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外国人から見た日本と日本人(3)

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 お待たせしました。外国人から見た日本と日本人の姿、第3弾です。
 有名なもの、さほど有名でないもの、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、各種取り混ぜております(敬称略)。
 今回はYoutube動画もご紹介!(^o^)
 
ヘンリー・ヒュースケン=オランダ人(アメリカ帰化)。駐日アメリカ総領事館の通訳として1856年(安政3年)に初代総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日。1861年1月14日(万延元年12月4日)、攘夷派の薩摩藩士に襲われ28歳で死去。
「日本日記」より
 1857年(安政4年)12月7日付の記述


 いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。

ローレンス・オリファント=イギリス人。旅行家。1858年(安政5年)、日英修好通商条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員。来日するまでにセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などを歴訪。1860年(万延元年)、水戸浪士の襲撃を受けたが、一命をとりとめ帰国した。
「エルギン卿遣日使節録」より
 使節団宿舎の芝西応寺における記述


 われわれの部屋には錠も鍵もなく、開放されていて、宿所の近辺に群がっている付添いの人たちは誰でも侵入できる。またわれわれは誰でもほしくなるようなイギリスの珍奇な品をいつも並べて置く。それでもいまだかつて、まったくとるにたらぬような品物さえ、何かがなくなったとこぼしたためしがない。

ニコライ・カサートキン=ロシア人。ロシア正教日本大主教。本名はイワン・ヂミートリエヴィチ・カサートキン。1861年(文久元年)6月に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。以後精力的に正教の布教に努めた。1869年(明治2年)、1879年(明治12年)に帰国した以外は日露戦争中を含め、日本を離れることはなかった。
「ニコライの見た幕末日本」より

 片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。……民衆について言うならば、日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国に比べてはるかに条件は良く、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これら諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだしく不満であったというのだ!

 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはその税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれも役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは碌でなしだ」と言っている。そして民衆はおしなべて、この国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。

 そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、夜毎、歓楽街は楽と踊りで賑わいにあふれている。これが、支配者の前に声なく平伏す東方的隷従だろうか。

アレキサンダー・F・V・ヒューブナー=オーストリア人。外交官。1871年(明治4年)来日。
「オーストリア外交官の明治維新」より

 この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。どんなにつつましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことができる。……ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。

ウィリアム・エリオット・グリフィス=アメリカ人。ラトガース大学で越前福井藩士の日下部太郎と出会い、その縁で日本に渡り、1870年(明治3年)から1874年(明治7年)まで福井藩校や東京の大学南校で教鞭を執った。
「明治日本体験記」より

 アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国に比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が、東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇されているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。
(中略)女性が纏足(てんそく)(*1)させられることはないし、中・下層階級の女性もアメリカなみにほとんど自由に出歩ける。

(*1 纏足とは、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習。辛亥革命以降急速に行われなくなった。中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた)

エミール・ギメ=フランス人。世界有数の東洋美術館として知られるパリのギメ博物館の創設者。1876年(明治9年)訪日。
「1876ボンジュールかながわ」より

 日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎ましやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう。

イザベラ・バード=イギリス人。当時の女性としては珍しい旅行家で、1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。
「日本奥地紀行」より
 山形の手ノ子という村の駅舎での話


 家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を煽いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い、何も受けとろうとしなかった。……それだけではなく、彼女らは一包みのお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私が受けとるよう言ってきかなかった。私は英国製のピンをいくつかしか彼らにやれないのが悲しかった。……私は彼らに、日本のことをおぼえているかぎりあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心うたれながら出発した。

エドウィン・アーノルド=イギリス人。詩人。1889年(明治22年)11月来日。インドのデカン大学の学長を務め、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。
来日した年に「東京クラブ」で行った講演より(※1)

 都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろこびを感じたか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、本当の善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした。

※アーノルドについては最後に渡辺京二氏の解説をつけました。あわせてご覧下さい。

エドウィン・アーノルド=イギリス人。詩人。1889年(明治22年)11月来日。インドのデカン大学の学長を務め、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。
「ヤポニカ(Japonica)」(1891年)より(※2)

 日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、「やかましい」人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである。

(中略)この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心——この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか。

(中略)生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している。

※アーノルドについては最後に渡辺京二氏の解説をつけました。あわせてご覧下さい。

チャールズ・リンドバーグ=アメリカ人。1927年、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。ナチスと親密になりすぎたとしてアメリカ陸軍航空隊での委任を解除され、第二次大戦では民間のコンサルタント会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。米豪軍による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に綴った。
「リンドバーグ第二次大戦日記」より
 1944年7月13日付の記述


