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外国人から見た日本と日本人(6)

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 「外国人から見た日本と日本人」第6弾です。
 2月11日以来ですね。楽しみにして下さっていた方、お待たせしました。
 今回も有名なもの、さほど有名でないもの、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 
ラザフォード・オールコック=イギリス人。中国駐在領事を務めた後、初代駐日公使。1859年(安政6年)日本に着任。封建的日本の忌憚ない批判者だった。
「大君の都」より(但しこの部分は原著「The Capital of The Tycoon. A Narrative of a Three Years' Residence in Japan, 2 vols, London, 1863」による)
 神奈川周辺の田園についての記述


 手入れのゆきとどいた高い生垣や垣根はまだ葉がびっしりとついており、オランダ造園風に刈りこまれ整えられている。何と感嘆すべき植えつけ、刈りこみであることか。英国以外のどんなところでも、こんな生垣にはお目にかかれない。いやブリテン島でだって、こんな多様さは見出せない。ここに低い生垣がある。いや茶の木でできた鏡といったほうがよかろうか。三フィートほどの高さのしげみが二つ三つ、よく繁っている。ふつうの花がつく椿に似ていないこともない。というのはおなじ種なのだから。さあ、すばいもも(訳文ママ)の垣根に囲まれたところにやって来た。柘榴の生垣がある。中には背の高いオレンジの木が黄金の実をつけている。そしてさらに奇妙なことに、今日は十一月二十五日というのに、一本の桜が花盛りなのだ。おお幸せな土地よ、楽しき国よ。

ウィリアム・グレイ・ディクソン=イギリス人。1876年(明治9年)に来日し、工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)の教師を務めた。
「The Land of the Morning(Edinburgh, 1882)」(洋書)より
 東京の街頭風景を描写した後の記述


 ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる。

※なおディクソンは、こういう日本人の感じのよさが、日本人の国民性に対する不適切な高い評価に外国人を導き、そののちの幻滅の原因になると注意している。

ウォルター・ウェストン=イギリス人。1888年(明治21年)宣教師として訪日。日本における近代登山の開拓者。著書に「日本アルプスの登山と探検」など。
「ウェストンの明治見聞記―知られざる日本を旅して」1925年(大正14年)出版より

 明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい。

エドウィン・アーノルド=イギリス人。詩人。1889年(明治22年)11月来日。インドのデカン大学の学長を務め、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。
明治22年、日本の聴衆を前に語った言葉より(出典:Seas and Lands/London(洋書))

 私はこう言いたい。あなたがたの文明は隔離されたアジア的生活の落着いた雰囲気の中で育ってきた文明なのです。そしてその文明は、競い合う諸国家の衝突と騒動のただ中に住むわれわれに対して、命をよみがえらせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質をはぐくんできたのです。

〈中略〉寺院や妖精じみた庭園の水蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景のただ中で、長く続く荘重な杉並木のもとで、神秘で夢見るような神社の中で、茶屋の真白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さとから救われた気がしているのです。

コリン・ロス=ウィーン生まれ。1938年(昭和13年)3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった。第一次大戦のときオーストリア新聞特派員として活躍し、その後、アジア、アフリカ、南北アメリカの各地を旅行し、政治、経済に関する論文やその旅行記を書くとともに、映画制作にあたった。1939年(昭和14年)来日。
「日中戦争見聞記―1939年のアジア」より
 1939年(昭和14年)、神戸から下関に向けて自動車で走行中の出来事についての記述


 日本の素朴な民衆は、全世界でもっとも友好的で上品な民衆の一つだ。彼らに接して受ける印象は、けっして表面的な上品さではなく心からなる親切の表れである。

 わたしたちは一度ならずこのことを確かめる機会に巡り合った。道路事情があまりにも悪いため、わたしたちは時には草原あるいは畑に車をはまり込ませてしまうことがあった。しばしば狭い村道に入り込んで文字通り万事休すということもあった。

 もともとわたしたちの大型車メルセデスは、日本の全く狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。ところが農民たちはときには十分な理由があったにしても、けっして立腹した様子は見せなかった。

