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語り継ぎたい3・11体験談、そして被災地へのエール

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[アメリカ海洋大気圏局が公開した震災前後の日本の夜間照明。震災被害の大きさを表す一つの資料です。詳細はこちらを

 今日は、主に産経新聞に掲載された読者の手紙「私の3・11」から、引用させていただきます。

 あの日のことを忘れないために、また後世に語り継ぐために……。
 折に触れ、読み返したくなる珠玉の体験談、被災地へのエールです。

 ※画像はイメージで、本文とは直接関係はありません。

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[地震、津波、原子力災害により、東北の美しい“故郷”は破壊されました。この無残な光景を誰が予想しえたでしょうか]

【「津波が来る」…暗闇を歩き続けた】

 宮城県多賀城市、岩佐登子さん(63)

 そのとき私は宮城県塩釜市新浜町にいた。「津波が来る、各自避難せよ」と言われても避難場所すら分からない。幸いにも帰るべき道順なら知っているという方がいて、一緒なら何とかなるでしょうとばかりに2人で歩き出した。

 しかし、雪の舞うモノトーンの世界、車のタイヤの跡さえも雪に消されてしまい、目印になるようなものさえ確認できない。

 それでも何とか彼女の目的場所まで同行させてもらい、その後はひたすら教えられたとおりに歩き続けて東北線塩釜駅までたどり着いたが、夕闇の中ではその建物さえも駅舎とは気づけないような状態だった。幸いにもタクシーが構内に入ってきたので自宅近くの行けるところまでということで乗車した。

 笠神新橋付近で通行止めとなり、暗闇のなかを歩き、気づくと指定避難場所の天真小学校にたどり着けた。

 その夜は明かりも暖房も心細い中で携帯ラジオを聴きながら夜を過ごした。

 「窓から見える」

 人声が気になり、2階教室の窓から外を見たとき火柱が見えた。石油コンビナート火災の炎が闇夜に異様な明るさをもたらしていた。

 一夜が明け、校庭に給水車が止まり、それぞれに連絡をとろうとしたが無駄だった。電話は通じない、携帯電話は電池切れ。それでも、「笠神新橋が通行許可になったよ」と被災者同士で帰宅ができるようになるまでの時間が来るのを待ちながら助け合いの言葉をかけあった。

 私は昼頃には帰宅できたが、その惨状には涙もでなかった。

 砂押川の堤防は自宅近くの箇所も決壊し、道路は片側部分がえぐり取られていた。

 家族は2階に避難できていたので無事だったが、1階部分はすべての部屋が塩害の泥に覆われていた。床下収納庫はふきあげられていて、そこからも泥水がふきあげたという。

 地震で家具は倒れ、移動し落下して泥のなか。電気は切れ、暖房もない。灯油もないのでストーブも使えない。風呂の中まで泥が入ったので、くみ置きの水もなくトイレも使えない。それでも大規模半壊とはいえ、住めないわけでもない家があり、家族も無事であっただけでも幸運だといわれた。

 そのような日から1年近くたっているのにまだその悪夢の覚めやらない気がしないでもない。

 それでも去年棚から落ちて茎がいたんだ花につぼみがついた。私たちを慰めているのかのように花がほころびだした。

 産経新聞2012年3月11日「私の3・11」第1章


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[東日本大震災から1年を迎え、2012年3月10日と11日の両日、東京タワーに「KIZUNA NIPPON」のメッセージが灯されました]

【転職面接の帰り道 温かい心に触れた】

 東京都杉並区、菊川真澄さん(53)

 忘れもしません。私は大地震があったその日、ある会社の面接を受けていたのです。勤めていた会社がだめになり転職活動中でした。風邪をひいて体調が良くなかったのですが、無理をして出かけました。

 激しい揺れを感じたのは面接を終えてビルを出たときです。場所は銀座。人がたくさん出てきて通りは大変な人混み。電車は止まっているというので歩いて帝国ホテルに向かいました。タクシーで帰宅しようと考えたのです。

