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外国人から見た日本と日本人(5)

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 今日は建国記念の日ですね。
 国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定されています。
 今年もまた全国各地で賛成集会、反対集会が開かれるのでしょうね。

 そんな喧噪とは離れたところで、日本について考えてみませんか?
 ——ってことで「外国人から見た日本と日本人」第5弾です(無茶振り?(^_^;)。
 今回も有名なもの、さほど有名でないもの、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 
ローレンス・オリファント=イギリス人。旅行家。1858年(安政5年)、日英修好通商条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員。来日するまでにセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などを歴訪。1860年(万延元年)、水戸浪士の襲撃を受けたが、一命をとりとめ帰国した。
「エルギン卿遣日使節録」より
 下田の会所(物産展示販売場)についての記述


 これらの会所はもっとも人をいらいらさせる場所である。そこにはたくさんの品が並び、どれも美しく新奇なので、人は呆然とした気持になり、覆いかぶさる懐の負担を痛感しながら、光り輝く珍しい品々の並ぶ道を歩き回る。何を選んだらよいか、どんな品が故国で一番喜ばれるか。……ほかのものはみんな気違いのようになって買っている。……一番いいものはみんなあなたの鼻先で買い占められている。そこであなたは困惑し、失望しそこにつっ立っている。結局あなたはポケットが空になるまで、無鉄砲に無批判に買おうと心に決める。

ラザフォード・オールコック=イギリス人。中国駐在領事を務めた後、初代駐日公使。1859年(安政6年)、日本に着任。封建的日本の忌憚ない批判者だった。
「大君の都」(中巻)より
 熱海滞在中に愛犬が死んだ時の記述


 この場合、日本人の性格のもっともよい気質のいくらかが、非常に都合よく現れた。
〈中略〉私の別当頭は、犬が死んだことを聞くとすぐにかけつけて、かご製の経かたびらに犬を包み、とむらいをした。私は宿所の経営者に木陰の美しい庭に犬を埋葬する許可を求めた。すると彼はすぐにみずからやってきて、墓を掘る手伝いをしてくれた。あらゆる階級の一団の助手たちが、あたかも彼ら自身の同族の者が死んだかのように、悲しそうな顔付きでまわりに集まってきた。犬はむしろに包まれて、好物の豆といっしょに墓にいれられた。注意深く北側におかれた頭の上に常緑樹の枝が一本さしこまれた。寺の僧侶が水と線香をもってきた。ついでその場所を示すため、でこぼこの墓石が墓の上におかれた。日本人は、支配者によって誤らせられ、敵意をもつようにそそのかされないときは、まことに親切な国民である。

クララ・ホイットニー=アメリカ人。1875年(明治8年)、14才の時、商法講習所の教師として招かれた父とともに来日。
「クララの明治日記・上巻」より
 1876年(明治9年)11月、銀座が焼けた翌朝、火事場を見に行った時の記述


 この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった。

エルウィン・ベルツ=ドイツ人。1876年(明治9年)、来日。東京医科校(翌77年東京大学医学部と改称)で教鞭を執る。
「ベルツの日記・上巻」より
 上のクララ・ホイットニーと同じ火事についての記述(むろん二人は示し合わせて書いたのではない)


 日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。……女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床をほしがる子供、はっきりと災難にうちひしがれている男などは、どこにも見当らない。

アーネスト・F・フェノロサ=アメリカ人。美術研究家。1878年(明治11年)、お雇い外国人として来日。東京大学で政治学や哲学を教えた。のち美術行政にかかわり、東京美術学校創設などにも尽くす。日本文化に傾倒した。
「中国および日本の特徴」山口靜一訳より
 1892年(明治25年)に書かれた文章


 日本のとるべき最上の道は日本が東洋的伝統の理念をしっかりと保持して行くことだと私は信じている。この道こそ日本が人類に対して果たすべき重大なる任務であり、日本こそこの聖火を守る最後の国である。

※フェノロサについては最後に解説をつけました。あわせてご覧下さい。

アリス・ベーコン=アメリカ人。1881年(明治14年)来日。華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍。
「Japanese Girls and Women, revised and enlarged edition(Boston and New York, 1902)」(洋書)より

 旅行者が夏、日本の田舎を通りすぎて、道筋の村々から溢れ出し、人力車がとまるたびにそれをとり囲む半裸の男女と子どもたちを目にする時、彼は、いったいこの国にはほんとうの文明が存在するのか、この半裸の者どもは文明人というより野蛮人ではないのかと、疑い呆れることがある。

