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阪神淡路大震災20年 両陛下の行幸啓がもたらした復興への力

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 現在、平成27年(2015年)1月17日の未明です。
 阪神・淡路大震災発生から丸20年です。

 私は当時、大阪市内で一人暮らしをしていましたが、記憶は今も生々しいです。
 タンスを必死で抑えたこととか、余震に怯えたこととか…。

 手元のスクラップブックに保存してあった、平成7年(1995年)1月17日の朝日新聞夕刊一面とテレビ欄です。

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 当時、私は朝日新聞の購読者でした。
 実家がずっと朝日だったので、その流れで。

 ご覧のようにテレビ欄には通常番組も載っていますが、実際は関西では全局、震災特番になっていたと思います。

 但し、東京発の番組は関西とはかなりの温度差がありました。

 たとえば『ニュースステーション』では、「もし東京で大地震が起きたらどうなる?」という話にかなりの時間を割いていて、「そんなことより今は現地の情報を流してよ!」とイライラしたのを覚えています。


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[兵庫県西宮市立中央体育館に避難した被災者を見舞われる両陛下=1995年(平成7年)1月31日撮影。画像出典:毎日新聞

 私は当時、皇室には特に興味がありませんでした。
 (朝日なんか読んでたら、そりゃ興味もわかない!?)

 後から知ったことですが、震災後の天皇皇后両陛下の行幸啓が、いかに被災地の人々の救いとなったか。
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[阪神大震災で神戸市長田区の菅原市場をご視察後、皇后陛下はバスの窓から手話で「がんばってください」と被災者たちに語りかけられた=1995年(平成7年)1月31日撮影。画像出典:毎日新聞

 神戸出身で当時共同通信の記者だった青山繁晴さんが、『ぼくらの真実』(138ページ)でこのように振り返っておられます。

【発生から2日後の1月19日、村山富市総理(当時)が立ったまま急ぎ足で被災地をまわり、被災者は怒りに震えました。
 共同通信政治部の総理官邸担当記者だったぼくには「おまえ、総理に言ってくれ。えらそうに見下ろして、何様なんだ。怒りで復興が手に付かない」という声が友だちからも親戚からもやって来ました。
 ぼくは村山さんと歴史や中韓・北朝鮮に対する考え方は180度違いますが、村山さんは人柄のいい正直者です。しかし官僚が「総理、急いでください。日程が詰まっています」と言うのに逆らえなかったのですね。
 ところが、そのあと1月31日に天皇皇后両陛下が神戸とその周辺だけではなく淡路島にも行幸啓され、被災者ひとりひとりの前に屈(かが)まれて眼を合わせてくださり、「頑張ってくださいね」と声を掛けられたために、この怒りの声がぴたりと鎮まったのです。
 僕は政治記者として昭和天皇の吐血から崩御に至るまでを徹底的に取材しましたから、宮内庁にも信頼関係のある人が何人か居ます。その人々から聞いたのは「陛下におかれては、お膝の痛みを持っていらっしゃるのに、そんなことはまったくお顔にも出されずに、痛いお膝を曲げられて、皇后陛下とご一緒に被災者ひとりひとりに屈まれましたよ」ということでした。
 両陛下は、ご自分のお体や痛みよりも、あなたが大事です、民こそが大事ですということを身をもって示されました。
 それがなかったら神戸の復興はきっと遅れたと、ぼくも地元も友だちらも信じているぐらい、両陛下の民こそを愛されるお気持ちは深くみんなに伝わりました。


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 青山さんのお話は決して誇張ではありません。

 他に、たとえば小林よしのり氏(この人は女系天皇容認派なので私とは考えが合いませんが)の『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』(14ページ)には、小林氏宛に来た読者の方のこんな声が紹介されています。

【僕は小学生のころ、阪神大震災に遭ったとき、天皇皇后両陛下が神戸に来て元気づけられたのを、今でもはっきり覚えています。
 他のタレントが神戸に来ようが、神戸市民の涙は、天皇皇后両陛下が来るまで癒やされなかったのです。
 それだけ天皇というのは、私たちの心の中で眠っているのだと思いました。】