 わたしたちの車が町角の家にぶつかったり、耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけることをかならずしも避けられなかったが、車が故障で動かなくなったときは、いつもわたしたちにただちにいかにも当然であるかのように援助の手が差しのべられた。その際、謝礼を出そうとすると彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。

 道路がもともと狭いのに、わたしたちの車が走ってくると、人々は自発的によけてくれた。そればかりかこうした作法は、世界中のどこでもけっして愛すべき遠慮深い連中とはいわれないトラックの運転手によってすら守られていた。トラックの運転手は、わたしたちの追い越しを許してくれたり、あるいはわたしたちが道に迷ったときは案内役を買って出てくれた。

 これらすべての親切は、そもそも日本に交通規則がいっさいない不便を多少埋め合わせてくれた。もともと日本ではすべての車が道路の真ん中かあるいはまちがった側を走り、さらに他の国々と同様、子どもやニワトリは車が走ってくる寸前に道路を横断するのを常としたので、運転手としては心臓をドキドキさせずに村や小都市を通過することはできなかった。

 やっとのことで車の泥よけとの衝突をのがれた小さなわんぱく小僧が母親の腕に抱かれると、母親はまるで「わたしの子どもは小さいけど勇敢な英雄でしょう」とでもいいたげに、いかにも誇らしげに、そして幸せそうに微笑んだ。

 ヨーロッパ人として、そもそもアジア人から学ぶことのできる最良の事柄はけっして怒りを示さず、常に自制した態度をとりつづけることであるが、こうした際になし得る最善の行為は、微笑み返すことである。

 このように常に友好的な自制した態度をとることは、当然のことながら、さらに進行すると仮面をつけた偽善者ということにもなる。

 そのために多くのヨーロッパ人は日本人を不誠実であると考えるようになる。そうはいうものの、こうした友好的な態度は、ちょうどアメリカ人の微笑を絶やさない態度(キープ・スマイリング)のように、大勢の人間が狭い空間の中で摩擦なく共同生活をしてゆく上のすぐれた補助手段である。

コリン・ロス=ウィーン生まれ。1938年(昭和13年)3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった。第一次大戦のときオーストリア新聞特派員として活躍し、その後、アジア、アフリカ、南北アメリカの各地を旅行し、政治、経済に関する論文やその旅行記を書くとともに、映画制作にあたった。1939年(昭和14年)来日。
「日中戦争見聞記―1939年のアジア」より
 1939年、北京での記述


 中国はその大きさにもかかわらず、また膨大な人口にもかかわらず、基本となるのはあいかわらず平原である。ここでは異国の征服者が利得を追求し、また中国人同士が干戈を交えてきたのだ。

 フビライ汗のころもそうであったし、今も再びそうである。もともと日中戦争という言い方は正しくない。むしろこれは中国における中国をめぐる戦争である。日本人はまったく宣伝が下手であり、たとえ彼らに言い分があっても、全世界は信じようとしない。わたしの見解によれば、自分たちは中国の民衆を相手に戦っているのではないという日本人の主張は正しい。日本人は単に中国人をけっして敵視していないばかりでなく、中国内部でも、少なくとも部分的には中国人が日本人を敵視していないケースが見受けられる。さもなければ、北京のような百万都市でも、一般に市街地には入ってゆかないことになっているわずか数千人の日本軍しか駐屯していないことをいかように解釈すべきであろう?

 「北京の征服」は、日本の兵士を満載した数台のトラックが入城し、数百万の中国人がそれに甘んじた時に始まった。その状況は今日までそのまま残っている。

 わたしは夜となく昼となく北京市内を歩きまわった。そしてわたしはこの都市で秩序と安寧が危険にさらされているとか、あるいは暴動が起きるかも知れないなどと、少しも考えたことはなかった。街頭では中国人の警官が職責を果たしている。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 徳川時代の日本のように、私たちの社会とはまったく違う社会の価値観や満足度を、現代のアメリカ人が理解するのは、もちろん容易なことではない。私たちの発展パターンは、ほとんどすべての点で日本とは違うのだから、価値観、満足度は当然違ってくる。私たちは急いでいた。広大な大陸を手なずけ、治めなければならなかった。だから、儀礼とか世襲による特権を維持するために時を費やしたり、辛抱している余裕がなかった。私たちは、形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。