 しかし、いたるところに上質な旅館があり、そこでは便所や食卓などのあらゆる設備がきわめて清潔で、サービスも丁寧でゆき届き、契約通りに仕事が進んで行われることを知った時、あるいはまた、外国人が休憩のために村の宿屋に立ち寄ると、光も空気も遮ってしまうほど大勢押しかけて、口を開いて見物している人びとにさえも、最も丁寧で快い作法を見出す時、この国民の生活の特殊な面について以前くだした評価を訂正し、日本には、われわれ自身の文明とは多くの重要な点で異なってはいるが、たしかに高いタイプの文明が存在するのだと結論しないわけにはいかない。

〈中略〉日本人の尺度によると、たんに健康や清潔のためとか、せねばならぬ仕事をするのに便利だからというので、たまたまからだを露出するのは、まったく礼儀にそむかないし、許されもすることなのだ。だが、どんなにちょっぴりであろうと、見せつけるためにだけからだを露出するのは、まったくもって不謹慎なのである。

 前者の例としては、開放された浴室や裸の労働者、じめじめした季節に着物をまくり上げて下肢をむき出しにすること、夏に田舎の子どもがまったく裸でいること、暑い季節には大人さえも、家のまわりや田園でちょっぴりしか衣服を身につけないのが必要とされていることがあげられる。後者の例としては、西洋の衣裳がからだは完全に覆っているものの、腰から上の体型のあらゆる細部をあらわにしており、きれいな体型を見せつけようとしていることに、多くの日本女性が嫌悪を感じていることを申しあげておきたい。

ブラジルの新聞
1908年6月、ブラジルのサントス港に日本からの最初の移民781人を載せた笠戸丸が到着した時の様子を伝えた当時のブラジルの新聞に報じられた内容(ブラジル日本移民80年史より)

 然るに驚くべし。彼ら(日本人移民)の去りし後には、一つの煙草の吸い殻も一つの吐唾もあらざりき。是れ他国移民が忽ちその居所を踏みにじりたる煙草殻及び吐唾を以て不潔を極むるに比して雲泥の差なり。

ブルーノ・タウト=ドイツ人。建築家。ナチス政権に職と地位を奪われ国外へ。1933年(昭和8年)5月に日本を訪れそのまま亡命。日本では建築の機会に余り恵まれなかったが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。著書に『ニッポン』『日本美の再発見』など。
伊勢神宮の社殿建築を評して

 伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な檜、屋根の萱、こうした単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬまでに、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初に作った人の名前もわからない。おそらく天から降ったものだろう。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 ポツダム宣言は、日本国民を決起させ降伏を早めるための解放戦略として受け止められていた。対日プロパガンダ、とくにザカリアス海軍大佐が制作、放送していたラジオ番組と同じようなものだ。しかし、日本での効果はまったく逆だった。降伏を決定すべき政策立案者の立場からすれば、宣言は和平勢力より、むしろ「徹底抗戦」派の力を強める効果しかもたなかった。ポツダム宣言の内容は、よくいえば「厳しく、贖罪(しょくざい)的」、悪くいえば、経済条項はきわめて漠然としていたし、特定されない戦争犯罪人の追及があまりに広範で曖昧だったから、それが指導部と全国民に対してもつ意味を理解できるものには、ただちには受け入れがたいものだったのも当然である。しかし、その過酷な条件にもかかわらず、「六首脳(ビッグ・シックス)」(訳註=最高戦争指導会議のこと。首相、外相、陸相、海相と陸軍参謀総長、海軍軍令部総長で構成)のうち3人は即時受諾に賛成していたのだ。

 しかし、私たちは和平支持派に反対勢力を説得する時間的余裕を与えなかった。私たちはたった11日間待っただけで、いきなり一発の原子爆弾を、そして2日後(原文のママ)にはさらにもう一発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導部の上でもない、二つの都市の約20万の市民の上に投下した。しかも、犠牲者の半数以上が女子供だった。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 日本は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者であるという宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。パールハーバー以前のどんな参考書でもいいから、ざっと目を通せば、それが正しくないことがわかるのだが、この宣伝文句の大きな問題点はそこにあるのではない。こんなことをいったら、日本人だけでなく、政治意識をもつアジアの人々には、アメリカ人がおろかしくみえる、ということなのだ。

 私たちが日本にきた目的は、軍国主義的侵略性をもって生まれた日本人を「改革」することである。この「生まれつきの」軍国主義なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、16世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。しかし、この遠征をとらえて日本民族を生まれつき軍国主義者と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たち自身のことはどう性格づけしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は15世紀から、まさしく「世界征服」を目指して続々と海を渡ったではないか。

