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誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5)

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 少し前になりますが、産経新聞に【誰がために散る もう一つの「特攻」】と題された特集が連載されました。

 人間魚雷「回天」の搭乗員たちと彼らを取り巻く人たちの証言から、彼らが命をかけて守ろうとしたもの、そして現代日本人が忘れかけている「何か」を探る——という内容です。

 大阪版では6月5日〜13日まで掲載されたんですが、東京版はもう少し早い時期にやっていたようです。中身はたぶん同じだと思います。

 この連載は残念ながらWEB版には存在しません。
 竹島特集の【波頭を越えて】もそうでしたが、何でこういう貴重なものをWEBに載せてくれないんでしょ?(T^T)

 一部を起こして下さっているサイトは見つけたのですが、全文起こしはないようです。
 というわけで、こちらで起こすことにしました。
 実際の話、入力作業をしていて泣けてきました。こんなことは初めてです。


※文中の赤字強調は引用者による
 
産経新聞朝刊大阪版07年6月5日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(1)

【自己犠牲】逡巡なし「絶対◎」で志願


 昭和19年夏。日本軍はサイパンで玉砕、フィリピンでは米軍の猛攻にさらされ、トラック島も大空襲で機能がほとんどマヒした。戦局は悪化の一途をたどっていた。

 軍部に焦燥感が漂う8月28日、茨城県・土浦海軍航空隊で突然、第13期甲種飛行予科練習生の偵察専修者約1500人に非常招集がかかった。満15歳から20歳未満の若者たちだ。

 札幌市出身の竹林(旧姓・高橋)博(82)もその中にいた。当時18歳。猛暑の中、大格納庫は出入り口が閉ざされ熱気に押しつぶされそうだ。経験のない緊張感の中、司令官が口を開いた。

 「敵撃滅の新兵器が考案された。この兵器に乗って戦闘に参加したい者があったら、後に紙を配るから、熱望する者は二重丸を、どちらでもよい者はただの丸を書いて提出しろ。ただし、この兵器は生還を期するという考えは抜きにして製作されたものであるから、後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように」

 どういう兵器かの説明はなかった。「航空機による特攻攻撃だろうか」。そんな思いが脳裏をかすめた。竹林は躊躇(ちゅうちょ)せず二重丸を書き、「絶対」と付け加えた。

 「死ぬことがお国のために働く一番の近道だと思っていたから、逡巡(しゅんじゅん)しなかった。人生50年といわれていたが、軍人は半分、特攻隊は2割引きと思っていた」

 翌日、竹林を含む100人が選ばれた。竹林は実兄に<我、大空に墓場を得たり>と電報を打った。

 「家庭的に後顧の憂いがない者、家族、兄弟が多い者、攻撃精神旺盛な者…という選考基準があった。私は兄が1人だけだったのでひっかかったが、攻撃精神旺盛ということで選ばれたようだ」と竹林は振り返る。

■  ■

 特攻作戦への参加者について、全国回天会事務局長の河崎春美(83)は「兵学校出身者はプロの軍人だから指名だったが、予備士官や予科練出身者は純然たる募集だった。志願者の中から厳選して搭乗員を決めた」と説明する。

 2回にわたって出撃した吉留文夫(80)は、特攻を志願した若者たちの気持ちを、「本土が戦場になれば大量殺戮(さつりく)、国土崩壊は目に見えている。戦争がいいとか悪いとかではなく、何とか敵の侵攻を食い止められないか。みんながそう考えた。平和を守るということは死ぬ覚悟がなければできない」と語る。

 大阪商大在学中に学徒動員で海軍に入り、3度の出撃の末、散華した久家稔は、回天を志願したころの19年8月の日記にこうつづっている。

 <俺達は俺達の親を兄弟を姉妹を愛し、友人を愛し、同胞を愛するが故に、彼等を安泰に置かんがためには自己を犠牲にせねばならぬ。祖国敗るれば、親も同胞も安らかに生きてゆくことはできぬのだ。我等の屍によって祖国が勝てるなら満足ではないか

