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外国人から見た日本と日本人(2)

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 外国人から見た日本と日本人の姿、第2弾。
 有名なもの、さほど有名でないもの、戦争に関連するもの、関連しないもの、新しいもの、古いもの、今回も各種取り混ぜております(敬称略)。
 
ファン・オーフルメール・フィッセル=オランダ人。1820年(文政3年)〜1829年(文政12年)、長崎・出島のオランダ商館に勤務。ヤン・コック・ブロンホフ、フランツ・フォン・シーボルトの二人に仕え、江戸参府にも随行。
「日本風俗備考・1」より

 日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。

(中略)自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。

(中略)日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。

ローレンス・オリファント=イギリス人。旅行家。1858年(安政5年)、日英修好通商条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員。来日するまでにセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などを歴訪した。1860年(万延元年)、水戸浪士の襲撃を受けたが、一命をとりとめ帰国した。
「エルギン卿遣日使節録」より
 上海を出発し、長崎に上陸した後の記述


 われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照がきわめて著しく(*1)、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らのひきおこした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせるいやな連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた。一日のあらゆる瞬間が何かしら注目に値する新しい事実をもたらした。

(*1 オリファントは日本訪問を終えたのちに書いた母親への手紙で、「私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んででかけます」と記している)

ルドルフ・リンダウ=プロシャ人。スイス通商調査団の団長として1859年(安政6年)初来日、1864年(文久4年)にはスイスの駐日領事をつとめた。
「スイス領事の見た幕末日本」より
 長崎近郊の農村での記述


 いつも農夫達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。……最も大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると……「大変有り難う」と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれ迄見送ってくれて、殆んど見えなくなってもまだ、「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞こえるのであった。

ロバート・フォーチュン=イギリス人(スコットランド出身)。植物学者。北東アジアの植物に興味を持ち、中国で植物を集めるために派遣される。その後、1860年(万延元年)に来日。
「江戸と北京」より
 江戸西南郊へ遠乗りに出かけた時の記述


 この時われわれが通ったような魅惑的な道に、私は他の国々を遊歩した際に出会ったことはなかった。それは時折、英国の田園地帯のいくつかで出会った道を思い出させたが、最初は先入見があったにもかかわらず、英国にはこれと較べられるようなものはないと認めないわけにはいかなかった。広い並木道や、松やとくに杉の木立としばしば出会ったが、その木立は道を縁どってすばらしい日蔭をつくり出していた。時折みごとな生垣も目についた。それはときにはさまざまな種類の常緑樫、ときには杉などの常緑樹でできていた。丁寧に刈りこまれ、あるときは、わが英国貴族の庭園でよくお目にかかるヒイラギやイチイの丈高い生垣を思い出させるほど、高くのび揃えられてた。どこでも小屋や農家はきちんとしており清潔に見受けられた。こんな様子はほかの東洋諸国では見たことがない。……風景はたえず変化し、しかもつねに美しい——丘や谷、広い道路や木陰道、家と花園、そこには勤勉で、労苦におしひしがれておらず、明らかに幸せで満ち足りた人々が住んでいる。

エドゥアルト・スエンソン=デンマーク人。フランス海軍の一員として1866年(慶応2年)から翌年にかけて滞日。
「江戸幕末滞在記」より

 どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる。

ディアス・コバルビアス=メキシコ人。天文学者。1874年(明治7年)、金星観測の国際共同事業のために来日。
「日本旅行記」より

 日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。天皇と女御の間に最初の女の子が誕生した時に取り行われた祝祭行事や、大久保大使が台湾問題で、日本が中国に要求した賠償金を手にして帰還したさいに開催された祝祭、その他にも多くの機会を通して、横浜、神奈川といった人口六万から七万の都市で、国民が、喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と、動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会にめぐまれた。どの祭り場でも、通りで酔っぱらいに会ったことがなかった。

エドワード・シルベスタ・モース=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見。
「日本その日その日1」より

 世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如(し)くものはない。

エドワード・シルベスタ・モース=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見。
「日本その日その日2」より

 日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない。

メアリ・クロフォード・フレイザー=駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人。1889年(明治22年)に来日。
「英国公使夫人の見た明治日本」より
 1890年(明治23年)に鎌倉の海浜で見た網漁の様子の記述