 話が日本軍とわが軍が犯す残虐行為に及んだ。わが軍の一部兵士が日本人捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ残虐な蛮行をやっていることも容認された。
 わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。

 われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。
 事実、この点に関するわれわれの成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

アンドレ・マルロー=フランスの作家、冒険家、政治家。1936年、スペイン内乱が起こると義勇兵として共和国派に参加。第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。
会報「特攻」第8号より
 元リヨン大学客員教授で特別操縦見習士官だった長塚隆二氏が、昭和49年夏にパリ南方郊外にアンドレ・マルロー氏を訪れ、「特攻隊員に対する戦前・戦後の急激な評価の変化、その純粋な心を傷つける輩の態度に憤りを感じている」と話したことに対する、アンドレ・マルロー氏の言葉。


 日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕−リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
 戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。

 フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。

ガザリー・シャフェー=マレーシア人。元外相。アセアンを結成した功績により国連ハマーシェルド賞を受賞。アジアを代表する外交官。
「祖国と青年」1994年1月号より
 1993年(平成5年)に来日した際、「マレーシアの毅然たる外交姿勢に比較して、対米追従と批判されがちの日本外交の弱点はどこにあるのか」と問われて語った言葉


 日本では、敗戦国心理を子供のときから教えられているためか、日本は未だに敗戦国心理から復帰できていない。それを一番感じます。

 私たちアジアの者が不思議に思うことは、日本の首相が靖国神社に参拝しないことです。日本では毎年のように首相の靖国神社参拝が問題となり、そのたびに参拝を行わず「私たちは敗戦国民なんだ」といって、負け犬根性にしがみついているように見えるのです。

 しかし、亡くなった方はもう戦争をしたりはしない。ある意味では一番安全な人達なのだし、日本は先輩方になぜ敬意を払おうとしないのか。靖国神社に参拝しないことで自分たちを敗戦国心理に追い込んでいるように見えて残念でなりません。

 以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供たちに「日本は昔悪いことをした。これはその記念碑だ」と教えていたのを見ました。それで広島市長に「原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います」と言ったところ、広島市長たちは真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。

 それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほどおびえているのか。敗戦国心理から早く脱却するべきではないだろうか。

 日本は戦前のようにアジアのトップに立つのではなく、もっとアジアと話し合う日本であってほしい。お願いします。「平成の時代は青年の時代、興亜の時代なんですから」(日本語で話す)。

サイデマン・スリヨハデイブロジョ=インドネシア人。陸軍大学長、駐日大使、外務省上級大使などを歴任。
1995年5月29日、戦後50年を記念して日本武道館で開かれた「アジア共生の祭典」に、スハルト大統領特使として参列した際の言葉

 第二次世界大戦が終わりましてから、今年で五十年が過ぎました。この戦争は多大な悲しみと苦しみとそして大量の死と破壊をもたらしました。しかし、この戦争は何億人という世界の人々に対して新しい輝かしい世界への扉を開くことになりました。それは多くの人々が自由を獲得し、また独立を手にすることができるようになったからです。そしてインドネシアもインドネシア共和国という主権国家を打ち立てることができました。

 これらの植民地となっていた人々の中でも、特に若い人々が大きな犠牲を払い、また独立のために命を捧げました。そして、第二次世界大戦中、あるいはその直後に植民地に住んでいた人々だけではなく、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。

 私の国インドネシアをとりますと、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の若者たちがそのために命を犠牲にしてくれました。そこで、今日の式典におきまして私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらの若者たちを偲びたいと思います。

朴甲東(パク・カプトン)=韓国人。1919年(大正8年)、朝鮮慶尚南道生まれ、早大卒。朝鮮戦争後、北朝鮮へ入り、北朝鮮文化宣伝省ヨーロッパ部長に就任。1957年(昭和32年)、北朝鮮を脱出して日本へ。1992年、モスクワで朝鮮民主統一救国戦線(反金日成亡命政権)を結成、就任議長に就任。
「正論」2006年12月号【私が知っている東條英機の実像】より

 東條は昭和16年10月17日、大命を拝命し、敷かれた軌道に乗せられるようにして、12月8日、ついに対米、英戦争に突入したのです。
(中略)大東亜戦争の始まりは、日支事変、国際連盟脱退、日独伊3国同盟など、一連の流れの中で見ないといけません。決して、東條英機が首相になってからの昭和16年12月8日に始まったのではないのです。孫の由布子さんは、「戦争は長い歴史の中の1ページ。東條1人で濁流を押し戻そうとするのは無理だった」と話しています。
 私は、東條英機に戦争責任がないとはいいません。ただ、大東亜戦争のすべての責任を彼だけに背負わせるような論調や風潮がおかしいと思うだけです。