 <ぼくは、女性にささげる二十歳の青春を、お国のためにささげる>。昭和20年1月9日、金剛隊として出撃した塚本太郎はノートにそう記していた。

 多くの日本人を救い、日本の伝統を守るために自らの命をささげる−。当時の特攻隊員の証言や日記からは自己犠牲の思いが強く伝わってくる。それは、現在の若者以上に命を尊いものと考えていたことの証しでもある。

■  ■

 特攻を志願した竹林らは8月31日夕方、土浦海軍航空隊を出発、汽車を乗り継いで呉に向かった。呉の海軍潜水学校で2、3日滞在した後、潜水艦基地を経て倉橋島大浦崎の第一特別基地隊に着いた。竹林は言う。

 「呉に着くまでは、軍服にいかりのマークを付けないように指示されたので予科練の練習生には見えなかった。どこに行くのかさえも教えられなかった。それほどの極秘作戦だった」

 第一特別基地では、魚雷の構造などについて座学が始まった。

 「そこで初めて、もしかしたら人間魚雷かなという予感がした」

 竹林ら第13期甲飛100人が大津島の回天基地に着いたのは9月21日。この日から死へのカウントダウンが始まった。

(敬称略)

◇ 

 鹿児島・知覧の航空特攻基地を舞台にした映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(東映)の観客動員数が伸びているという。

 若い特攻隊員と彼らを取り巻く肉親や恋人の心の動きが詳細に描かれ、それが現代の若者たちの心をとらえているのだろう。

 航空特攻とは違うもう一つの特攻隊、人間魚雷「回天」の搭乗員たちと彼らを取り巻く人たちの証言から、彼らが命をかけて守ろうとしたもの、そして現代日本人が忘れかけている「何か」を探る。(宮本雅史)

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【写真】「回天」。だれも目のついた魚雷を想像できなかった

人間魚雷「回天」
 93式酸素魚雷に手を加え、人が乗って操縦し敵艦に体当たりする旧海軍が開発した特攻兵器。全長14.75メートル、全重量8.3トン。
 航続距離は30ノットで23キロ、12ノットで78キロ。中央の床(操縦席)に搭乗員が1人腰を下ろし、長さ1メートルの特眼鏡(潜望鏡)で観測しながら操縦する。
 回天作戦は昭和19年秋から20年8月まで続けられ、搭乗員は1375人で、うち106人(殉職者を含む)が亡くなった。


産経新聞朝刊大阪版07年6月6日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(2)

【死の宣告】孤独と恐怖…押し寄せ


 甲飛13期生の竹林(旧姓・高橋)博(82)ら予科練出身の搭乗員100人が、山口県周防灘の入り江に浮かぶ大津島に着いたのは昭和19年9月21日のことだった。

 食料、雑貨など日用品の積み降ろしを終え、魚雷の調整工場の保管庫に集まると、中は黒い分厚いカーテンで仕切られていた。板倉光馬少佐がそのカーテンを開けながら言った。

 「これが貴様たちが乗る人間魚雷だ。一度出発したら絶対に帰れない。よく見て、そんなつもりはなかったと思う者は遠慮なく申し出ろ。おれが責任を持って原隊に帰してやる」

 竹林は今にも爆発しそうな黒い塊に震えを感じた。しかし、しまったとは思わなかった。「いつでも死ぬ覚悟はできていましたから」。辞退する者は1人もいなかった。

■  ■

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【写真】要塞(ようさい)のような魚雷発射場跡。ここで、連日訓練が行われた=山口県・大津島

 操縦訓練はすぐには始まらなかった。訓練用の回天が3基しかなかったのだ。訓練は出撃順に行われた。「明日から訓練」と言われることは死の宣告を意味した。

 竹林が初めて回天に乗ったのは翌20年3月末。赴任して半年後だ。第一印象は「油くさくてどうしようもない」。パイプなどの間に漏洩(ろうえい)防止の油を塗ってあるため、艇内には油のにおいが充満していた。操縦席は狭く、右足は曲げたままで、左足はやっと伸ばせるほど。