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 行幸啓は1月31日でしたが、震災発生直後から両陛下のお心は常に被災者とともにありました。

 宮内庁HPより、震災発生後から1月末までの、阪神・淡路大震災に関連するものを抜き出してみます。

宮内庁HP>災害等へのお見舞い(平成元年~平成26年)
平成7年1月17日(火)
天皇皇后両陛下には,今回の兵庫県南部地震により,大きな災害が発生していることをお聞きになり,大変お心を痛められ,犠牲者へのお悔み,負傷者及び被災者へのお見舞いと共に,知事始め災害対策に当たる関係者に対するお励ましの思召しを侍従長を通じて貝原俊民(かいはら・としたみ)兵庫県知事にお伝えした。

平成7年1月19日(木)
<天皇陛下のおことば>
この度の地震により,3千人を超す人命が失われ,多くの人々が堪え難い苦しみを味わっていることに深く心を痛めています。不幸にして亡くなった人々の遺族に対し,心から哀悼の意を表し,多数の負傷者の一日も早い回復を祈っています。
現在,国を挙げて救助,救援,復旧活動が行われていますが,未だ多くの行方不明者があり,また,厳寒のさ中,多くの人々が不自由な避難生活を続けており,その速やかな救済と復興に万全を期し,被災者の苦しみが一日も早く解消されることを切に願っています。
救援のために日夜尽している関係者の労苦を思うと共に,この不幸な時期を皆が強い連帯と協力の下に乗り越え,今後,災害に対し,より強く,安全な国としてあることに,人々の英知が寄せられていくことを衷心より願っています。

平成7年1月19日(木)
天皇皇后両陛下は,この度の兵庫県南部地震により甚大な被害を受けた兵庫県及び大阪府に対し,金一封を賜りました。

平成7年1月31日(火)
天皇皇后両陛下は,兵庫県南部地震により甚大な被害を受けた兵庫県に対し,被災者の医療のため,金一封を賜りました。

宮内庁HP>天皇皇后両陛下のご日程 平成7年(1月~3月)
平成7年1月19日(木)
天皇陛下

内奏(阪神・淡路大震災非常災害対策本部長(国土庁長官))(宮殿)

平成7年1月23日(月)
天皇皇后両陛下

ご報告(日本赤十字社社長(阪神・淡路大震災に対する日赤の救護活動等対応状況))(御所)

平成7年1月24日(火)
天皇皇后両陛下

ご説明(地震予知連絡会会長(阪神・淡路大震災について))(御所)

平成7年1月25日(水)
天皇陛下

ご説明(警察庁長官(阪神・淡路大震災被災地の救助,救護等の状況について))(宮殿)

平成7年1月28日(土)
天皇皇后両陛下

ご説明(消防庁長官(阪神・淡路大震災被災との消火,救助,救急活動等について))(御所)

平成7年1月29日(日)
皇后陛下

ご説明(日本看護協会会長(阪神・淡路大震災被災地の看護の状況等について))(御所)

平成7年1月31日(火)
兵庫県行幸啓(阪神・淡路大震災被災地のお見舞い)
天皇皇后両陛下

皇居御発(ご移動は,自衛隊機,同ヘリコプター,県バス)
兵庫県被害概要及び西宮市被害概要ご聴取(兵庫県知事,西宮市長)・お見舞(西宮市立中央体育館(西宮市))
芦屋市被害概要ご聴取(芦屋市長)・お見舞(芦屋市立精道小学校(芦屋市))
兵庫県復旧状況ご聴取(兵庫県知事)(芦屋保健所(芦屋市))
神戸市被害概要ご聴取(神戸市長)・お見舞(神戸市立本山第二小学校(神戸市))
被害地ご視察(神戸市長田区菅原市場)(神戸市)
北淡町被害概要ご聴取(北淡町長)(北淡町役場(北淡町))
お見舞(北淡町民センター)(北淡町)
皇居御着

