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沖縄戦集団自決問題まとめ(1)

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 沖縄集団自決出版差し止め訴訟の口頭弁論が今日(11月9日)大阪地裁で行われ、被告の大江健三郎氏が初めて出廷しました。
 大江氏は「軍の命令があったと考えている」と証言し、「(著書「沖縄ノート」の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べました。

軍強制記述「訂正必要ない」=大江氏、原告側に反論−集団自決訴訟・大阪地裁(時事11/9)
 太平洋戦争末期に沖縄県・慶良間列島で起きた住民の集団自決が軍命による強制だったとした本の記述は虚偽として、守備隊長だった元陸軍少佐らが、著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と発行元「岩波書店」を相手に出版差し止めと損害賠償などを求めた訴訟の口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)で開かれた。午後は大江氏本人が出廷し、「命令があったという確信は強くなっている。記述の訂正は必要ない」と述べた。
 出廷した大江氏は紺のスーツに青のネクタイ姿。幾分上気した表情で同氏側弁護士の質問に「集団自決は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍−(沖縄駐留の)第32軍−守備隊という、縦の構造の力が島民に強制した」と強調。「著書の沖縄ノートでも軍の命令と記述し、個人名は書かなかった」と述べた。

「軍命令あったと考える」 集団自決訴訟で大江さん(中日11/9)
 太平洋戦争末期の沖縄戦で、軍指揮官が「集団自決」を命じたとする本の記述をめぐる訴訟は9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)で引き続き口頭弁論があり、「沖縄ノート」の著者で被告の作家大江健三郎さん(72)が出廷。慶良間諸島の座間味、渡嘉敷両島での集団自決について「軍の命令だったと考えている」と証言した。
 ノーベル賞作家が自らの著作に関して法廷で証言するのは極めて異例で、歴史教科書の記述をめぐる問題とも絡み、内容が注目されていた。裁判は次回口頭弁論の12月21日に結審、来春にも判決の見通し。
 大江さんは、証言に先立ち陳述書を提出。この中で「集団自決は戦争下の国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で島民に強制された。命令書があるかないかというレベルのものではない」との考えを示した。
(共同)

 主なやりとりは以下をご覧下さい。

【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」(産経11/9)
【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」(産経11/9)

 やっぱりね。こういう抽象論を言い出すんじゃないかと思ってました。
 「隊長命令があったのか、なかったか」が争点なのに。
 慰安婦問題の「広義の強制」すり換えと全く同じパターンですね。

 「集団自決は隊長個人の資質や選択ではない」「沖縄ノートでも軍の命令と記述している」と隊長命令はなかったと認めつつ、「戦争下の国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で島民に強制された」「命令書があるかないかというレベルのものではない」——。

 要するに、命令とかじゃなくて当時の日本の空気はそんなものだったんだよと、大江氏自身も認めたということじゃないですか。

 しかし、ノーベル賞作家が出廷したわりには、テレビの扱いは小さかったように思います。
 「報ステ」は番組の最後にわずかに伝えただけで古舘氏のコメントはなしでしたし、「NEWS23」にいたっては完全スルーでした(と思います。間違ってたら教えて下さい)。
 「これはさすがにまずいよ大江さん……」ってことでスルーしたのかしら?

 沖縄戦集団自決「軍命令」問題、それにまつわる教科書検定問題や出版差し止め訴訟。
 拙ブログの読者皆さんには釈迦に説法だと思いますが、とりあえずまとめてみました。
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◆問題の発端

 問題の発端は1950年(昭和25年)、沖縄タイムス編著で朝日新聞社から出版された【沖縄戦記 鉄の暴風】(以下【鉄の暴風】と記す)。これが「集団自決」は軍の「命令」によるものだとする説の起源です。

 【鉄の暴風】の記述が、1970年(昭和45年)に岩波書店から発行された大江健三郎氏【沖縄ノート】などに孫引きされ、渡嘉敷島では赤松嘉次大尉(故人)、座間味島では梅澤裕少佐が、住民に手榴弾を渡して「集団自決」を強要したと、世間に広く流布されることになりました。