 日本人の場合はまったく逆だ。彼らは急いでいなかったし、何がなんでもやらなければならないことはあまりなかったから、性急であるより気長であることに重きを置いた。だから変化に抵抗し、日常の細部にこだわったのである。

 政治、社会、家庭で、そして戦においてさえ、彼らは伝統、儀礼、祭祀にこだわった。彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。

 私たちはつかえるものがあまりに豊富だったから、何でも惜しみなくつかい、試した。日本人はそれができなかった。彼らに必要なのは保存だった。過剰は私たち国民にとって国民的美徳だった。私たちは浪費信仰をつくり出し、日常生活で消費した物はただちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。日本人は節約を最大の徳とした。彼らは節約信仰をつくり出し、何物もむだにせず、もっているものはすべて完全につかいきった。

 私たちは大きいものを信じた。日本人は二エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さいものを信じた。ボンビル・ダムが私たちの論理に合ったものなら、段々畑は日本人の論理に合ったものなのだ。そして、今日、空の巨大要塞が私たちにとての論理的産物であるなら、一人乗り潜航艇は物を節約する日本的精神の表れなのである。

 私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にもなかった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いでいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、もっているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。

 私たちは自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い、たいせつにした。私たちは森林と土地に恵まれていたから、自然は挑戦相手だった。木とは土地を拓くために取り除くべきものだった。あるいは、木材として紙として、やがては新繊維として活用すべきものだった。

 日本人は土地に恵まれていなかったから、もっているものを崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。私たちは土地がありすぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。日本人はもっているものが少なかったからたいせつにした。二千年にわたって耕してきたいまでも、彼らの小さな島は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。

 私たちは自分たちのエネルギーを、国土の開発に、領土の拡張に、貿易に、私たちの行動と生産に役だつものすべてをつくり出すことに注ぎ込んだ。日本人は貿易や拡張にではなく、自己規律に、そして風変わりな、劇場的な、複雑な、様式化された文明を完成させることに、エネルギーを注ぎ込んだ。その文明はアメリカ的な生活様式ではなく、むしろ中国古典劇に似ているのである。

 私たちは利用できる手段は何でももっていた。私たちは膨大な資源を活かし、世界最高の社会的、政治的自由を発展させ、機械化と大量生産技術を開発して広大な土地に住むことの不利を克服した。これが私たちの才能である。

 日本人は利用できる手段に限りがあった。彼らは規制集団を編成し、物に依存しないことを基本に、社会を発展させていった。にもかかわらず、文明は未開の単調さに陥ることなく、様式美をもち、洗練されており、装飾的である。これが日本人の才能なのだ。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 文化と歴史を測る客観的判断基準は、その社会環境の中で経済・社会問題がどのように解決されたか、その文明が隣接国に対して侵略的だったか否か、の二点である。この点から判定すると、日本の伝統文明は高く評価されていい。

 日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明をつくってきたことは記録に明らかだ。近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定化された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備しつづけてきた。そして、外国を征服しなかったことは事実である。日本人を「間違い」で非難するなら、世界の大国になった近代国家で、こうした歴史を誇れる国がほかにあるか、探してみるべきだ。

 私たちは日本国民を生来の軍国主義者として非難し、その前提の上に戦後計画を立てている。しかし、日本国民を生来野蛮で好戦的であるとする証拠は一片もない。なによりも日本国の歴史と日本文明の歴史がそれをはっきり否定しているのだ。

プン・トモ=インドネシア人。元情報相。
昭和32年の来日の際の発言より

 日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。

エドウィン・O・ライシャワー=東洋史研究者。1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ大使を務めた。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。1990年(平成2年)没。
「ライシャワーの日本史」より

 日本民族は、借用とものまね以上のことは何もしなかったではないか、とよく言われるが、この指摘はまったく事実に反している。地理的に孤立していたため、日本人が意識して海外から学んできたことは確かであるが、同時に他から隔絶したいたことにより、同程度の他の規模の他の地域に比べても、とりわけ特異な文化を発展させることが可能だったのである。