 美しい眺めです。——青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網をのばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。……物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちにも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです。施し物の多少にかかわらず、感謝の言葉があっさり、しかもきちんと言われます。そしてたとえ施し物がなくとも、けっして不平を言ったり嘆いたりはしないのです。

トーマス・マン=ドイツ人。作家。アメリカに亡命。
1945年(昭和20年)4月12日にルーズベルト米大統領が急死、就任間もない鈴木貫太郎首相がアメリカ国民に弔意を表したことに対して

 ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ。

オットー・カロン=ドイツ人。ボン大学教授
「天皇の真実」(河内正臣)より
 1950年(昭和25年)のカロンの言葉


 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。

 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。

(引用者注:昭和天皇の御巡幸は昭和21年から29年まで続き、沖縄をのぞく、全都道府県をまわられた。お立ち寄り箇所は1411カ所に及んだ)

ジョイス・C・レブラ=アメリカ人。コロラド大学歴史学部教授。
「チャンドラ・ボースと日本」(1969年発行)より

 東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。又、日本の歴史家達は、東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。

(中略)再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来は見なされていた、大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。

アリフィン・ベイ=インドネシア人。政治学者。ナショナル大学日本研究センター所長。
「魂を失った日本」(1976年発行)より

 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。

(中略)(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。

ジョージ・S・カナへレ=アメリカ人。政治学者。ハワイ・日本経済協議会事務局長。
「日本軍政とインドネシア独立」(1977年発行)より

 日本占領軍が、インドネシア民族主義の為に行った種々の訓練の中で、最も重要なものの一つは、インドネシアに正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ及びスマトラの各島で推し進められた。後に、インドネシア独立軍の将校や下士官となった者達は、殆ど全て、及び何万と言う兵士達は、この訓練を経て、軍事技術を身に付け、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に、独立戦争を戦ったのであった。もし、この訓練が無かったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材が無かったなら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかも知れない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を、権力の戸口まで導いた。

(中略)(インドネシアの)民族主義者にとって、日本の占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。

ジョイス・C・レブラ=アメリカ人。コロラド大学歴史学部教授。
「東南アジアの開放と日本の遺産」(1981年発行)より

 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。

(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。

ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア人。南方特別留学生として日本で学び、戦後独立運動に参加。元上院・下院議員。1994年逝去。
2003年3月、大阪府・堺市における伊藤哲夫(日本政策研究センター所長・教科書改善連絡協議会運営委員長)の講演で紹介されたノンチックの言葉

 「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したに違いない、その事実を調べに来たのだ』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。

 どうしてこのように、今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです」

サンパス将軍=インドネシア人。元復員軍人省長官。東欧大使を歴任。
「祖国と青年」1994年2月号『アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論』(中島慎三郎)より

 平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は 植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄 したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。

アラムシャ陸軍中将=インドネシア人。インドネシア大統領特使として1993年(平成5年)7月、来日。
「祖国と青年」1994年2月号『アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論』(中島慎三郎)より

 平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」「どういうことですか?」「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこ はオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立で きただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。

N・ヤルマン=トルコ人。大学教授。
「中央公論」1998年5月号「アジアの知識人は日本をどう見る」より

 アジアにおける支配の歴史というマイナスの面があるため、日本人は沈黙しがちです。しかしもう話すときがきた。南アジア諸国は、日本のおかげで現在自由があることを認識しなければならない。そうでなかったら今でもフランスやオランダやイギリスに支配されている。

W・リム=シンガポール人。大学教授。
「中央公論」1998年5月号「アジアの知識人は日本をどう見る」より

 日本は西洋的なやり方でなく、独自のやり方で近代化を成し遂げた国であることを認識すべきです。だがアジア諸国はこのことを認識していない。日本がそれについて話をしないからです。

ノーマン・メイラー=アメリカ人、作家。
「プレイボーイ」日本版1999年10月号より
 中国系アメリカ人作家アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」がベストセラーになった理由について


 アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。だから日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ。それにしてもこれまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。少なくともこの50年間は。それがいま突然話題になった。

(中略)まあ、日本に対する敵意というのは確かにある。いや、多くのアメリカ人は反日的なものを見たいのかもしれない。次の世代はアジアが支配するのではないかという恐怖心が隠されているからだ。

蔡焜燦=台湾人。実業家。少年兵募集に応募し1945年(昭和20年)1月、少年航空兵として陸軍航空学校に入校。司馬遼太郎「台湾紀行」で“老台北”として登場。
2000年11月30日付産経新聞「産経抄」(石井英夫)より