 【沖縄ノート】には、赤松・梅澤両氏の実名は挙げられていませんが、特定するに十分な記述があり、赤松氏を「ペテン」呼ばわりしたのみならず、ホロコーストを主導したナチスの「アイヒマン」になぞらえ人格非難、「公開処刑がふさわしい」とまで罵倒しています。


◆渡嘉敷島

 ところが1973年(昭和48年)、軍による「集団自決」強要の事実は無かったことを裏付ける証言が出ます。
 曾野綾子氏が現地取材をしてまとめた【ある神話の背景】(文藝春秋社発行。後に【沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実】と改題、改訂されワック出版より発行)です。

 曾野氏は特別な調査ではなく、ただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げました。本土では赤松氏にも会いました。渡嘉敷の島民たちにも多数会いました。
 そして沖縄タイムスの記者も、大江健三郎氏も、一度も現地に取材に行ったことがない事実が判明しました。
 (出版差し止め訴訟における07年11月9日の口頭弁論においても、大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」と述べ、現地取材をしていないことを認めています(産経11/9))

 曾野氏が取材した当時、渡嘉敷島で「集団自決」を知る村の関係者は存命で、赤松氏も隊員も存命でしたが、その誰からも「命令」の事実は出てきませんでした。

 【鉄の暴風】には、地下壕で将校会議なるものが行われ、そこで「自決命令」を決めたという場面がいきいきと描かれています。
 が、曾野氏の取材に対し、赤松大尉の副官だった知念睦元少尉は、地下壕や将校会議の存在を否定しました。
 曾野氏は「神話として【鉄の暴風】に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない」と痛烈に批判しています。

 また【鉄の暴風】には、「自決命令」で死んだのが329人だったという記述がありますが、これについても知念氏は、【沖縄県史 第4巻 各論編9】(1974年)で、「私が見た自決遺体は6、7体でした。(中略)赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。(中略)集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません」と証言しています。

 実は渡嘉敷島には赤松隊長の小さい顕彰碑があります。当初、立派なものを作ろうと計画したのですが、左翼勢力が騒ぐとの理由で、誰にも分からない場所に隠匿しています。そして、今でも毎年、遺族会などの人たちの手で赤松隊長の慰霊祭を秘かに続けているのだそうです。


◆座間味島

 一方、座間味島ですが、梅澤裕少佐が「自決命令」を出したとする資料は【鉄の暴風】の他にいくつかあり、【沖縄県史 第10巻 沖縄戦記録2 座間味村】(1974年)には、梅澤隊長の命令で300名弱が集団自決したと記録され、この説が定説化しました。

 ところがこれも1985年(昭和60年)、神戸新聞が関係者に取材したところ、「日本軍の命令はなかった」との証言が得られ、その記事は7月30日付に掲載されました。
 同紙はさらに86年、87年にも続報を報じました。

 1987年(昭和62年)には東京新聞も、「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言 補償得やすくするため」と報じました(「補償」=「遺族年金」については後述)。

 1986年(昭和61年)発行の梅澤氏自身の手記【戦斗記録】によれば、座間味島で現実に起きた事件は次のようなものでした。

 1945年(昭和20年)3月25日の22時頃、部隊の本部壕に村幹部5人が来訪、「軍の足手まといにならず、また食糧を残すために、自分たちは自決する」という申し出を受けた。梅澤隊長は愕然とし、「決して自決するな。生き延びて下さい。共に頑張りましょう」と説得して帰した。ところが、翌26日から3日位にわたって村民たちは次々に悲惨な最期を遂げてしまった——。

 当時、梅澤隊長のもとへ訪れた村幹部5人のうちの1人、宮城初枝氏(当時、女子青年団長)も「梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、(自決のための)武器提供を断った」と、同様の証言をしています。
 この証言は、梅澤氏が手記を出す前年の1985年(昭和60年)7月30日付神戸新聞に掲載されました。


