りの事実をつくり上げて、歴史の国家主義的側面と嘘の歴史を教えているということにあった。私たちが日本に来て最初に命令したのは、私たちの検閲下で虚偽の記述を削除した新しい教科書ができるまでは、歴史、地理、道徳の授業をいっさい中断することだった。アメリカ本国のアメリカ人はこの決定を民主的措置として歓迎した。

 仮に歴史の正確さを求める私たち自身の基準が完全であるにしても、占領軍が被占領国民の歴史を検閲することが、本当に民主的であるかどうか。アメリカ人はもっと議論する必要がある。

 私たち自身が日本の歴史を著しく歪曲してきた。だから、政治意識の高い日本人からみれば、日本の教科書の「民主的改革」は、私たちが意図しているようなものではなく、単に日本人の国家意識とアメリカ人の国家意識を入れ替えるにすぎないのだ。

 つまり、もはやアメリカ人は日本の歴史家たちが現実を直視していないとか、不正確な歴史記述をしているといって非難できる立場にはいないのだ。戦争中私たち自身がほしいままにしてきた歪曲にくらべれば、歴史の中に神話を入れるほうがまだ正しい。神話は科学的には正しくなくても、詩的には正しいということができるからだ。神話は長い歴史を経て完成した日本文明の象徴にすぎない。歴史の中に神話を入れるということは、科学的史観に反するが、もともと日本は科学的方法というものをつくってこなかったのだ。

 日本人は科学者の方法論ではなく、芸術家や詩人の手法で伝統文化を発展させてきた。彼らは事実より感覚、象徴、直感を重視した。科学的正確さを重視するのは私たちのほうだが、危機的状況や戦争になると、自分の価値観に反したことをしている。にもかかわらず、よその国の国民にその価値観を私たちより忠実に守れというのは不条理だと思う。

 歴史に対する私たちの姿勢は基本的問題にかかわっている。日本の教科書を検閲し神話を追放することだけではない。私たちは日本人にどういう近代史と現代史を教えようとしているかである。恐らく日本人は日本の前近代史に対する私たちの公式解釈を認めないだろう。私たちはすでに日本の歴史を歪曲してしまったから、極東の近代史や戦争原因に関する私たちの解釈が信じてもらえるかどうか疑わしいのだ。

<中略> 私たちは、どうやら、それと気づかないまま、占領国日本に「思想統制」を敷いているようだ。私たちの制度は確かに私たちが「嘆かわしい」とする日本の制度とは違う。いままでの日本人の思想は日本政府の見解を反映すべく統制されていたが、これからは、アメリカの公式見解を反映させていく。そこが変わった点だが、思想統制であることは以前と変わらない。こういう行き方で、日本人や第三者のアジア人に、私たちの制度のほうが進んでいると信じさせることはむずかしいだろう。

 私たちが公に唱える原則と実際の行動は著しくかけ離れている。マッカーサー将軍が1946年元旦に出した日本の「新しい朝」という仰々しい声明(この節の冒頭参照)と、一年後の1月6日付パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙に掲載された記事を比較すると、それがよくわかるのだ。

>新たな追放に揺れる日本(ジャップ)新聞界
> 共同通信によると、日本政府は土曜日午後、新たな追放令と同追放令の対象となる報道関係者について具体的内容を発表した。
> 発行部数二万部を超える新聞社と出版社の幹部は公職とみなされることとなり、これに該当する職にあって、1937年7月7日から1941年12月7日までの間、日本の侵略的軍事行動を支持ないし慫慂(しょうよう)し、または、日本政府の戦争行為を支援したものは、追放の対象とされ、報道、映画、演劇、放送に関係する企業に職を得ることを禁じられる。
> 詳細な発表によると、追放によって空席となった職を、追放されたものの三等親までの親族が埋めることは許されない。三等親には、曾孫、妻、甥、姪が含まれる。(下線は筆者)
> 被追放者はその影響力の行使を禁じられるほか、原職に復帰することも許されない。本追放令とその細目に違反したものは罰せられる。

 この公職追放令は日本政府が出したものだが、だからといって、アメリカはこの政策の責任を免れることはできない。占領期間中は、私たちが日本政府だからだ。日本の役人は命令を実行するだけである。追放された日本の新聞人は、当然、それを知っている。そして彼らは、この話を自分の曾孫、妻、姪たちに語り継いでいくだろう。

ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。
1952年(昭和27年)11月、広島高裁での歓迎レセプションにおける発言

 わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。

 このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。 そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。

 満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。

パラディ・デサイ=インド人。法曹界の長老。
「捏造された日本史」(黄文雄著)より

 英印軍の捕虜からインド国民軍の将校になった二万人近い軍人たちが裁判にかけられたとき、首席弁護士を務めたインド法曹界の長老、パラディ・デサイ博士は裁判で召喚された光機関長 磯田中将、ビルマ方面軍参謀長 片倉中将のいる前で、堂々とこう語った。

 「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年もはやまった。インドだけではない、ビルマもインドネシアもベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」と。