サティアブラタ・パール=インド人。1949年生まれ。英文学修士。1972年、インド外務省入省。現在は駐プレトリア(南アフリカ)インド高等弁務官。ラダビノード・パール博士の孫。
「正論」2006年12月号【孫が明かす東京裁判パール判事の気概】より

 私の祖母が危篤に陥ったため、ダドゥ(祖父)はカルカッタへ戻った(*1)。(中略)カルカッタで、彼は裁判のこと、日本人の境遇への同情、それに耐える不屈の精神に対する賞賛、そして、法が彼らの精神を破壊し、彼らの自尊心を奪い取るように堕落させられていることに対する憤りについて家族に話した。今や、ダドゥは真に日本と日本人を愛するようになったのである。

(中略)ダドゥの心は日本人のもとに注がれていた。なぜなら、彼らは二重の不正の犠牲者だからである。西側が準拠して戦ったという全ての戦争の法律に反して、日本国民は最も容赦のない爆撃の標的となり恐怖に陥れられ、最後には武器の法律に反して他の国の人々が経験したことのない−原子爆弾を広島と長崎に落とされたのである。彼らは無条件に降伏した(*2)。まるで町と同じように。彼らの自信も自尊心もぼろぼろであったが、それでも尚、十分ではなかったようである。彼らは野蛮人のように戦争を戦ったとされるリーダーの裁判を通して、儀式的に恥をかかされたのである。

 ダドゥにとっては、これは耐え難いものであった。東京の廃墟は彼を悲しませたが、彼の脳裏を離れなかったのは、2発の原子爆弾が落とされたことへの思いであった。彼の判決では核兵器の開発と使用の政治的、軍事的、法的、とりわけ倫理上の影響について再々繰り返している。1953年に彼の判決書をカルカッタで印刷してもらった時には、700ページにわたる濃密な法論議の中、驚くなかれ20ページの付録−2発の原子爆弾の犠牲者と生存者の写真が載っていたのである。これがダドゥの死んだ人への礼拝のやり方であり、生きている人の苦しみ、彼らになされた恐るべき不法行為、そして彼がそれを償うことが出来ないことに対する認め方なのである。

(中略)人間は西欧文明の中心でもあるが、西欧キリスト教社会においては、世界は神から与えられたもので、従って都合よく利用すべきものである。日本では、地域社会は幾世代にもわたって根気強く形作られ、それを理解し、守るべき義務とともに、先祖から伝えられた遺産なのである。日本が何故アジアの国で最初に西欧の産業文化を取り入れたかを知るのは容易であるが、第二次世界大戦までは、アジアの静寂主義と西欧の物質主義の間でサムライの刀の刃の上を歩いていた。ダドゥはこの見事なバランスに惹きつけられ、且つ魅せられたのである。

(*1 東京裁判が開かれていた約2年半の間、パール博士が判決書執筆を中断したのは、夫人危篤の知らせを受けて、急ぎ帰国した時だけであった。病床で夫人は「あなたは日本国の運命を裁く大事なお体です。どうか裁判が終わるまで私の事は構わないで…」と述べた)
(*2 第二次世界大戦の終戦時の日本については有条件降伏であったとする説もある。こちらを参照

相林(そう・りん)=中国人。1965年、山東省青島生まれ。山東鉱業大学在学中から民主化運動に参加。84年、東海大学に留学。以後、中国民主化運動の中心的存在に。98年に「中国民主化運動海外聯席会議」を発足、東アジア地域代表を兼任。
「諸君!」2005年7月号【靖国参拝をやめる必要はありません】より

 私は65年に青島で生まれ育ちましたが、当時は反日よりも、圧倒的に反ソ、反米でした。地域差もあるかもしれませんが、私の生まれた青島では反日よりもむしろ親日の人の方が多かった。

 というのは、青島のありとあらゆる工場は、日本人が作ったのも同然だったからです。日本人が作らなかったのは、ドイツ人が残した青島ビールくらいでしょう(笑)。私の母が働いていた紡績工場も日本人が作ったものでした。そのうえ青島はずっと日本の統治下にあって、戦争にならなかった。

 当時の中国人にしてみれば、それ以前に占領していたドイツ人よりも、日本人のほうが受け入れやすかったと思います。

相林(そう・りん)=中国人。1965年、山東省青島生まれ。山東鉱業大学在学中から民主化運動に参加。84年、東海大学に留学。以後、中国民主化運動の中心的存在に。98年に「中国民主化運動海外聯席会議」を発足、東アジア地域代表を兼任。
「正論」2005年8月号より