◆沖縄県民はよく戦った

 沖縄の住民も軍にはよく協力し、有名な鉄血勤王隊、ひめゆり隊などができました。
 だからこそ、海軍部隊司令官の大田実少将は海軍次官宛に「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な電報を打ち、自決したのです。

 沖縄戦で「ひめゆり学徒」として散華した二人の娘、金城貞子さんと信子さんに宛てた母ふみ子さんの手記に、このようなくだりがあります(ふみ子さんの夫は慰霊塔「ひめゆりの塔」を建てた故・金城和信氏)。

 「昭和十九年の夏頃から、貞子たちは軍の陣地構築作業に出かけていましたが、その十月に那覇大空襲があってからは、事態は刻々悪化して、昭和二十年に入ると、敵の上陸は必至となりました。そんなある日、本当に嬉しそうに学校から帰ってきた貞子は、『お母さん、今日学校で従軍看護婦として教育を受ける者の人選が行われ、四年生のほとんど全員受けることになりましたが、三年生は各級から体格の良いものを十名づつと言うので、みんな何とかしてその中に入りたいと、それはそれは大変でしたのよ。でも貞子は首尾よくその十名の中に入れたのよ』。貞子は、嬉しさに目を輝かせながら私にそう言い、よかった、よかったと何回もくり返しておりました」

 「信子たちは、『私たちの卒業証書は靖国神社の入場券である』とよく言っていました。また『靖国の宮に御霊は鎮まるも、おりおり帰れ母の夢路に』という歌をよく口ずさんでいましたが、何故かいまでも九段の社から信子が私に呼びかけている気がします」


◆理由は「遺族年金」

 集団自決に「軍命令があった」とする嘘は、なぜ生まれたのか。また、遺族や関係者はなぜ長い間、真実を胸の奥にしまい込んできたのか。その理由は「遺族年金」にありました。

 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は、軍人や軍属を対象にしており、一般住民は適用外となっているため、「勝手に」死んだ住民の遺族には補償が下りません。
 そこで、集団自決した住民は「軍命令」で行動していたことにして、「戦闘協力者」すなわち「準軍属」扱いとしたのです。これにより、遺族に年金が支給されるようになりました。

 梅澤氏は「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用できるようにするために、島の長老達から『軍命令だった』と証言するように頼まれ、それに従った」と証言しています。

 また前出の宮城初枝氏の手記を元にした【母の遺したもの】が、2000年に娘の宮城晴美氏によって出版されましたが、その中で宮城初枝氏も、「厚生省の職員が年金受給者を調査するため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(初枝氏)は、島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、(本当は命令はなかったが)命令があったと証言した」と告白しています。

 1987年(昭和62年)には、戦後、座間味島の村役場で遺族補償業務に従事した宮村幸延氏がこのような証言をしています。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法は戦傷者や戦没者が当時14歳以上でなければ適用されないが*1、座間味の集団自決は乳幼児にまで及んでいるため、宮村幸延氏は適用を拡大してもらうため、自費で3回も上京して厚生省と折衝したが拒否された。
 このとき厚生省側から「軍命令があったのならね」と示唆されたため、村に戻って審議した結果、軍命令で処理する方針が決まった——。

*1 軍人・軍属に加えて、戦闘に参加した傷病者にも援護法が適用されます。実際、沖縄では軍のために住民が飛行場建設、道路整備、防衛隊参加、道案内、食事・宿舎の提供などで協力したため(前出の「軍の陣地構築作業」に参加した金城貞子さん信子さん姉妹もそうですね)、14歳以上の者を対象としたようです。集団自決については、戦闘参加者と違って、1962年(昭和37年)以降は0歳の乳幼児も対象になっているとのことです。