エドウィン・O・ライシャワー=東洋史研究者。1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ大使を務めた。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。1990年(平成2年)没。
司馬遼太郎対話選集1「この国のはじまりについて/司馬遼太郎Vsライシャワー」文芸春秋より

 徳川期の今日の日本に対する遺産として、非常に重要なものは、以下の二つだろうと私は思っています。一つは・・・明治維新以降、非常に急激な変化に日本は見舞われたわけですし、おそらく他の国には例を見なかったほどの激しい変化にさらされたにも拘らず、徳川時代に養われた日本人の秩序感覚というものが見事に生かされまして、巨大な変革を、秩序正しくのりきっていくことを可能にした。これはやはり私は大きな遺産であると思うんですね。

 今ひとつは、その二百数十年の間には、いろいろな階層、身分と申しますか、あるいは藩組織というものの各段階で、相当程度自治ということが行われていた。自治の感覚というのが、私は非常に素晴らしかったと思うんです。いろんな制約条件はあるにせよ、藩が一つの自治組織であったことは間違いないと思います。

ジョイス・C・レプラ=アメリカ人。コロラド大学歴史学部教授。
「東南アジアの解放と日本の遺産」1981年発行より

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。

ダライ・ラマ14世=チベット人の国家的、精神的指導者。2歳の時にダライ・ラマ法王13世の転生者であるとの認定を受けた。1949年(昭和24年)の中国によるチベット侵攻後、全政治的権限が委任されたが、1959年(昭和34年)、中国軍がラサ市民の武装決起を残虐な方法で弾圧、これにより国外への脱出を余儀なくされた。以来、現在までインド北部のダラムサラにおいて、チベット亡命政府の元首としての立場を保っている。チベットの自由化のために非暴力による闘争を選択、1989年(平成元年)にはノーベル平和賞を受賞。世界各地をたびたび訪れ、講演など活発に行っている。
1992年10月ダラムサラの法王宮殿内にて行なわれた葉山氏との会見より

 私は最初に訪日したとき、多くの友人に語ったこともあるし、自分も感じたこととして、日本は物質的に大層発展したし、また現にしつつあるけれど、そのうちある段階で、このような発展に起因して精神的な問題も生じてくると思います。日本には、昔から豊かな文化もあるし、仏教の教えもありますから、それらを伝統や習慣としてやるだけではなく、よく考えてこれらの文化と思想を生活の中に活かし、物質と精神の双方を発展させることが重要だし、日本ならそれも可能だと思います。

C・W・ニコル=イギリス人(1995年日本帰化)。サウスウェールズ生まれ。17歳でカナダに渡り北極地域の野生動物調査を行って以後、カナダ政府の漁業調査局、環境局技官として12回に及ぶ北極地域の調査を行う。1962年(昭和37年)、空手修業のため来日。81年(昭和56年)から長野県黒姫に居を定め、作家活動に入る。2005年5月、財団法人C・W・ニコル・アファンの森財団を設立し、理事長に就任。日本の捕鯨史を学んだ関係で、日本の食文化・漁業文化・生活文化を守る必要性から捕鯨推進論者……らしい。
「WiLL」08年3月号掲載 花田紀凱との対談より

ニコル
「20年くらい前、知床で林野庁が木を伐採していたんです。林道が止められていたので、地元の人とお忍びで森に入りました。
 そこには400年近く生きていた素晴らしいミズナラがあったんですが、それも切られていました。切り方が下手なので、引っ掛かって小さな切りくずがたくさん落ちていたので、それを持って帰りました。磨いてみるとはっきりと年輪が見えて、江戸時代はこの辺だな、ということまでわかりました。
 こんな素晴らしい歴史を持つ大木を国は切ってしまうのか、と怒りを覚えました」〈中略〉