 覚悟ができていたとはいえ、操縦席に腰を下ろしハッチを閉めた瞬間、孤独と恐怖が迫ってきた。訓練を終えて外気に触れた瞬間、生きていることを実感した。

 訓練は、夜間、ヘッドライトをつけないで車を運転するようなものだった。1人で航海長や機関長の役もこなす。経験を積むよりほかになかった。

 甲飛第13期で全国回天会事務局長の河崎春美(83)は「航空特攻は、飛行機乗りとして訓練を受けていた者が特攻隊員になったが、回天の搭乗員は死ぬために一から訓練を受けた。だから、与えられたチャンスを十分に生かして死なないといけないと思うようになった」と振り返る。

 訓練中も戦局は悪化の一途をたどっていった。20年3月10日未明には、B29が来襲、下町を中心に東京を焼き尽くした。

 同年5月5日と7月20日に出撃、回天の不具合で帰還した吉留文夫(80)は「あちこち空襲を受け、子供たちまで焼き殺されている。絶対に食い止めなければいけない。そのために絶対に敵艦に命中させなければいけないと、そればかりを考えて訓練していた」という。

 戦況の悪化は隊員たちへの出撃への思いを駆り立てた。竹林は「大津島には志願者があふれた。全員が『男子として死に場所を得たり。この本懐につくるものなし』という気持ちで先を争って出撃を希望した」と話す。

 当時、小学5年生だった周南市回天記念館の安達辰幸(74)は「彼らは生き神様と呼ばれていた。現代の感覚でかわいそうという人がいるが、隊員の気持ちを理解するには、当時の時代背景や価値観、当時の目線で見ないと分からないと思う。18歳や19歳の人でも、わずかな犠牲で多くの日本人を救うんだという自負があった」と語る。

■  ■

 甲飛13期生の森稔は20年1月12日、19歳で戦死した。出撃前にしたためた遺書にはこうある。

 <日本男子として生を享け、君国の御楯として軽き一命を捧げ奉る、これより快なるは候はず、唯々吾が全力を傾注して任務成就に突進致し敵をして再び起つ能はざる如くせしめ、神国日本の底力と神州男児の意気を示さむと存じ候。此の一挙別段事新しきことに候はず>

 <壮途につくに及び今更事新しく言ひ遺すこと更に無く候へども、生来の愚生何一つ御恩に報いず能はざりしは残念至極に存じ候。此の一撃により御恩の万分の一にも報ずるを得候はば喜びの極に存じ候>

 <まだ吾が国体の尊厳なるを自覚致し候はず、徒に戦局の勝敗に拘泥致し、利欲に走り候輩多数居り候と聞き及び候は残念の極に御座候。一日も早く国の内外を問わず完全一体となり、勝利に只管突進致され候如く、皇国の空より常に御祈り致し居り候>

 =敬称略
(宮本雅史)


産経新聞朝刊大阪版07年6月7日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(3)

【価値ある死】現代の命軽視 理解できぬ


 沖縄が玉砕し、いよいよ敗戦が色濃くなった昭和20年7月14日。大津島の回天基地では午前8時から「多聞隊」の決別式が行われた。搭乗員は錦織りの袋に収められた短刀を受け取ると、6基の回天が搭載された伊号第53潜水艦(大場佐一艦長)に乗り込んだ。

 海軍兵学校73期の勝山淳、兵科1期予備生徒出身の関豊興、甲飛13期の荒川正弘、川尻勉、坂本雅刀の5人に交じって竹林(旧姓・高橋)博(82)の姿があった。

 瀬戸内海はキラキラと輝いていた。伊53潜は沖縄とフィリピンの中間海域を目指して出航し、6日後にバシー海峡の東方海域に到着した。

 艦内で回天搭乗員は同室で待機する。読書や囲碁に興じながら、敵艦隊に遭遇するたびに交通筒を駆け上がり回天に乗り込む。そんな日が何日も続く。

 「まな板のコイどころではなかった。早く出撃させてくれ。毎日がそんな気持ちだった」と竹林は振り返る。

 遺書や日記をつけることも忘れなかった。関は人生記録の中で次のようにつづっている。

 <死は遂に免れるべからず。されば余は、永遠の生を求めん。(略)されど、死を決意し、それに着手する人間の心理過程は、決して簡単なるものでも、容易なるものでもない。それを苦しみながら、終に結論に到達する。それは人間という一事である>