 また宮村幸延氏は、「集団自決は梅澤隊長の命令ではなく、兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀氏の命令で行われた」とし、「宮村幸延が遺族補償のためやむをえず隊長命令として申請した」ことを証した親書を梅澤氏に手渡しています。*2
 (宮里盛秀氏は宮村幸延氏の実兄で、1945年(昭和20年)3月25日に梅澤隊長のもとへ訪れた村幹部5人のうちの1人です)

*2 梅澤氏は「軍命令はなかった」という証文を取るために、宮村幸延氏に泡盛を飲ませて泥酔状態に陥れた旨、宮城晴美氏は【母の遺したもの】に記述していますが、梅澤氏本人は2005年4月、「泡盛など飲んでない。ビールは少々飲んでいたが、あれは宮村氏が自分で書いて印を押したのである」と証言しています。

 1987年(昭和62年)4月18日付神戸新聞は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しを上げ、宮村幸延氏の「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」という苦しい胸のうちを吐露するコメントを掲載しました。

 渡嘉敷島でも同様の証言があります。

 戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務を担当していた照屋昇雄氏が、遺族年金を受給するために、赤松大尉に同意を得た上で、赤松大尉が自決命令を出したことにして、自ら公式書類等を偽造したと、2006年に証言しました。

 照屋氏は当時、島民100人以上から話を聞いたそうですが、集団自決が軍の命令だと言った住民は「1人もいなかった。断言する」と証言しています。

 照屋氏はさらに「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」「金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」「(このことを)住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」と話しています(拙エントリー06/8/28付に引用した産経新聞記事を参照)。

 つまり梅澤・赤松両氏は、戦後の村民の困窮を見かねて「悲しい嘘」に協力したのです。重い十字架を背負われたのです。
 そして遺族や関係者も、この話が公になれば遺族補償の資格を失うかもしれないので、長年にわたって口を閉ざしてきたというわけです。

 このように、「軍命令」があったとするよう証言を頼まれたり、実際に偽造書類を作成した人たちが、良心の呵責に耐えかねて真実を告白しているのです。
 ですから、この問題はここで終わりになるはずなのです。
 ところが、終わらないのです。


◆集団自決出版差し止め訴訟

 大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、【沖縄ノート】の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いているのです。
 そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こしたのです。*3

*3 【母の遺したもの】は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずですが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷しました。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言しました。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めました。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどでした。

 梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、軍の一定程度の影響は認めたものの、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定しました。また、梅澤氏はこう言っているそうです。「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」産経11/9産経iza11/9本人尋問詳報はこちら)。

 同日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷しました。が、「軍命令はあったと考えている」「(【沖縄ノート】の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えたのは、冒頭で述べた通りです。


◆なぜ「集団自決」が起こったのか

 そもそもなぜ「集団自決」が起こったのか。

 1945年(昭和20年)2月末、17歳で座間味島の戦隊本部付きの伝令として徴用された宮平敏勝氏は自由主義史観研究会の取材に対し、次のように証言しています。

 「(住民の意識は)戦闘が始まる前から、誰といわず、死を決意していた。そういう空気だった」「特に兵事係(村長・助役・収入役の次のポストで、強い権限を持つ)が強硬派で、『自決すべし』であった」「世間では集団自決と言うが、それぞれの壕で家族が『無理心中』的に自決したのが実相。役場から忠魂碑前に集まれとの集合がかかったけれども、艦砲射撃で皆ちりぢりになってしまった。それで各壕の各家族で自決した」「自決したのは他と孤立した所にある壕の家族に多かった。情報が入ってこなかったから」「住民は『どうせ死ぬなら島で死にたい』という思いがたいへん強く、疎開はしなかった」「自決はあくまで『役場主導』だった」「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」

 渡嘉敷島でも、民俗資料館館長の金城武徳氏が、同じく自由主義史観研究会の取材に対し、「赤松隊長は絶対に自決を命じていない。自決の音頭をとったのは村長のほか、村の指導者たちだった」とし、軍ではなく役場主導だったと証言しています。