花田
「1995年に日本に帰化されましたが、日本の森の何がニコルさんをそこまで惹きつけたのですか?」

ニコル
「確かにカナダの森も素晴らしいのですが、日本の原生林はもっと凄いんです。例えば、知床では海岸線までミズナラの大木が生えており、その先に流氷があります。落葉樹と流氷が一緒に存在しているなんて土地は、他にありません。それに世界で一番古い木があるのも日本です。屋久島の縄文杉ですね。
 私は22歳の時(1962年)、空手修業のために初めて日本に来ました。それまで北極の調査をしていたので、日本の梅雨時の空手道場の湿度と温度は拷問でした(笑)。
 そんな私を見て、道場の先輩たちが『涼しいところに連れて行ってやる』と言ってくれた。当時、まだ日本語が不自由だったのではっきりした名前は覚えていませんが、確か長野県のブナの原生林でした。
 原生林に入ったら、私は涙を流してしまいました。ブナはケルト人にとっての水の神様の木です。そのブナの原生林でこれほど美しい森は初めてで、感動した嬉しさと、我々の国にはないという口惜しさで泣いてしまったんです

花田
「先輩たちはさぞや驚いたでしょう」

ニコル
「男泣きでした(笑)。理由を問われても説明できなかったでしょうけどね」

花田
「第二次大戦が終わり日本に帰って来た兵士たちが、船が日本に近づき山々の緑が見えてきた時『こんな美しい風景は他にない』と感動したそうですね」

ニコル
「ジャングルとは違いますよ。アフリカの原生林も逞しいし、すばらしいのですが、日本の森の方が美しい。私が言うのだから間違いない(笑)。
 北は知床、南は西表(いりおもて)、日本ほど多様性に富んだ森、言うならば『財産』を持っている国は他にありません。アマゾンも種類が多いと言われますが、遺伝子でいえば日本の方が多いと思います。
 日本は何回も恐ろしい時期から立ち直りました。最後は第二次世界大戦です。資源がないと言われているのに、こんなに豊かになった。それはどうしてか?やっぱり美しい自然があったからだと思います。
 日本は戦争で家を焼かれた。戦後、家を建て直そうとしても、外国の材木は買えないから自国の木を大量に使いました。しかし、それ以上に台無しにし始めたのは高度経済成長の時からです。オリンピック後の林野庁が日本の森を破壊した。
 私は45年前から日本の森を歩いています。日本を愛しています。大好きなカナダを捨て、日本の国籍をいただきました。私から日本には何も教えられませんが、『ひいおばあさんの時代を思い出してください』と言えます。60年前に若者たちはなぜ特攻隊として死んでいったのか。アラーの待つ天国に行くためではなく、自分の家族、この美しい日本を守るためでしょう。その美しい自然を壊す権利が誰にあるというのですか


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 戦前戦中の日本について外国人が記した本はないだろうか?と本屋さんで2時間粘って見つけたのが、講談社学術文庫「日中戦争見聞記―1939年のアジア」(コリン・ロス/金森誠也・安藤勉 訳。2003年8月10日第1版発行)です。
 1990年4月に新人物往来社から刊行された「日中戦争見聞記」を底本にしたものです。
 今回はこの「日中戦争見聞記―1939年のアジア」からコリン・ロスの記述を2本紹介しました。

 コリン・ロスは1885年(明治18年)、ウィーンに生まれ、1938年(昭和13年)の独墺合邦以後「ドイツ人」となりました。
 ロスはこの本の表題に記された1939年(昭和14年)に、日本、満州、日本軍の占領下の中国ばかりか、重慶はじめ中華民国(蒋介石)支配下の中国各地、さらに、香港やインドシナを旅行し、多くの有力者と会談をしています。
 後日、ネットを調べてみての印象ですが、どうやら日本ではあまり知られていない人のようです。

 訳者の金森誠也氏(静岡大学、日本大学などの教授を歴任)と安藤勉氏(日本医科大学助教授)はあとがきで、ロスは「親日的」であると書いていますが、私はさほどそういう印象は受けませんでした。

 というのは、全編を通して「日本人よりも中国人の方が優れている」という趣旨の文章がところどころに登場するからです。
 「中国人とちがって昔から好戦的民族」「肉体的に劣っている」「精神的にも一般に劣っている」「島国のちび」「形式にこだわる官僚主義者」等々……(最後のは当たっているかも(^^ゞ)。