 実は日本に来るまで、靖国神社は「戦後、A級戦犯を祀る目的で作られた軍国主義賛美の施設だ」と教えられてきました。ところが、実際に来てみると、明治維新で亡くなられた方をはじめとする国のための戦没者を祀っていることを知り、驚きました。

 私たち中国民主化運動に携わる者にとって、明治維新とは中国革命のモデルであり、維新の志士たちは尊敬の対象です。中国人からみれば、日露戦争はロシアの侵略から中国を守る戦いでした。ですから、私たちが尊敬する人々、そして中国を救ってくれた恩人が祀られているところ、それが靖国神社だとわかったのです。

 そこで、日本に来る中国民主化運動の同志たちを、私はたびたび靖国神社に連れてきます。そして、靖国神社は私たち民主化運動の恩人たちが祀られているところだと説明すると、みなびっくりして、丁重にお参りします。

リタ・ゴーン=レバノン人。フランス国籍。日産自動車社長カルロス・ゴーン夫人。
 リシャール・コラス=フランス人。シャネル株式会社(東京)社長。
「文藝春秋」2006年9月号【ゴーン夫人とシャネル社長 ゴーン家の「夫操縦法」教えます】より

ゴーン
「(十七歳で日本に一人旅をしたというコラスに対し)どうしてまた、地球の反対側の日本を旅先に選んだのですか」

コラス
「本当はアマゾンに写真を撮りに行く予定だったのがダメになって、エールフランスの機長をしていた父に『日本は素晴らしい国だから行ってみれば』と勧められたんです。父の日本土産の根付とその包装紙に使われていた浮世絵が家にあって、昔からキレイだなと憧れてもいたんですね。それに、日本に行けば夢にまで見たニコンのカメラを安く買えるかもしれない、と(笑)」

ゴーン
「三十五年前の日本には、まだ外国人も少なかったでしょう」

コラス
「でも、あの頃の日本人は、英語は話せなくても心をこめて迎えてくれました。僕はあのとき、自分が“ガイジン”だという思いをした記憶がまったくない。出会う人、出会う人がみんな親切で『泊まる場所が決まってないなら、うちにおいで』『どこかに連れていってやろう』と言ってくれる。四十日間の旅で、ひと晩ユースホステルに泊まった以外は全部、日本の民家に泊めていただきました。夜行バスの後ろの席に座っていた青年に誘われて、彼の故郷の瀬戸内で盆踊りしたこともあった」

ゴーン
「その精神はいまも変わりませんよ。『日本人は閉鎖的で外国人に冷たい』とよく日本人自身も言いますけれど、私は声を大にして反論したい。日本人こそ本当の意味でオープンな人々です。海外では、話し相手の発音やイントネーションが違うだけで『分かろうともしない、聞こうともしない』人々をたくさん見てきましたが、日本では、日本語の出来ない私が何か伝えようとしても、皆さん一生懸命『分かろう』としてくれます。日本人ほど一生懸命、人の話を聞こうとする人々はいません

コラス
日本人の深い理解力、洞察力は、世界中を見渡してもほかにない美点ですよね。いま鎌倉に建設中の新居に、純日本風の離れを造っているんですが、日本の大工さんというのは職人であるとともにアーティストなんです。木材を選ぶのにも『この樹齢七百年の木の声を聴くんですよ』とおっしゃる。私は彼と話すたびに、その森羅万象に耳をすまし、理解しようとする態度に、日本文化の厚みを感じるんです。この深い理解力は、日本企業のビジネスマンの中にも生きているのではないでしょうか」


■外国人から見た日本と日本人〜動画編(Youtubeより)

映像の世紀 JAPAN 〜世界がみた明治・大正・昭和〜 1 of 8
 8まであります。NHK「映像の世紀」最終回。海外に伝えられた日本の姿。

日本の武士道1 Japanese BUSIDO saved lives
 3まであります。フジ系「奇跡体験!アンビリバボー」4月19日放送分より、『戦場のラストサムライ』と題された特集。第二次大戦時、敵の攻撃によって海に放り出されたイギリス海軍兵442名を救った工藤俊作少佐の実話。

アジアの人は日本人をどう思ってるの?
 東アジア、東南アジアにおける日本に対しての好感度調査を集めたもの。

日本人以上に日本を大切にしている台湾の人たち
 フジ系「あいのり」8月13日放送分より。日本の統治時代を知る台湾人女性の言葉。


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 1860〜61年あたりの元号変換、ちょっとあやふやです。今回初めて知ったのですが、「万延」って1年にも満たない期間だったんですね。
 Wikipediaにはこうあります。