 金城武徳氏は、NPO法人さいたま国民を守る会長で「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」の顧問でもある皆本義博氏に対しても、「手榴弾が不発で生き残ったため、軍のところへ行き、機関銃で撃ち殺してもらおうと思ったのだが、かえって怒られてしまった。『軍人が戦って死ぬのであって、なんでこんな早まったことをしたのか。生きられるだけ生きるのが住民じゃないか』と。しかし、(戦後の)マスコミやなにかは言いたい放題で、(集団自決は)軍の命令だったと言う。そうではないんです」と証言しています。

 皆本義博氏は、陸軍海上挺第三戦隊第三中隊長として特攻の指揮を執り、沖縄で終戦を迎えた人ですが、渡嘉敷島で5年ごとに行われる慰霊祭に行くと、当時の防衛隊(村民による組織。後述)の方々から大歓迎を受け、一晩中、涙ながらに軍歌を歌って過ごすそうです。
 もし集団自決が軍の命令で、住民が軍人を怨んでいるならば、こんな歓迎を受けるはずもありません。
 (この慰霊祭にはかつてNHKも取材に訪れ、慰霊祭の模様、その後の村の小学校の体育館での歓迎の宴の様子などが、ローカル局で放送された後、全国放送もされたそうです)


◆極限状況と「防衛隊」

 今、私たちは平和な時代に生きており、現在の価値観で物事を考えてしまいがちです。が、当時の人々の価値観や置かれていた状況にも思いを馳せねば、真実は見えてきません。
 一言で言って、当時の村民は極限状況に置かれていました。

・戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務を担当していた照屋昇雄氏の証言
 ※2006年8月27日付産経新聞記事より(拙エントリー06/8/28付に全文あり)。
 民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。
 座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった。

・赤松隊長と村民との間の連絡役をしていた安里(改姓後・比嘉)喜順巡査の証言
 ※曾野綾子氏「ある神話の背景」より。聞き手は曾野氏。
「村の主だった方はあの狭い沢の中で死ぬということについて相談をなさったんですか」
「はい、その人たちは、もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、もうこれは当然、捕虜になるよりは死んだ方がましということになって、日本人だという精神じゃっていって、やむを得なかったですね。ことに離島であって、離島になればなるほど、そういう精神が鞏固ですよ。私はあく迄生きるために来たんだから、しいてあれなら、アメリカ兵が来て、一人でも会って戦闘でもして(から死のうと思ったのです)、部隊がもう最後という時に、一人は部隊の連絡に出た筈ですよ。その時に、敵の手榴弾、艦砲と共に手榴弾投げた音があったですよ。それをもう友軍の最後だ、斬り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ
「重大決定をなさろうとしていらした時はどういう方々がいらっしゃいましたか」
「自決する時ですか」
「はい」
村長とか防衛隊の何人か、役場関係の人もおったと思いますが」
「それで、どうしても死ぬということに…」
「ええ、どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて……わしはどうしても死ぬ前にアメリカに対抗してでなけれは死ぬ気なかったです。それだけははっきりしてます」
「それから」
「連絡員を部隊に出しました。その時に突然、友軍とアメリカ軍の射撃があったわけですが、それをもう部落の人は、友軍の最後の総攻撃だと思い違いしてですね、ひどかったもんですからね。死にたい死にたいということで……

 集団自決で亡くなった方々は軍から命令されて亡くなったのではありません。
 米軍の辱めを受けるくらいなら家族と一緒に死ぬ方がマシだという「私」の心と、それが後顧の憂いなく兵隊さんに戦ってもらうためになる、国のためだ、日本人として死のうという「公」の心が交差した一点で、死を決意したと言えるのではないでしょうか。

 ではなぜ村民は手榴弾を持っていたのか?「日本軍が配ったからだ」という反論がよくされますが、ここにはトリックが隠されています。

 ここまでの文章の中で、「防衛隊」という言葉が何度か登場していることに気づかれた方も多いでしょう。

 徴兵制度が遅れた沖縄では、村民が「防衛隊」なるものを編成していました。
 1944年(昭和19年)7月、帝国在郷軍人会沖縄支部が市町村の集落単位で参加者を募り中隊を組織したものです。