 日本とアジアの目で見ると、日本に歴史的侵略の罪を着せる私たちの姿は、自分のガラスの家を粉々に壊している(訳註=自分の罪を棚に上げて他人を非難している)立派な紳士だ。私たちの非難は、むしろ、明治までの日本がいかに拡張主義でなかったか、これに対してヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったか、をきわだたせる。

〈中略〉私たちが最初に入植した13の地域は86万8980平方マイルの面積をもっていた。これに対して日本の南の三島は9万1654平方マイルにすぎなかった。私たちは初めから土地が狭いといってあがいていたのに、世界で「最も残忍な侵略者」は1800年間、狭い領土に満足していた。ペリーが日本の「門戸を開いた」ときの私たちの大陸の人口は2300万をわずかに超える程度だったが、小さな日本の人口は3300万だった。それでも世界に出かけて「門戸を開放」させようとしたのは私たちのほうだった。

 日本人はこうした事実から、私たちの非難は、西洋の猛烈な対アジア拡張政策から注意をそらすための策謀と考えるだろう。実は、西洋の拡張政策のほうが日本人の本性や伝統社会より、近代極東の混迷にずっと大きな役割を果たしているのだ。

〈中略〉日本の歴史を日本の立場から説明すれば、日本人は世界を征服する野望にとらわれていたのではない。世界のどこの国にも征服されたくないという気持に動かされてきたのだ。

ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

  神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表わすものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統をもっているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡のときには、戦争計画への国民統合に利用される。しかし、伝統が戦争の大義なのではない。ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。そうすることによって、為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。

 アメリカも戦争の後ろ盾に国民を統合するため、伝統を利用したのだが、とかくそれが忘れられがちだ。私たちは民主主義とキリスト教の名のもとに戦った。「天皇制」と神道が本来、戦争を内包しているのに対して、民主主義とキリスト教は本来、平和であると私たちは主張する。日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国旗に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。

 天皇は「われわれ天皇と国民……の結びつきは単に伝説と神話によるものではない」と宣言したが(引用者注:いわゆる「人間宣言」を指すと思われる)、日本人の立場からすれば、ごく当たり前のことを言ったにすぎない。日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。長い歴史と伝統文化の表象としての制度を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サムのようなシンボルなのだ。

 私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争がなければ、日本人にとって天皇は軍事的象徴ではなかった。

 「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現われる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴にすぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。心情的国家意識は戦争の大きな要因であると同時に、戦争遂行に必ずかかわってくるものである。それを問題にするなら、連合国も私たちも無罪とはいえない。私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室はないが、私たちの民主主義同盟であるイギリスは王室をもっている。

 第二次世界大戦前、イギリスの王族がイギリス外交への支持を求めて訪米したとき、アメリカの新聞、雑誌、政府指導者は彼らのことを、日本の天皇に対していったように、「恐るべき病根」とはいわなかった。

〈中略〉私たちアメリカ人は、平時には、愛国心を当然のものとして表に出さない。アメリカの歴史や国家に命を捧げた人に対する尊崇の念を表わす7月4日(独立記念日)とか戦没者追悼記念日(メモリアル・デー)以外は、愛国心を表に出して騒ぐ国民ではないが、戦争中は、私たちも国家神道を絶えず感情的に表現していたのである。日本人を教育して心情的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの心情的国家意識を捨てるべきである。

ウィンストン・チャーチル=イギリス人。1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。
「第二次大戦回顧録」より

 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろという。

 無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
 
 英国はその後マレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。

某アメリカ人女性=麻生太郎前外務大臣の知人。
「諸君!」2008年2月号 麻生太郎「『保守再生』はオレにまかせろ!」(聞き手:宮崎哲弥)より

麻生太郎
「国際社会でも沈黙の美徳が通用するかというと、残念ながらそれはない。
 つい先日、こんなことがあった。オレのアメリカでの知り合いに、インテリで金持ちの老婦人がいるんですが、彼女は『孫が日本のアニメ“ポケットモンスター”に夢中になっているけれど、あれほどショッキングなものはないわ』って言うんです」