 きのう小欄にJRの運賃誤表示の問題を書いた。社会のタガがはずれ、モラル連鎖崩壊の“終着駅”はないのかと嘆いたところ、朝、台湾人・蔡焜燦(さいこんさん)さんからわが家に電話がかかってきた。

 「いま東京のホテルで産経抄読みました。モラルの崩壊を止める“終着駅”ありましたよ。名古屋駅です。南口で駅員さんに助けられました。うれしかったので電話してしまいました」。二十六日のことだという。蔡さん夫妻は上りの新幹線に乗るつもりだった。

 スーツケースを数個持っていたので赤帽を探したが、勝手がわからない。ようやく詰め所を見つけたが人がおらず、列車の時間は迫ってくる。すると制服の駅員がかけ寄り、重いスーツケースを両手にもって階段をあがってくれた。

 礼をいうと、「いえ、教育が悪くご迷惑をかけてすみませんでした」と謝ったという。急いで名前を聞くと改札係員のOさんである。「ただそれだけのことでしたが、日本人の親切がよくわかりました。まもなく台湾に帰りますが、鉄道のモラルいまだ滅びず、です」

 蔡さんは司馬遼太郎氏の『台湾紀行』に登場する“老台北”である。先日『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』(小学館文庫)という本を書いて「日本人よ胸を張りなさい」と直言した。「自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りをもって堂々と羽ばたいてほしい」と。

 蔡さんは「台湾に“親日家”はたくさんいますが、私は“愛日家”です」という。だが決して“媚(び)日家”ではなく、ずけずけ日本の批判もするし、日本人に注文も出す。その厳しい愛日家は電話口でうれしそうに名古屋駅をほめた。こちらもうれしくなった。

氏名不詳(インド 地下鉄公団総裁)
「とてつもない日本」(麻生太郎)前書きより

 平成十七(二〇〇五)年の暮れ、外務大臣としてインドを訪問する機会があった。首都ニューデリーに滞在中、できたばかりの地下鉄を視察したのだが、この時インドの方々からうかがった話が今でも忘れられない。

 この地下鉄視察が日程に組み込まれたのは、日本の政府開発援助(ODA)を使って建設されたものだからであった。私たちが訪ねた駅には日本とインドの大きな国旗が掲げられており、日本の援助で作られたということが大きな字で書いてあった。改札口にも大きな円グラフが表示され、「建設費の約七十パーセントが日本の援助である」と分かるように、青で色分けしてあった。その配慮に感激し、私は地下鉄公団の総裁に御礼の言葉を述べた。

 すると、逆にこんなふうな話をしながら、改めて感謝されたのである。

 ——自分は技術屋のトップだが、最初の現場説明の際、集合時間の八時少し前に行ったところ、日本から派遣された技術者はすでに全員作業服を着て並んでいた。我々インドの技術者は、全員揃うのにそれから十分以上かかった。日本の技術者は誰一人文句も言わず、きちんと立っていた。自分が全員揃ったと報告すると「八時集合ということは八時から作業ができるようにするのが当たり前だ」といわれた。

 悔しいので翌日七時四十五分に行ったら、日本人はもう全員揃っていた。以後このプロジェクトが終わるまで、日本人が常に言っていたのが「納期」という言葉だった。決められた工程通り終えられるよう、一日も遅れてはならないと徹底的に説明された。

 いつのまにか我々も「ノーキ」という言葉を使うようになった。これだけ大きなプロジェクトが予定より二か月半も早く完成した。もちろん、そんなことはインドで初めてのことだ。翌日からは、今度は運行担当の人がやってきた。彼らが手にしていたのはストップウォッチ。これで地下鉄を時間通りに運行するよう言われた。秒単位まで意識して運行するために、徹底して毎日訓練を受けた。その結果、数時間遅れも日常茶飯事であるインドの公共交通機関の中で、地下鉄だけが数分の誤差で正確に運行されている。これは凄いことだ。

 我々がこのプロジェクトを通じて日本から得たものは、資金援助や技術援助だけではない。むしろ最も影響を受けたのは、働くことについての価値観、労働の美徳だ。労働に関する自分たちの価値観が根底から覆された。日本の文化そのものが最大のプレゼントだった。今インドではこの地下鉄を「ベスト・アンバサダー(最高の大使)」と呼んでいる——。