 ところが長蛇の列! 仕方がないので待つことにしました。けれど気分が悪くなってきて座り込んでしまいました。どうやら熱が出てきたようです。

 すると後ろにいた男性が「この人、先に乗せてあげて! 病気なんだ!」と大声で叫んだのです。そして列の一番前へ連れて行ってくれました。ちょうど初老のサラリーマンふうの男性がタクシーに乗り込むところでした。

 「家はどちら? 杉並なら近いから一緒にどうぞ」と言ってくれたので同乗させてもらうことに。後部座席で横にならせてもらいました。「え?就職活動中?…大変だね」。道が混んでいて家に着くのに数時間かかりました。その男性はお金を出しても受け取ることなく行ってしまいました。お名前をうかがっておけばよかった…後でひどく後悔しました。

 その日受けた会社は不採用でしたが、今は他の会社に就職が決まって元気に働いています。

 産経新聞2012年3月11日「私の3・11」第1章


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[岩手県陸前高田市の国道45号、気仙川にかかる気仙大橋の仮橋。2011年7月に完成。“沿岸の大動脈”は息を吹き返しました。横には橋脚だけが規則的に残っています]

【羽田空港「一緒に泊まりませんか」】

 韓国ソウル市、山本裕子さん(34)

 3月11日は羽田空港で仕事をしていて空港内で避難することになりました。そこで困っている女性を見かけました。アツコ・ドーキンさんという、母が危篤で米サンフランシスコから30年ぶりに帰国し、あす高松に帰るという方でした。

 携帯電話の電池が切れてしまい、アメリカや日本の家族に連絡が取れずにいたので、公衆電話のかけ方を教えました。

 彼女から「ホテルを予約しているので一緒に泊まりませんか」と温かい言葉をかけてもらいました。彼女の優しさに甘えて泊まらせていただきました。翌日、飛行機も再開し、彼女は松山行きに搭乗できました。

 1週間後、彼女から連絡があり、病院に到着したときにはお母様はもう意識がない状態で、しばらくしてお亡くなりになったそうです。

 震災からもう1年がたとうとしています。その後、彼女はお元気なのかいつも気になっています。そして、あの状況の中で私に温かい言葉をかけてくださったことに感謝しています。人の温かさを彼女から教えていただきました。

 産経新聞2012年3月11日「私の3・11」第1章


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[岩手県沿岸部を走る三陸鉄道の釜石駅前で、2012年3月11日、復興を願った「釜石から復興未来ゆき」の切符が発売されました。「諦めない限り有効」の文言が心に響きます。津波で甚大な被害を受けた三陸鉄道は現在、南リアス線(釜石~盛)は全線、北リアス線(久慈~宮古)は陸中野田~小本間が不通。14年4月の全線再開を目指しています。
「寒さに身を屈めながら瓦礫の山と向き合っていて地域の人々が、列車の音に気がつくと顔を上げて右に左に手を振る光景があった。三鉄(さんてつ)は、悲しみを抱えて明日さえも見えなかった人々にとって、あの惨劇から日常の戻る証しだったんです」(「SAPIO」2012/4/4号より三陸鉄道社長・望月正彦氏の言葉)]


【思いは東北へ飛んでいった】

 大阪府藤井寺市、草村克彦さん(55)

 あの日、私は奈良県におひなさまを見に行っていました。帰宅すると信じられない光景がテレビで流れていました。

 原子力関係の仕事に長く携わったため東北に多くの友人や知人がいました。「一番困っているところに、たとえわずかでも確実に届く募金にしたい」と知人に訴え、4月29日に奈良県五條市の民俗資料館でのチャリティーライブ開催にこぎ着けました。

 募金先は三陸鉄道に決めました。汽車の走る姿は子供からお年寄りまできっと地元を元気づけると信じたからです。会場入り口に募金箱を置き、音楽家がボランティアで歌いました。不便な場所のため決して多くの観客ではありませんでしたが、思いは東北に飛んでいったと思います。