ジャワハルラール・ネルー=インド人。独立運動の指導者・社会主義者・著述家。1947年(昭和22年)のインドとパキスタンの分離独立後、インドの初代首相となった。
「岸信介の回想」(岸信介他)より
 1957年(昭和32年)、岸信介首相がインドを訪問した際の歓迎演説会での演説(大意。「正論」08年3月号掲載 福田和也「悪と、徳と」第40回より孫引き)


 今、ここに日本の総理を迎えている。
 諸君は、日本という国を知っているか、地図を開いてみろ、アジアの端っこにある小さい島国が日本である。
 しかし自分は今日インド独立の大望を達して、インドとして独立したけれど、自分が独立の志を固めたのは日本のおかげである。
 自分はインドを独立させようと思ったけれど、アジア人はヨーロッパにはかなわないという観念が底にあった。
 ところが、このアジアの小国日本が世界最大の陸軍国であり、強大なる軍事大国であるロシアと戦って、これをやっつけたのだ。
 われわれの決意と努力によってわれわれの望みは達せられる、自分は何度も投獄されたけれど、その度にそういう決意を固めたのだ。

朴鉄柱=韓国人。大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。住吉神社に奉職。終戦後、韓国に帰国。李承晩大統領の反日政権下にあり、辛酸を嘗めさせられた。1954年(昭和29年)韓日文化研究所を設立。1990年逝去。
「日韓共鳴二千年史」(名越二荒之助編著)より
 1967年(昭和42年)に訪韓した名越二荒之助に語った言葉


 現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。

 日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争――この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。

<中略> 大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。

ガザリー・シャフェー=マレーシア人。元外相。アセアンを結成した功績により国連ハマーシェルド賞を受賞。アジアを代表する外交官。
「世界から見た大東亜戦争」(名越二荒之助著)より
 1988年7月19日、於赤坂プリンスホテルでの発言


 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」

ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア人。南方特別留学生として日本で学び、戦後独立運動に参加。元上院・下院議員。1994年逝去。
「日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した ラジャー・ダト・ノンチックの半生記」(土生良樹)より

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった
アジアのどの国の誰にでも
自分のことのように 一生懸命つくしてくれた


何千万人もの 人のなかには 少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない

でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや 不愉快さを越えて
おおらかで まじめで 希望に満ち明るかった

戦後の日本人は 自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから

まじめに 自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残虐無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ

だからアジアの国に行ったら ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている


そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな 今の日本人が 心配だ

本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて くやしい思いがする


自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか

自分たちだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにする

こんな ひとたちと 本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ

1989年4月 クアラルンプールにて

ジョージ・フリードマン=アメリカ人。ディッキンソン大学教授。近著に「新・世界戦争論―アメリカは、なぜ戦うのか」(2005年出版)がある。
「VOICE」1991年12月号「パールハーバーを忘れるな」より

 まともで教育のある人びとがなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。こういうことを理解せずに、ただそれを非難する人びとがいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人びとなのだ。当時の日本の指導者たちをモンスターにしたり、日本の置かれた悲劇的な立場を考えもせずに発言する人びとを英雄視したりしても、何の解決にもならない。解決どころか、このような態度そのものが問題なのだ。

サイデマン・スリヨハデイブロジョ=インドネシア人。陸軍大学長、駐日大使、外務省上級大使などを歴任。
1995年5月29日、戦後50年を記念して日本武道館で開かれた「アジア共生の祭典」に、スハルト大統領特使として参列した翌日、インタビューに答えて

 昨日は、日本人というのはアジアなんだなあと思いながら一日暮らしました。駐日大使として赴任していた頃(七九~八三年)の日本人は西洋人にほめられたい、西洋人の一員になりたい、という態度がありありと感じられてなんともいえない気持ちでした。ところが昨日会った人たちは皆が皆、アジア人であると感じられてとても愉快でした。

 かつて日本は我々に自信と敢闘精神を教えてくれました。日本軍政の最大の功績はベタを創設したことですが、インドネシア語を普及したことも多種多様なインドネシアの団結に偉大な役割を果たしました。

 日本に学べというのは、日露戦争以降今日まで続いているアジアの伝統的な姿勢です。独立運動の指導者、スカルノとハッタが演説のなかで繰り返し言ったことは、一九〇五年の日露戦争における日本の勝利についてでした。これこそ我々が白人に勝てる証明だと。独立を勝ち取った後の我々は植民地にさせられていたことの反省として、科学技術と人材の養成を克服すべき課題として掲げています。その際、学ぶべき日本とは欧米化する日本じゃない。欧米に負けないように科学技術文明を高めつつも、固有の文化を失わなかった日本にこそ我々は学びたいのです。

 各国の大使は日本に赴任すると、皇居にご挨拶に伺います。私は昭和天皇と皇太子殿下(今の天皇陛下)にお会いしたとき、こんなに高い地位の方がなんと謙遜なご姿勢なのだろうと、我々のところまで降りてきて下さって我々を理解しようとなさるご姿勢に非常な感銘を受けました。各国の大使も皆同じような体験をしています。感動すべき、健全で健やかな日本ここにありと今でもそのときのことは心に深く刻まれています。