 両陛下はこの間、もちろん他のご日程もこなされています。
 また2月以降も、御所で関係者・識者・官僚らの説明を受けておられます。

 昨日1月16日、両陛下は神戸市に入られ、災害時の司令塔となる兵庫県災害医療センターを訪問されました。

 本日17日には追悼式典に臨席され、防災学習に取り組む高校生らと懇談される予定です。


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 さて、冒頭に私は「記憶は今も生々しい」と書きましたが、細かなことは忘れてそうなので、過去ログをめくってみました。

 そしたら、震災から5年を迎えた2000年1月16日・17日に、体験談を「ぼやきくっくり」(ブログにする前のHTML時代)にけっこう詳しく書いていました。

 以下にそれを転載しておきます。

 今、私は大阪市内の別の場所に住んでいますが、震災の面影を感じることはほとんどありません。

 でも震災により愛する家族を亡くした方々、暮らしを壊された方々は大勢いたわけで、その方々は今も見えないところで苦しんでいます。

 私の体験なんか全く大したものではなく、被災された方々の辛さを代弁できるわけもないのですが、少しでも風化を防ぐ手助けになれば幸いです。

 ちなみに当時は「ですます調」じゃなく「である調」で書いてましたので(だからでしょう、よく男性と間違われました(^^ゞ)、何だか別人みたいな文章ですがお許し下さい。


2000年1月16日(日)阪神大震災のこと[その1]

 1995年1月17日午前5時46分。この時起こったことを私は今でも鮮明に覚えている。私はその当時、大阪市中央区…大阪城の近くのハイツの4階に一人で住んでいた。上町台地という比較的地盤のしっかりしたあたりだった。だが、それでも私は死ぬほどの思いを味わったのだ。
 ドーンと突き上げるような音と振動で私は目が覚めた。最初何が起こったのか全くわからなかった。縦揺れが横揺れに変わって、部屋の中がぐるぐると回っているような感覚になった。
 『地震か…』
 私は半分眠っている頭で、この時点ではまだけっこう冷静に考えていた。私が20才頃まで育った和歌山という地方は日頃から地震が多く、震度3程度の地震はしょっちゅうだったせいかもしれない。ところが揺れは長く激しく続く。
 私は部屋を真っ暗にして寝るタイプなので、部屋を見回しても何も見えない。ただ、布団の足下に置いてあるカラーボックスが気がかりだった。本やカセットテープを詰め込みすぎて日頃から座りが悪かったのだ。それが案の定倒れてきて、私の足を直撃した。冬で分厚い布団をかけて寝ていたのが幸いして怪我などはしなかったが、もし夏だったらどうだったか。
 カラーボックスが倒れたことによって、私はパニックになった。
 『これまでの地震と違うぞ。やばいかも!』
 私ははっと思い出した。頭のところにはでっかいタンスがあったのだ。これが倒れたらマジでやばい。「いや~」とか、わけのわからん声を出しながら、私はタンスを両手で必死で押さえた。この時初めて『死ぬかもしれへん』と思った。
 そのうち、揺れが止んだ。
 『でかい地震やったなぁ。震度5以上はあったんちゃうか…』
 私はもそもそと起きあがると電気をつけた。カラーボックス以外に特に倒れた家具もなく、まずは一息。大阪に住んでこんな大きな地震は初めてだ。いや、小さな地震すらほとんど経験がなかった。
 NHKをつけて、倒れたカラーボックスを片づけながらニュースに見入った。この時点ではまだ伝えられていなかったが、神戸や淡路島が大変な事態になっていたのは皆さんもご存知だろう。私も後で、被災した知人の話を聞き、あんな程度で『死ぬかも』と思った自分が恥ずかしいような気持ちになった。
 だけど朝8時頃まで(と思う)は、NHKも民放も、大阪梅田のビルのクレーンが倒れている映像や、自動車のショールームのガラスが割れた映像なんかを流す程度だった。だから一番被害が大きかったのは大阪市内だと私は思いこんでいたのだ。後の発表では大阪の震度は4だった。しかし私は震度5はあったと思う。震度4は和歌山で2回ほど経験済みだが、そんなに大した揺れではなかった。
 朝の9時になって会社に電話をした。会社は比較的ハイツの近くにあり、そのせいか通じた。同僚が出た。幸い社内は特に目立った被害はないとのこと。私は毎日昼から出社というローテーションで回っていた。前の日も寝たのは午前2時頃だったので、いったん寝直した。
 ところが、午前10時半頃だったか、大きな余震が来てまた飛び起きた。
 (以下、明日につづく…)