 福島県いわき市の知人は「ありがとうね。遠いところで応援してくれている人がいることをうれしく思いますよ。俺たちも頑張らないと」と言っていました。

 これからもおひなさまを見るたびに、あの日のことを思い出すでしょうし、逆に忘れてはいけないと思います。そして、春は必ず来るということも。

 産経新聞2012年3月11日「私の3・11」第1章


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[遠藤未希さん、三浦毅さんなど多くの職員が犠牲となった南三陸町の防災庁舎]

【いつか「未希神社」で……】

 横浜市、河野博之さん(47)

拝啓 遠藤未希様

 突然のお便りに驚かれたことと存じます。親子ほど歳が離れた面識もない若い女性にいきなり手紙を出す失礼をお許し下さい。

 あなたが津波に呑まれて間もなく1年となります。記事に接するたび切ない気持が胸にこみ上げてきます。目頭が熱くなり嗚咽をこらえられなくなることもあります。

 どこにでもいる今時の女性があの場面で取られた英雄的行動に敬意を払います。迫りくる津波を背にさぞ怖かったでしょう。

 こんな元陸軍の兵隊さんの話があります。

 「戦争に行く前は自己中心的でわがままな人間でな、死ぬのだって絶対に嫌だった。…でも実際に戦地で敵の弾が飛んでくると、まるで自分の背後に両親や多くの日本人がいるような感覚になった。自分がこの弾を体で受け止めて家族達の命が救われるならば、死んでもいい、代わりに死ねて嬉しいとさえ思ったんだよ

 未希さんが防災庁舎から懸命に避難を呼びかけている時の心境はきっとこの兵隊さん達と同じだったんだろうなと想像しています。

 私が同じ立場に置かれたときに同じように我が身を犠牲にしてでも隣人、社会そして国家に尽くせるかどうか自信はありませんが、心構えだけでもそうありたいと考えています。

 お父様、お母様、そしてご主人も未希さんに先立たれて悲しまないはずはありませんが、きっと誇りに思ってくれています。そして地元の方々も。あなたのことは永遠に語り継がれることでしょう。

 今回の震災で公のために命を捧げられた方々のために神社ができてもおかしくないですよね。殉職された方は多数おられますが、未希さんがやはりシンボル的存在です。「未希神社」なんてどうでしょうか。未来への希望を願う神社です。神社に未希さんのお名前を付けても、一緒に亡くなった消防団の方も警察官の方も誰も「不公平だ」なんてつまらない文句をおっしゃりませんよ。

 近いうちに南三陸町の防災庁舎跡地を訪れたいと願っています。そして、いつか「未希神社」で未希さんの魂と会話ができればと願っています。

 最後になりますが、我が国の行く末をお守り頂くよう、既に神となられた未希さんにあらためてお願いして筆を置きます。

 敬具

 産経新聞2012年3月12日「私の3・11」第2章(ネットにソースなし)


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[福島県大熊町にて]

【今度は私らが恩返し】

 福島県いわき市、菅野豫さん(86)

 昼の食事が終わってから新聞に目をやっているとガタガタガタガタと揺れが来た。息子家族が風呂に入りに来る日が続いて3日目の夜、息子が「放射能が危ない、避難だ、避難だ」と慌てだした。防寒具、お金だけを持って車3台で関東に向かった。成田から那覇についたのは3月15日。観光案内所で安い宿を予約してもらった。

 宿代を支払うとき、半額を返してくれたので訳を尋ねると、「私は阪神大震災に遭いました。あの時たくさんの人々に助けてもらったのです。今度は私らが恩返しするときです」。ぐっとこみあげて胸が締めつけられる思いでした。

 放射能の心配が薄らいだころ帰宅しましたが、この災害の様子を私なりに子孫に伝えることは、「油断大敵」の意を少しは裏づけることになると思います。

 産経新聞2012年3月12日「私の3・11」第2章


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[2012年3月10日、南相馬市で行われた慰霊祭でお経を唱える僧侶]

【義母の遺体を守る 妻と頑張った】

 福島県三春町、過足好一さん(61)