宮崎哲弥
「ポケモンに?」

麻生太郎
「そう。なぜなら、ポケモンは一言もしゃべらない。『キュ』と『キュキュキュ』しか言わねえんだから(笑)」

宮崎哲弥
「ハッハッハッ(笑)」

麻生太郎
「いや、彼女が驚いたのは、ポケモンがしゃべらないにもかかわらず、コミュニケーションができる能力を持ってることなんだ。『初めに言葉ありき』のキリスト教社会にとって、これは驚天動地のキャラクターだというんだな。言葉がなくとも『ハート・トゥ・ハート』でコミュニケートできる文化をアメリカに紹介したのは、じつはポケモンだというわけ。
 アメリカは自己主張してナンボの社会です。日本人はあまりしゃべらないことから『何を考えてるのかわからない』と、不信感を抱かれがちだった。ところがポケモンを見た老婦人は納得した。『日本には、しゃべらなくても意思が通じるカルチャーがある』って(笑)。ポケモンをこんなふうに捉えるインテリもいるんだなあと思って、感心したね」

宮崎哲弥
「いい話ですね。任天堂はわかってるのかな(笑)」

麻生太郎
「逆に言えば、日本人ならちょっと言い難いと思うようなことでも、いざ話してみればちゃんとフェアに受け止めてくれるのがアメリカ社会の特徴でもある」

ペマ・ギャルポ=チベット人(2005年日本帰化)。1959年(昭和34年)、ダライ・ラマ14世の後を追い、インドへ亡命。1965年(昭和40年)、来日。亜細亜大学卒、上智大学大学院で学ぶ。ダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区初代代表、岐阜女子大教授などを経て現在、桐蔭横浜大学大学院教授。国際情勢コメンテーターとしてテレビ出演も多い。
「正論」2008年2月号「私の『大好きなこの国』はどこへ向かおうとしているのか」より

 その頃(昭和40年代)私達留学生の間に日本人に対する形容詞は、日本人は親切である、日本人は勤勉である、日本人は礼儀正しい、…などと言って日本人を誉めない人はいなかったと思う。

 しかし大阪の万博を境に日本は極端に変わってしまったような気がする。あの辺から私達留学生の中では、日本人はバナナになったと表現するようになった。つまり皮膚の色は我々アジア人と同じだが、日本人は何でも西洋の真似をし始め、髪の毛をわざと茶色く染め日本語で唱う時も外国人のような発音をしたり、何でも「本場アメリカでは」と言い始めた。更に1980年代になり、日本人は会社でも個人の家でも個室を増やし始めそれぞれが自分の世界にひきこもり、個性と個人主義を旗印に学校や職場ではユニフォームを嫌い始め、評論家達はユニフォームが個性を殺しているとか、口を開けば「個性と自由」という言葉をマントラのように唱え始めた。

〈中略〉何はともあれ、私が目撃した日本人の勤勉さと真面目さ謙虚さによって、日本は世界一安全な国、世界第二位の経済大国そして世界一位を争うほどの長寿国家にもなった。それは日本人のみならず他のアジアの国々にとっても大きな励ましとなり、日本は模範国家となった。アジアの国々にとって日本は理想郷に近く、マレーシアのマハティール首相を始め、アジアの指導者達は「ルック イースト」の政策とともに、日本を目標とし、日本から学ぼうと言うのが常識になった。私自身この日本に住み、日本人と関わることが出来たことを誇りに思った時だった。

 アジアの国々から見れば、西洋の技術や経済学などを押し付けられて反強制的に従わざるをえなかったことが多く、日本の明治維新以来行ってきた、自ら進んで西洋の知識や物質文化を導入し、消化して日本に相応しい部分を取りいれて成功したこととは異なる経緯があったからである。このようにして日本が、戦争に負けて国が廃墟と化した所からたった25年で国を再建、更に発展させたことに対し、敵も味方も大きな驚きを覚えたのである。

 その後、世界中で日本研究が盛んになり、ある人は日本の復興を奇跡と呼び、別の人はボーゲル先生のようにジャパン アズ ナンバーワンと称して日本の実績を称えると共に日本に対する警戒を促し始めた。そしてアメリカを始め諸大国は日本がかつて戦争で成し遂げなかったことを今度は経済でやり遂げようとしていると決めつけ、日本を弱体化する活動が展開された。日米貿易摩擦はまさに貿易戦争そのものであったと言える。戦争である以上勿論負傷者も発生している。以来日本は徐々に弱体化の道を辿りつつあるように私には感じられる。

 日本の敵は日本にいたのである。アメリカを筆頭に中国などに洗脳された日本人が、改革という名の下においてそれまで先祖代々受け継がれてきた伝統や価値観の破壊が始まった。これは中国の文化大革命ほど表向きには強烈な破壊的行為は無いが、受動的な手法で行った日本破壊は私は文化大革命に劣らないものがあったように思っている。