【阪神淡路大震災】1995年1月17日11時頃のニュース

 NHKの午前11時頃のニュース。
 私もこれを見て初めて神戸の惨状を知りました。

2000年1月17日(月)阪神大震災のこと[その2](昨日からのつづき)

 大きな余震でまた飛び起きた私は、今の地震の情報を得ようとテレビをつけた。そしてその時初めて神戸・淡路島方面の惨状を知った。阪神高速が倒れている映像を見ても、最初はとても現実とは思えなかったが、やがて神戸方面に住む同僚や知人の顔がぱっぱっと次々に浮かんだ。
 落ち着かなくなった私は、定時(正午)よりかなり早めに自転車で出社した(ふだんから自転車通勤だった)。そして交通網が遮断されている中、会社に来ることのできたわずかな上司や同僚と協力し、他の社員やバイトの人たちの無事を確認するための電話を入れたが、つながらないところがほとんどだった。
 とりあえず私は実家の両親が心配だった。大阪より実家のある奈良の方が震度が大きかったのだ。奈良方面だから電話も通じるかもと思ったが、全然通じなかった。
 非常時は公衆電話の方が通じやすいと聞き、会社の外の公衆電話から15分に1度程度の割合で繰り返しかけるうち、発信音は出るようになった。やった、通じた!…しかし、誰も電話に出ないのだ!!…私はドキドキした。悪い考えが巡った。
 『ひょっとしてタンスの下敷きにでもなってるのかも…』
 今から奈良に向かおうにも電車が動いているのかどうか…とあれこれ考えながら、しつこく何度も電話をした。すると午後2時頃になって母がようやく出た。
 「あら~、くっくり。今朝地震あったやろ。びっくりしたなぁ」
 「『びっくりしたなぁ』やないわよ!なんで電話出えへんのよ。何回もかけたのに!」
 「ごめ~ん。お母さん、今日マンドリンの日やから会館へ出かけたんやけど、3人しか来てへんかってな。練習中止になってん。ほんで今さっき帰ってきたんよ~。せっかく行ったのに、ホンマ、まいるわぁ…」
 「………そうですか………(まいるのはこっちやねん…ったくこの母だけは…(^_^;))」
 当時、母は市が主催するマンドリン教室に通っていたのだ。大阪より震度の大きかった奈良に住む母がこののん気さ加減…。震度って当てにならんなぁと思った。
 幸い私の友人・知人に死者は出なかったが、家を失い避難所暮らしが続いた人がたくさんいた。大阪市在住の私ですら、死の恐怖を感じたのだ。彼らの心中は察するに余りあった。
 今回の地震ですごさを実感したのは知人のA君の話である。彼は神戸市東灘区に住んでいたのだが、幸運なことに家はさほど被害を受けなかった。ただ、部屋を片づけていた彼はあることに気づいてびっくりしたそうだ。シャーペンだのボールペンだのが大きなタンスの下にはさまっていた、というのだ。つまり、最初の縦揺れでタンスが宙に浮き、その隙間にシャーペンが転がっていって挟まってしまったのだ。タンスを宙に浮かすほど持ち上げる地震のパワー。高速道路の倒れている映像よりも、この話の方が私にとっては地震に対する恐ろしさの実感があった。
 あれからもう5年。近畿以外の地方ではもう阪神大震災なんて歴史の中の1ページになっているんだろうか?


1995 阪神・淡路大震災

 震災翌日の午後1時のニュース。


 他に覚えていることとしては…

 本震の3日後ぐらいに、夜にお風呂入ってたら、めっちゃ大きな余震が来ましてね。
 はっきり起きている時だったからか、ある意味、本震よりも恐怖を感じました。
 「お風呂で全裸で一人で圧死とかするのん絶対イヤ!早く結婚しよう!」と思ったものです。

 実際に結婚したのはその3年後でした。
 相手はもちろん今の夫です(^^ゞ


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