 3月11日は妻の母が亡くなっていたので田村市の妻の実家におりました。午後2時46分に大地震が発生して義母の遺体を守るのに妻とがんばりました。まさか原発にまで被害があったと思いもせず、わが家に帰宅すると87歳になる母が「郡山で仕事をしていた消防団員の長男が火の始末に帰ってきて母のために電気ごたつを用意して行った」と話をしました。

 14日の葬式。妻の兄弟たちの緊急避難、またガソリンを4時間待って入れたことを思い出します。

 今も私たちは放射線を浴びて生活していますが、三春町から出るわけにはいきませんので、日本人としての矜持を失わず、三春で生きていきます。

 凛として
   三春生まれと
      胸を張る

 産経新聞2012年3月12日「私の3・11」第2章


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[2012年3月10日、石巻市駅前にぎわい交流広場で開催されたイベント「鎮魂の夕べ」では、献花台の前で祈りを捧げる人の姿が多く見られました]

【生きていてくれ】

 茨城県石岡市、河野龍介さん(59)

 ちょうどその日は私の38年間勤めた職場の送別会の日でした。午後6時からの送別会に出席すべく家でくつろいでいた午後2時46分、激しい揺れに突然襲われました。まさかこの日が宮城県山元町に居住する姉夫婦の命日になるとは思いもよらなかったのです。

 震災から4日目に姉の長男にようやく連絡が取れ、姉夫婦が住んでいた家は「土台を残し何もない。両親に連絡がとれず安否が確認できない」との悲痛な電話でのやりとりでした。

 姉の自宅に向かいましたが、常磐線山下駅近くの踏切には上野方面に進路を向け貨物列車が停車しており、貨物部分は脱線、転覆し水田に転落している車両も見えた。周辺の家屋は屋根まで津波が襲い2階部分まで壁がえぐり取られ、家の内部が見える状態です。

 「生きていてくれよ」の願いをかき消すように姉夫婦の住んでいた家は基礎を残し跡形もありません。そのとき姉の次男が遠く離れた水田を指し、「お母さんの車だ」と大声を発したのです。

 「中に避難していてくれ。生きていてくれ」と願いつつ、用水路を飛び越え、ぬかるむあぜ道を駆け寄るとフロントガラスが割れ、屋根やドアが押しつぶされた無残な状態の車だったのです。私は警察官としての経験から生存確率は極めて薄いことを感じていました。

 それから10日ほど経過した3月28日。私の59歳の誕生日で38年間勤めた警察官最後となるべき退官の日でした。お別れのあいさつを済ませ、自宅に戻った夕刻、宮城の姉夫婦の長男から「お母さんの遺体が角田の安置所で見つかった」との連絡でした。しばらくして震災から100日目に義兄らしき遺体が発見され、DNA鑑定の結果、義兄と確認され、2人一緒の仙台市の寺院での葬儀ができたのです。姉は私の誕生日に、義兄は震災から百か日目に遺体が発見されました。2人の遺体はそれほど離れず発見されたようです。

 この震災では特に遺体捜索でお世話になった自衛隊そして警察、消防、ボランティアのみなさまの活躍には頭が下がる思いでした。

 岩手県雫石上空で発生した全日空機と自衛隊機の空中衝突事故を思いだしました。私は当時、自衛隊員として乗客乗員の遺体収容に携わり、警察の検視チームは腐敗臭の漂う部屋で遺体の検視部分の縫合など死者や遺族に礼を失することなく、遺族へ遺体を引き渡していました。

 震災でも、献身的に活躍する人の心は、なにひとつとして変わっていなかったのです。日本人の心たる「絆」は脈々と受け継がれていたことがせめてもの慰めとなりました。東北の人々は絆を合言葉に復旧復興に向けて前進しているはずですし、春が芽吹きとともに必ず訪れるように復旧復興も必ずや果たせます。