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 本当は8月15日以後もまだ日本の戦争は続いていたし(北千島占守島の戦い)、法理的な観点で言っても「終戦の日」をいつとするかは見解が分かれているんですが(Wikipedia参照)、いちおうの区切りとして――。
 戦没者の御霊に心より感謝と哀悼の意を捧げます。

 今年も靖国神社には多く方が参拝されたようです。
 マスコミの扱いは今年は小さかったなという印象なんですが、これは北京五輪と重なったからでしょうね。

 閣僚で参拝したのは太田誠一農相、保岡興治法相、野田聖子消費者行政担当相の3人にとどまったようです(毎日8/15夕刊)。

 もちろん福田首相は参拝せず。ずっと前から分かってたことだし、今さら感想もないんですが、変な話、もったいないというか、今年ほど行きやすい年はないのにね。北京五輪真っ最中だから、中国もガタガタ言ってこないでしょ。

 でも、ま、私は福田首相は参拝しなくて正解だったと思う。だって、自国の戦没者より反日国家の事情を優先するような首相に参られても、御霊も喜べないでしょ。

 自国より中国を優先、と言えば、河野洋平が全国戦没者追悼式の「追悼の辞」で、靖国神社に代わる新たな無宗教の戦没者追悼施設の建設を強く求めたそうですね(毎日8/15)。しつこいなぁ。
 私は「無宗教の戦没者追悼施設」って言葉自体、すごく矛盾してる思うんですが。だって「追悼」そのものが宗教的行為なんだから。


 そういや、北京週報に人民網日本語版からの引用として、「中国の五輪を日本人が最も理解」と題された論文が載ってましたが、これがまた日本をえらく舐めた内容。
 日本JCC新日本研究所の庚欣副所長って人が書いたものです。
 一部引用します。

 日本は北京五輪に対して一種特別な思い入れがある。8月6日と9日は広島、長崎の原爆記念日にあたる。毎年この週になると、日本のメディアのほとんどが「戦争」を題材にし始める。また、開幕式のちょうど2日前、「ギョーザ中毒」事件が再発し、「戦争」と「ギョーザ」が「北京五輪」に影響するのではと、人々は少し不安になった。だが新聞をめくると、そんな心配をよそに、「北京五輪」の真っ赤な写真が各紙の一面を飾っていた。

 興味深いのは8月6日、一面で「ギョーザ」を取り上げたものの、二面には日本の大手メーカーが中国に工場を立ち上げるといった記事や、北京五輪がビジネスチャンスをもたらすといった記事が続き、さらに5ページにわたって北京五輪に関する記事が写真とともに掲載され、まるで中国各紙のようだったことだ。実際この日だけではなく、日本では五輪前まで大体これと似たような報道の仕方だった。

<中略> 福田康夫首相は「中国にとって今年は北京五輪の年であり、改革開放30周年の年でもある。五輪開催は、これまでの発展の総括と新たな発展の段階に進むための重要かつ象徴的な事柄になるだろう」と強調し、各国首脳の中でも最も的を得た発言をした。これは単なる建前上のあいさつではないことは明らかだ。まるで中国人のような言葉のニュアンスも含まれている。

 実際に日本と欧米の態度の違いは長野での聖火リレーでも見られた。当時聖火に対するマイナス報道が飛び交う中、日本は政府にしても、国民にしても、中国人の五輪に対する思いに深い理解を示し、現地の警察は五星紅旗を振る留学生を擁護し、聖火リレーを撹乱する者には強い姿勢を崩さなかったことが人々に強い印象を残した。当初の世相の中では容易なことではない。これは胡錦涛国家主席の訪日への道を平らにする役割も果たした。

 両国関係は今後多くの困難が待ち受けているが、今回の五輪前と後に日本が示した欧米との態度の違いは注目に値する出来事だ。これは中日間が特殊な関係にあり、先進国の重要なメンバーとして日本は高度成長を続ける中国を他国よりもより理解していることを説明している。

 要するに中共から見れば、「日本は政府も首相もメディアも国民もチョロイ」ってことですね。悔しいけど、舐められる日本側も悪い。
 せめて国民の私たちだけでも舐められないようしっかりしなきゃ、御霊に顔向けできません(T^T)

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※参考文献
日本政策研究センター「明日への選択」平成20年2月号/今月の主張
・コリン・ロス著「日中戦争見聞記」(講談社学術文庫)
・ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(メディアファクトリー)
パクリ大国 南朝鮮>私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
反日マスコミが伝えない親日の話
・「正論」2008年3月号 福田和也「悪と、徳と」第40回
酒たまねぎや ura ホームページ>朴鉄柱
大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧
・小林よしのり著「戦争論2」
しゃばだば近代国史帖>世界の識者が見た東京裁判
日本会議>「追悼・感謝・友好-アジア共生の祭典」 が開催 ─ 各界の声

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