■  ■

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【写真】出撃を前に整備兵らと記念撮影。どの顔にも憂いはない。

 大津島を出航して10日後の7月24日、戦車揚陸艦など17隻の大輸送船団を発見した。

 「回天戦用意」。艦長の大場の号令に、6人は交通筒を駆け上がって回天に乗艇した。午後2時25分、大場の指示で回天を艦に固定する固縛バンドが音を立ててはずれる。「発進」。勝山艇が出撃。約40分後、大場は潜望鏡で黒煙が立ち上る敵艦を確認した。

 引き続きバシー海峡東方海域で索敵を継続した伊53潜は29日、十数隻の大輸送船団のど真ん中にいた。川尻が出撃。約1時間後、大音響が響いた。17歳11カ月。最年少の川尻は遺書にこう書き残している。

 <身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消えゆるとも、魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん>

 8月4日、頭上を駆逐艦が通過した瞬間、爆雷が至近距離で爆発した。伊53潜は回天の許容深度(40メートル)を超える80メートルまで急速潜航し、回避を続けた。爆雷が至近距離で爆発するたびに艦体は激しく振動し、艦内の器具は散乱。主蓄電池が破損し、一切の動力が停止、艦内の電灯は消えた。

 「われわれは回天で突入することを本望としております。このままでは死に切れません」。関の一言で大場の腹は決まった。

 残る4人の搭乗員は懐中電灯のほのかな明かりを頼りにそれぞれの回天に乗艇。訓練しなかった深度40メートルからの発進だ。午前2時半、関艇が出撃し、20分後に荒川艇が続いた。

 竹林の番がきた。大場と電話で話すうちに「少し頭が痛みます」と言った後、音信が途絶えた。竹林は操縦席で意識を失っていた。激しい爆雷攻撃で四塩化炭素の容器が破損してガスが艇内に充満、竹林は中毒で意識を失ったのだ。

 坂本の6号艇も機雷の爆発で酸素パイプに亀裂が入り、圧力計が下降。艇内の空気が上昇し坂本も意識を失っていた。

 伊53潜は12日、大津島に帰還。3日後の15日に終戦を迎えた。

■  ■

 金剛隊として出撃した都所静世=当時(21)=は出撃前、艦内で義姉に遺書を遺している。

 <それにつけても、いたいけな子供達を護らねばなりません。自分は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のう>

 竹林は現在、JR岩見沢駅から車で10分余りの老人養護ホームで妻と暮らす。

 「命令されたからといって死ねるものではない。国や家族を守ろうという気持ちがあるからこそできるのだ」

 「今の子供たちの考えが信じられない。価値ある死を選んだ者を見てきた立場では、それは命を軽んじることで理解できない」

 竹林は出撃前に受け取った錦織りの袋から短刀を取り出しながら、何度も表情をゆがめた。

 =敬称略
(宮本雅史)


産経新聞朝刊大阪版07年6月8日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(4)

【死をかけた戦い】志願者 国を思って出撃


 「あんなものを作った兄のことだから…」。しばらく口ごもった後で重い口を開いた。80歳を過ぎた今日まで、彼女を寡黙にさせたのは周囲の視線への遠慮だった。

 「大津島の慰霊祭で、マスコミの方から、回天搭乗員の写真を前に『あなたのお兄さんのせいいでこの人たちが亡くなったのですが、どう思いますか』と質問されたことがあります。ただただ申し訳ないという気持ちで、何とも申し上げられませんでした」

 回天の考案者、黒木博司の妹、教子。30歳で夫と死別し、その後4人の子供を1人で育てた。

 「母と回天添乗員のご遺族を訪ねた折、『あの悲劇があったからうちの子も…』と。それを聞いた母は何かに耐えるようにつらそうでした。みなさんに迷惑をかけたという思いが強かったようですが、それ以前に世間の目が厳しかった」