・安政7年3月18日(グレゴリオ暦1860年4月8日) 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため改元
・万延2年2月19日(グレゴリオ暦1861年3月29日) 文久に改元

なお、この改元の際に朝廷や幕府の一部には翌年は辛酉革命による改元の年(かつ当時の慣習で辛酉改元は2月に行われる事になっていた)なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。


 さて、前回同様、幕末、明治の文献については、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」を全面的に参考にさせていただきました。

 その中から、イギリスの詩人エドウィン・アーノルドの発言及び記述について、渡辺氏の解説を紹介しておきます。

 アーノルドは日本人の「礼節」を賞讃していますが、当時の欧米の観察者の眼につねに賞讃すべきものとして映ったわけではありません。

 たとえば、1859年(安政6年)に江戸に来航した東シベリア総督ムラヴィヨフ一行に同行した医師ヴィシェスラフツォフは、このような日本人独特の如才なさ、立居振舞いのエスプリなるものが「この国に遠い昔からかけられてきた軛(くびき)の名残り」であり、「国民の精神力の最良の部分を吸いつくしてしまった過去の全歴史に圧迫され、強制されて形成されたもの」だと、批判的見解を示しています。

 が、アーノルドは、観察者に深い驚きを与えた日本人の礼儀正しさが、彼らがこぞって認めた当時の人々の特性(無邪気で明朗、人がよく親切)のまさに要めに位置する徳目だということを明瞭に認識していた、と渡辺氏は指摘します。

 「東京クラブ」での講演におけるアーノルドの言葉(※1で引用済)——

 都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろこびを感じたか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、本当の善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした。

 ——について、渡辺氏はこのように論評します。

 「東京クラブでこう語ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである」

 アーノルドが来日したのは1889年(明治22年)11月。この講演は同じ年に行われたそうなので、ほとんど来日直後に彼は本質を見抜いていたということになりますね。

 渡辺氏は「いまこそわれわれは彼が次のように述べた訳が理解できるだろう」と前置きした上で、「ヤポニカ」におけるアーノルドのこんな記述を引用しています。

 国民についていうなら、『この国はわが魂のよろこびだ』という高潔なフランシスコ・シャヴィエルの感触と私は一致するし、今後も常にそうであるだろう。都会や町や村のあらゆる階層の日本人のあいだですごした時ほど、私の日々が幸福かつ静澄で、生き生きとしていたことはない。

 アーノルドは来日後、麻布に家を借りて娘と住み、1891年(明治24年)に日本を離れました。その後、1897年(明治30年)に日本人女性と結婚したそうです。

 渡辺氏はこの項をこう締めくくっています。

 「日本讃美者にありがちな幻滅が晩年の彼を襲ったかどうか私は知らない。しかしそれはどうだって構わないことだ。私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表れていたのは、故なきことではなかったのである」

 アーノルドが日本に存在すると感じた「礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約」「生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意」(※2で引用済)といったものは、渡辺氏も示唆しているように、残念ながら現代日本ではすっかり廃れてしまったように見えますね(T^T) 

 ……というわけで、第4弾につづく……!?


※参考文献
・渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)
美須麻流之珠>皇軍の戦史>東京裁判 各国要人言論集
神風>外国人から見た"KAMIKAZE">アンドレ・ マルローの言葉
みんなで靖国神社に参拝する国民の会>05/7/5付:マレーシアのガザリー元外相の靖国参拝支持論
日本会議>「追悼・感謝・友好−アジア共生の祭典」 が開催 ─ 各界の声

※拙ブログ関連エントリー
05/12/5付:憂国フラッシュリンク集
06/10/8付:【アンケート】「生まれ変わっても日本人になりたい?」結果と全コメント
07/8/24付:日印関係で朝日の露骨な社説&パール判事について
07/10/16付:外国人から見た日本と日本人(1)
07/10/23付:外国人から見た日本と日本人(2)


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「お気楽くっくり」更新済

 北京市民向けの五輪知識問題(国際常識編)に夫がチャレンジしました。


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「河野談話」の白紙撤回を求める署名
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指紋押捺にキレた有道出人が出所不明な反日ヘイトサイトを宣伝中。日本人は変態で汚くてファシストだと訴える幼稚な差別サイトを人々にお薦めするのは人権活動なのか?この人は反差別といいながら自分が差別したい人種に対しては平気で差別を煽っているようにしか見えない。
2007/11/27(火) 09:04:37 | 世の中を生暖かく見守るブログ

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