 訳者は何をもってしてロスを「親日的」だと言うのだろう?と思い、あとがきをよく読んでみると、何だか見慣れた名前が出てきました。

 本書における記述は、ロスが1938年3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった関係から、たしかに全体主義的で親日的すぎると思われるふしもある。ラーベ『南京の真実』のような日本軍の残虐行為の描写もなく、日本に甘いとみる向きもある。

 ラーベの迫力は欠いても概して客観的冷静な筆致でロスが昭和14年(1939)という世界史上まれにみる激動の年において、アジアを中心とする世界の断面図を提供している点は興味深い。

 そりゃあんた、ラーベと比べりゃ誰でも「親日的」でしょ(T^T)

 また、あとがきにはこういうくだりもあります。

 蒋介石政府が、日本と軍事的に結びついていたドイツ人著述家であるロスに、雲南から重慶入りを許したのはなぜだろう。それはロスが、かねてから中国に対し同情的立場を示していたことが好い印象を与えたからであろう。しかし、それとともにドイツ政府自体が、蒋介石政府にかなり友好的態度をとっていたからであろう。

 つまり、訳者はロスを「親日的」であると同時に「親中的」でもあると言っているわけです。
 ロスが「親日的」であるという訳者の評価は、「日本軍の残虐行為を描写したラーベ」と比較してのものにすぎず、あくまで主観にすぎないのではないかと私は感じました。

 不自然なのは、ロスが満州国における日本の頑張りを評価している(しかもかなりのページを割いて記述している)ことについて、訳者があとがきで全く触れていないことです。
 ロスが「親日的」だと言うのなら、その理由として、このことを真っ先に挙げてもおかしくないのですが。
 逆に言えば、訳者はロスが満州国を評価していることが気に入らなくて、だから「親日的」だとレッテル貼りをしたかったのもしれません。

 もう一つ、私が注目したのは、田中メモランダム(田中上奏文)です。これを本物であるという前提で、ロスが記述をしている箇所があります。
 田中上奏文は発表当初から偽書ではないかという指摘がされており、現在では、中国側が流布した偽書であることが定説になっています。
 1939年当時、ロスが田中上奏文を信じていたとしても仕方ないでしょうが、私がここで問題にしたいのは、訳者の姿勢です。

 本文で田中上奏文が出てくる箇所(この箇所の訳者は金森氏)、注釈には「陸軍大将、内閣総理大臣田中義一の上奏文といわれる文書で、昭和2年の東方会議で決定された大陸政策の基本方針を記している。中国側によって暴露された」とあるだけで、訳者はこれが偽書である可能性には全く言及していません。

 このあとがきはごく最近、つまり講談社学術文庫から刊行された際(2003年)に書かれたものです。訳者も当然、田中上奏文の怪しさについて耳にしていたはずです。
 もちろん今でも田中上奏文を信じている人はいるでしょうし、訳者もひょっとしたらそういう考え方なのかもしれません。
 が、ここは公平性を期すために、せめて「現在、真偽については意見が割れている」等、書き添えるべきだったのではないでしょうか。

 ちなみに中国側も最近では、田中上奏文の存在について否定的な発言をしています。
 2005年12月、中国社会科学院日本研究所所長の蒋立峰は「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつある」と語り、2008年1月には、日中歴史共同研究の中国側座長である歩平・中国社会科学院近代史研究所所長が「(田中上奏文が)本物だとする十分な根拠はないと考えている」と語っています(こちら参照)。


 ……というわけで、第7弾につづく……!?


※参考文献
・渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)
・コリン・ロス著「日中戦争見聞記」(講談社学術文庫)
・ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(メディアファクトリー)
日本会議>世界はどのように大東亜戦争を評価しているか
真中行造のページ>日本精神・日本の使命(I)
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所>ダライ・ラマ法王 世界と日本を語る(1992年10月)
・「WiLL」2008年3月号 〈著者インタビュー〉C・Wニコル「マザーツリー 母なる樹の物語」

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