 戦後、一部で黒木批判の声が上がった。遺族は沈黙を保つほかなかった。

 「身内を亡くされた方が“あの悲劇がなければ”と思うのは当然のことです。でも志願した人たちは、心底、国を思っての出撃だったと信じています。国や家族を守るのは命がけなんです」

■  ■

 黒木は大正10年9月11日、岐阜県下呂村(現下呂市)で医家に生まれた。父の弥一について、教子は「貧しい人からお金は受け取らない性格。病人がでると、どんなに遅くても、疲れていても必ず往診に行きました」と話す。

 母親のわきの口癖は「100人の人に笑われても1人の正しい人に褒められるように、100人の人に褒められても1人の正しい人に笑われないように」。「正直で曲がったことはしなかった」という。

 黒木の家族思いはつとに知られる。岐阜中(現岐阜高)時代、兄の寛弥が医学校を受験した際、兄の写真を床の間に飾って好物の菓子や果物を供え、3日間、断食をして合格を祈ったという。

 教子にも大切な宝物がある。手製の雛(ひな)だ。

 「小学校低学年のころ、お雛様を持っていない私をかわいそうだと思ったのでしょう。画用紙にクレヨンで雛人形を描いて、切り抜いて後支えを作って飾れるようにしてくれました」

 黒木を祭る「下呂楠公祭」の事務局長で、大垣市立東中校長の橋本秀雄(59)は言う。

 「身内を大事にする思いは、結局は、国民を大事にすることにつながるんです。黒木少佐は自分を犠牲にしてでも国を守りたいという使命感が強かったと思う」

■  ■

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【写真】回天の操縦席。左足を伸ばすのがやっとの広さだ

 黒木は海軍機関学校3年生の昭和15年8月中旬、皇国史観の主唱者だった東京帝大教授の平泉澄に出会う。家族にあてた手紙には、平泉から精神形成面で影響を受け、国家を真剣に考えていく心の動きが記されている。

 平泉に面会した直後の15年9月5日、両親にあてた手紙には、<思うに尊皇の大信仰と勉学とは切っても切り離せないものであります。今まで私は此の大信念を固めるのに或は勉強も手につかぬ時もありましたが、今夏完全に不動不抜聊も揺がぬものとなすことを得、之以上何も考え或は疑うこともなく、胸中晴々として只管勉強の一途です>とある。

 10月23日には、父親あてに<中学半ば志を立ててより未だ曽て神明に祈って私を願ったことはありません。(略)私を願うことは一片もなく唯皇国の御役に立つべきよう私が成りゆくより又欺くならむことを己の努力に誓うのみであります>と送っている。

 そして、影響を受けた平泉には<軍人として胆を練り以て皇国の休戚の大任を担い真に陛下の御股肱として国民の先頭に立ち天下国家のことを以て吾が事となし、私議の不断の念願たる皇国の永遠無窮を確証致し魂の尊皇の乾坤の真理の中に無窮に生きむべく不断の努力を致し天命に桜花と咲き散るべく一層学問修行致すべく候>(15年12月29日)と決意の程を伝えている。

 いずれの手紙からも、死をかけた戦いに挑む黒木の思いが伝わってくる。

 =敬称略
(宮本雅史)


産経新聞朝刊大阪版07年6月9日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(5)

【鉄石之心】回天 標的ト生キ死ナム


 黒木博司の妹、教子が兄と最後に会ったのは昭和19年5月21日、岐阜駅前の小さな旅館だった。

 夜の8時ごろから、母親の手作りのすしで夕食が始まった。食事が終わると、母親に耳あか取りをせがんだ。10時ごろに父親が合流し、翌午前5時ごろまで話は続いた。

 「両親と少しでも長く一緒にいたかったのでしょう。冗談を言って笑わせていました」

 話の内容は正確には覚えていない。ただ、黒木の手紙の多くが血書で書かれており、傷を心配していた母親が「手相を見てあげる」と手を出したところ、黒木がその手を払いのけたことは覚えている。