 法令的な根拠はなく、住民が結成した義勇隊あるいは自警団という性格のもので、村長・助役や村の兵事係などのうち中国大陸で応召経験のある人々などが隊長を務め、行政と一体化していました。

 (集団自決出版差し止め訴訟の被告側の準備書面を見ると、「軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役」「日本軍の正規兵である防衛隊員」などといった言葉が出てきますが、これは誤った認識です)

 武器は支給されず、米軍の上陸が予想される時期、いざという時のためにということで手榴弾が支給された程度です。
 手榴弾は村役場を経由して配られたもので、結果的にこれが集団自決に使われることになったのです。

 つまり手榴弾は、日本軍→村役場→防衛隊(民間組織)→住民というルートで配られたのです。

・徳平秀雄郵便局長(村の有力者の一人)の証言
 ※「沖縄県史」第10巻より
 恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。
 そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。
 防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。
 思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決と決まると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。
 そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。

 このように、集団自決を決定したのは日本軍ではなく、村の有力者たちと防衛隊員であり、彼らの協議によって決断されたことだったのです。

 防衛隊=日本軍ではないということは、実は当時の住民の中にもきちんと区別できていた人、できていなかった人に分かれているようです。当時まだ幼かった場合は特に区別できていなかった傾向が強いのではないでしょうか。

 したがって、テレビや新聞などで見かける証言者の中には、現在もその区別ができずに「軍から手榴弾をもらった」旨、言っている人もいるようです。

 あるいは、軍と防衛隊の区別ができた上で証言をしているにもかかわらず、マスコミ側が「証言者は軍からもらったと語った」というふうに、勝手にキャプションやナレーションを付けているケースも少なくないと思われます。

 たとえば、2007年6月21日に放映されたNHK【クローズアップ現代】の「『集団自決62年目の証言−沖縄からの報告』」では、座間味島について次のような場面がありました。

ナレーション
「集まったお年寄りからは日本軍の兵士によって集団自決に追い込まれていった当時の状況が語られました」
宮城恒彦氏
「あの、軍が持ってきたわけ?手榴弾は」
女性の証言者
「…そうじゃない。うちなんか、あっちから逃げている時に兵隊さんが『捕虜になってはいけないよ。これで死になさい』と言って、くれたよ。これをそのまま…」
宮城恒彦氏
「軍が『死になさい』と言って、くれたと?」
女性の証言者
兵隊さんが

※宮城恒彦氏は元教師で座間味島教育委員会の調査を担当した人物として紹介されています。

 「軍」と言っているのはナレーションと宮城恒彦氏であり、証言者は「軍が持ってきたわけ?」と聞かれて、「そうじゃない」と否定し、「兵隊さん」だと答えています。宮城氏が再度「軍が」と質問しているのに対し、やはり「兵隊さんが」と答えて、同じやりとりが再現されています。つまり、証言者の言う「兵隊さん」とは防衛隊員を指していると思われます。

 が、他の証言者の中には日本軍と防衛隊の区別ができていない人もいるわけで、要するに、マスコミはこういう全体としての事情をよく知っていながら、確信犯的に証言者の錯覚・混乱を利用していると言えるのです。

 このように、もうずいぶんと前から「軍による自決命令はなかった」「軍が自決を強制したのではない」ということが明らかになってきており、裁判でも真実が明らかにされつつあるというのが現在の状況です。

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沖縄戦集団自決問題まとめ(2)に続きます。


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 旧日本軍の梅沢さんたち人が、作家の大江健三郎さんと岩波書店に、大江さんの著書「沖縄ノート」などの出版差し止めや損害賠償を求めた訴訟の第11回口頭弁論が9日、大阪地裁で開かれ、原告、被告双方の本人尋問があったと言うニュースの中で、大江さんの証言が気になっ
2007/11/11(日) 16:30:14 | 無党派日本人の本音

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