 私はこの話にいたく感銘を受けた。

 地下鉄建設に携わった日本人技術者たちの仕事ぶりそのものが、優れた外交官の役割を果たしたのである。彼らはなにも、よそ行きのやり方をやって見せたわけではない。いつものように、日本で普通に行なっているスタイルで仕事をしたに過ぎない。しかしそれが、インドの人々には「価値観が覆るほどの衝撃」だったのだ。

廬千恵(ロー・チェンフィ)=台湾人。児童文学者。1955年、国際基督教大留学のため来日。夫とともに台湾独立運動にかかわり、92年まで帰台できなかった。
産経新聞2007年6月19日付【「話の肖像画」セピアに光る ふたつの故郷(3)廬千恵さん】より

廬千恵
「日本では最近、不平等が広がっている、二極化が進んでいるといわれています。中国や韓国からはバッシングを受けることも多いですね。しかし、この半世紀にわたって民主的で平等な国であり続けた。台湾もまた、民主化されて平等になりました。台湾の人々は、アジアでは日本と台湾だけが平等な国だと思っています。だから、自信を持ってほしいです

 −−台湾には、日本に親しみを感じてくれる人が多いと聞きます

廬千恵
「勤勉で誠実な日本人の精神が好きだと思う台湾人が多いのではないでしょうか。確かに統治時代には威張っていた日本人も多かったが、台湾人の側に立ってくれた人も多くいました。戦後になって日本の統治時代を懐かしみ、「リップンチェンシン(日本精神)」という言葉ができたくらいなんです」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 幕末、明治の文献については、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」を全面的に参考にさせていただきました。この本は当時滞日した外国人が記した膨大な数の著書を引用、テーマごとにまとめてあり、当時の日本や日本人の姿を知るのにうってつけです。オススメです。
 (07/10/16付:外国人から見た日本と日本人(1)のコメント欄にてこの本を御紹介下さったVe様には改めて御礼申し上げます)

 子どもの描写について、今回はモースとスエンソンの文献を引用しましたが、他にも多くの外国人が日本の子どもを誉めています。

 明治10年代〜20年代、横浜、東京、大阪、神戸などの水道設計によって名を残したイギリス人のヘンリー・S・パーマーは「彼ら(子供ら)と親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」

 明治6年〜明治38年まで日本で教師として活躍したイギリス人、バジル・ホール・チェンバレンは「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増しているのは、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊技」

 明治23年に来日したドイツ人宣教師で、日本についてすこぶる辛口な本を書いたカール・ムンツィンガーですら「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」

 渡辺氏は言います。

 「かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる事実だ」

 実はモースに関しては、「日本その日その日3」から具体的な体験談を渡辺氏は紹介しています。

 モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀をされ、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである」。彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。

 その上で、渡辺氏はこう書いています。

 「この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのだろう。しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うことと同じことだ

 私は子どもがいないのであまりえらそうなことは言えないのですが、公共の場所で躾がなっていない子どもを見るにつけ、その子よりも親に怒りが向いてしまいます。

 とはいえ、私の身近を見る限り、日本の子どももまだまだ大丈夫だ!と思うことも多いんですけどね。

 私が住んでいるマンションは子どもがけっこう多くて、エントランスとかでよく会います。
 多くの子がこちらが言う前に「こんにちは」と挨拶してくれますし、中には、私がポストから郵便物を出し終えるまで、律儀にずっとエレベーターの「開」ボタンを押して待ってくれている子たちもいます。
 そしてそういった子たちの母親たちは、例外なく感じの良い方々なのです。まさに「子は親の鏡」だなと思います。

 ……というわけで、第3弾につづく……!?


※参考文献
・渡辺京二著「逝きし世の面影」
ほそかわ・かずひこの〈オピニオン・サイト〉>日本の心●歴史
大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧
真中行造のページ>教科書比較(IV)
日本会議 鹿児島Blog
真実史観 日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
・石井英夫著「産経抄この五年」
日本戦略コラム

※拙ブログ関連エントリー
05/12/5付:憂国フラッシュリンク集
06/10/8付:【アンケート】「生まれ変わっても日本人になりたい?」結果と全コメント
07/8/24付:日印関係で朝日の露骨な社説&パール判事について
07/10/16付:外国人から見た日本と日本人(1)


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