 朝、黒木は大きなかばんを大事そうに抱えて旅館を後にした。

 「きっと回天に関する重要な資料が入っていたのでしょう」。このころ、黒木は海軍を相手に回天採用について奔走していた。

■  ■

 昭和16年1月、海軍機関学校を卒業した黒木は戦艦「山城」に乗艦。その年の12月、大東亜戦争が勃発(ぼっぱつ)した。黒木はすぐさま両親に手紙を出している。

 <皇国の興廃此の一戦に有之、事容易ならず、神武肇国以来の最大国難にして、長期の困苦に堪ふる忍堪の力こそ最後の決と存じ候。此の長期の忍苦は、一に国民の団結、国民精神の振作一致に他ならず候>

 黒木は、列強相手の戦争は長期化し苦戦することを危惧(きぐ)していた。

 翌17年8月、少尉に昇進。特殊潜航艇の搭乗員の道を選び、海軍潜水学校に入学。その年の秋、呉海軍工廠(こうしょう)魚雷実験部分工場に赴任する。

 東京帝大教授の平泉澄には、これまで経験したことのない国難に対処するため、日本人にとって忠臣の鑑(かがみ)とされる楠木正成には及ばないまでも、開戦当初、真珠湾で特殊潜航艇で攻撃、壮烈な最期を遂げた9人の軍人魂を継承、死にがいのある働き場所を求めると報告している。

 黒木の当時の思いは、翌18年1月に色紙4枚に血でつづった『尊皇遺言』から推察できる。

 <秋(とき)ニ今皇軍死戦神国危フシ、如何セン、即チ先哲ニ聞ク、一死奉公ト正ニ征キテ必ズ還ラザルノ死ヲ以テセバ回天ノ大効何ゾ成ラザラン。時ニ特殊潜航艇ハ天賦ノ利剣ナリ、平生ノ志乃チ決ス、則チ昨春来熱願シテ暮秋ニ叶フ、今又自カラ死地ヲ画ス、呼皇ノ為命死スベキ悦ビ今日此ノ心ニ極ル>

 戦局が悪化の一途をたどる中、自ら死をかけて祖国を救う道を選んだのである。イタリアが降伏、ドイツが劣勢になると、親友の原田周三には<海軍の現状、焦燥と不安のみにして大局に徹底せる勇断なし。特殊潜航艇の使用方法然り。艇の改造然り。今日、必死の戦法の外なし。艇に自爆装置を附すること意見具申中なり。「死を全道に守る」この語につき今日切実に考へるところあり。必死の戦法さへ採用せられ、これを継ぎゆくものさへあらばたとへ明日殉職すとも更に遺憾なし>と語っている。

 劣勢を巻き返すには、特殊潜航艇以上の必死必殺の兵器を採用するほかない。思いはさらに募った。

 黒木は特殊潜航艇の改造を続けた。しかし、いくら改良しても、戦局を挽回(ばんかい)する効果は期待できなかった。たどり着いたのが、目のある魚雷、回天だった。

■  ■

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【写真】「回天」はトロッコに載せられ、このトンネルの中を運ばれた=山口県・大津島

 黒木は18年10月、海軍司令部に人間魚雷の採用を要望したが、生還率ゼロという作戦は受け入れられなかった。この年の4月から19年3月まで「鉄石之心」の表題で日記をつづっている。全文が血文だ。

 軍令部に談判した10月以降の『鉄石之心』には<標的ト生キ死ナム><事不成神州男児断ジテ屈セズ>といった言葉が並ぶ。特攻兵器の採用を目指す黒木の執念は続いた。19年5月には全文血で「急務所見」と題する意見書を作成。その中で、護国の方法として「死ノ戦法ニ徹底スベキ事」「天下ノ人心ヲ一ニスベキ事」「陸海軍一致スベキ事」「緊要ノ策ヲ速刻断行スベキ事」と4つの策を提言した。

 回天の採用が決まったのは19年8月1日。黒木の決死の思いがようやく軍令部を動かした。

 =敬称略
(宮本雅史)


 誰がために散る もう一つの「特攻」(6)〜(8) に続きます。


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2007/06/27(水) 03:31:46 | 考察NIPPON

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