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 上で、アメリカ人であるフェノロサの明治25年時点での日本観を紹介しましたが、実はその後変化することになります。
 産経新聞朝刊文化面2007年12月2日「すてきなところへ」(45)『フェノロサと大津(上)』から引用します(上のフェノロサの言葉もこの記事からの引用です)。

 フェノロサは明治23年に帰国、同29年に再来日する。その間、日本は日清戦争に勝利していた。同32年、新聞のインタビュー「外人の眼に映ずる日本」で再来日後の日本観を披露した。《今回再び日本へ来遊して、非常な変化を見出しました。然かも其変化は悲しむべき変化であります》と始めて、こんな意のことをいっている。

 ——日本は欧米人のようにコマーシャルになった。金をもうけるのが唯一の目的となり、人々はただ自分の利益を求め、人から奪っている。欧米のぜいたく品を輸入して、肉を食べ洋酒を飲み、意味のない奢侈(しゃし)を極めている。科学の進歩はめざましく鉄道も電信も工業も発達したが、手段と目的を混同している。物質的なものは手段にすぎないのに、日本人はこの手段を目的とし理想としてしまっている——

 こうしたことがらは、フェノロサの時代だけにとどまるまい。最近の日本の世相にあてはまりそうな部分だってある。これらの文章は山口靜一編「フェノロサ社会論集」に収められている。

 作家の久我なつみさん(53)を京都に尋ねた。日本美術が米国の美術にどう影響していったかに関心を持って、フェノロサについても調べた。「フェノロサと魔女の町」などの著作がある。

 「日本人が日常の生活のすみずみまで美的感覚を生かそうとすることに、フェノロサは最初、非常に感動しました。たとえばお金がなくても野の花を楽しむことができる。ただお茶を飲むことでも、自然と感応する。ところが欧米化によってそういう日本の生活が金銭を得ること、産業主義・資本主義一辺倒になっていった。そのことにフェノロサは批判的でした

 「物質的なものは手段にすぎないのに、日本人はこの手段を目的とし理想としてしまっている」というフェノロサの主張にドキッとしたのは、おそらく私だけではないでしょう。
 
 明治の後半にはすでに日本は現在のような、物質主義的なものへの傾倒を見せていたのですね。やはり黒船来航は日本から大事なものを奪ってしまったのだなぁ、と。
 (もちろん、帝国主義のあの時代、日本が近代化することは絶対に必要だったのですが……)

 フェノロサという人を私はこの産経の記事で初めて知ったのですが、その後、いろいろ調べましたところ、日本美術に対して非常に大きな貢献をした人だということがわかりました。

 そのあたり、以下のサイトを参照しつつ、進めさせていただきます。

文芸ジャンキー・パラダイス>日本人よりも日本美術を愛した男 あの人の人生を知ろう〜フェノロサ

 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記しました。

 (同じようなことを、明治時代に訪日した他の多くの外国人も記しています。たとえばオーストリアの外交官ヒューブナーは、「この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっている」「ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ」と記しています)

 フェノロサの日本美術への傾倒は凄まじいものだったらしく、1880年(明治13年)に生まれた長男に「カノー」(“狩野派”は日本絵画史上最大の画派)と名付けたほどです。

 が、フェノロサは、日本人が日本美術を大切にしていないことにショックを受けることになります。
 明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝していたからです。日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていたのです。

 最悪だったのが寺院や仏像で、廃仏毀釈によって破壊されていることに強い衝撃を受けたフェノロサは、日本美術の保護に立ち上がりました。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁したそうです。

 また、滅亡寸前の日本画の復興を決意したフェノロサは、日本画家たちに覚醒を求める講演を行ないました。
 「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」
 西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はびっくり。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布したそうです。

 まさに「日本の恩人」ですね。もしもフェノロサがいなかったら、日本美術は果たしてどうなっていたことでしょう?


 ……というわけで、第6弾につづく……!?


※参考文献
・渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)
・産経新聞朝刊文化面2007年12月2日「すてきなところへ」(45)フェノロサと大津(上)
・「正論」2008年2月号「フォトギャラリー/ブラジル移民100年の絆 戦前編」
富山県神道青年会HP>外国人の見たニッポン
・ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(メディアファクトリー)
・「諸君!」2008年2月号 麻生太郎「『保守再生』はオレにまかせろ!」(聞き手:宮崎哲弥)
・「正論」2008年2月号 ペマ・ギャルポ「私の『大好きなこの国』はどこへ向かおうとしているのか」

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