 犠牲となった御霊に合掌

 産経新聞2012年3月12日「私の3・11」第2章


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[宮城県石巻市に転がる缶詰の塗装が施された巨大なタンク。市内の水産加工会社の工場から流出しました。会社側は「震災の象徴でもあり保存したいが『恐怖がよみがえる』という話もあり、300メートル離れた会社敷地内に運ぶ予定」とのことです]

【揺れる東京駅 不安な9時間】

 栃木県那須塩原市、吉田美佐子さん(57)

 あの日、横浜に住んでいる娘と孫が熱を出し3日間看病をして家に帰る途中、東京駅ホームで地震に遭いました。9時間近く不安な時を過ごしました。携帯の電源が切れ、連絡が取れないでいたところ、20代の女の子が声をかけてくださり30分くらい充電してくれました。

 それから何十回も東京にいる長男にメールを送り、やっと午前0時ごろつながりました。東京駅近くに職場があり帰れずに待機していたので歩いてきてくれて会うことができました。長男夫婦の家に3時ごろ着きました。テレビをつけた瞬間、目を疑うような映像が次から次へと映し出されていました。震えが止まらなかったことを今でも覚えています。

 3日後、宇都宮までくることができ車で主人が迎えに来てくれて自宅に帰ることができました。

 あのときに充電してくれた女の子。サンドイッチ、おまんじゅうを分けてくださった人たち。たくさんの人に声をかけてもらい、どれだけ心強かったか。本当にありがたかったです。みんなで途切れることなく、なぜ今ここにいるのか状況を話し合っていました。何か話していないと不安で仕方がありませんでした。

 あの日あの場所でかかわった人たちを忘れることができません。本当にありがとうございました。

 震災に遭われた皆さま、頑張りすぎないで一歩一歩前に進んでください。東北大好き。今年も観光に出かけます。

 産経新聞2012年3月13日「私の3・11」第3章


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[岩手発 震災復興ポスター。キャッチコピーにはこうあります。「一緒に悲しむことよりも、あなたの仕事を一生懸命やってほしい。それが沿岸を、岩手を元気にする力になると思うから」。ポスターは他にも様々なバージョンがあります。公式サイトはこちら→「復興の狼煙」ポスタープロジェクト

【必ず人は立ち上がれる】

 静岡県御殿場市、加藤伸子さん(64)

 今は何もできず祈るしかない日々。自然の中の小さな島国の日本。あっという間の何が起きるかわからない災害。緑も人も山も川も全くない。でも、空だけは広く青く果てしない。

 記憶から消えない3・11。消さなくてもいい、止まっていてもいい、泣き叫んでもいい。でも必ず人は立ち上がれるものだと思う。東北のじょっぱりの人々は絶対に故郷を守り、作り上げていく。東北人の心意気を見せてくれる日が必ず来る。

 忘れられないこの3・11という数字。風化してはいけないこの想い。神は乗り越えられない試練は与えないという言葉を信じよう。

 産経新聞2012年3月13日「私の3・11」第3章


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[福島第一原発で活動するハイパーレスキュー隊]

【母から息子への手紙】

 福島市、菊地孝子さん(68)

 お母さん、行って来るからとの一方を受けた時は真っ白になった。あまりにも唐突で、気持ちの整理もままならぬ中、頑張ってきなさいと言うしかなかった。本当は放射能の中への突入なんてあり得ない、やめてって叫びそうだった。東京消防庁への道を選んだ時、反対しとけばよかったとさえ思った。これって、お母さんのエゴなのでしょうか。

 テレビにくぎ付けの一日の何と長いこと。無事であることを祈るばかり。そう言えば謙はどら焼きが好きだった。忙しくてしっかり抱っこもしてやれなかったなどなぜか遠い昔のたわいもないことがどんどん駆け抜けていった。

 「ミッション達成」のメールが届いた時は涙が出てしまった。20ミリシーベルトの放射能を浴び、決死の覚悟で任務に挑んできた一員として、自信にあふれたあなたの姿こそ、お母さんの誇り。お疲れさまでした。

 (追伸)浴びるほど飲ませっつお、待ってろ。ってお父さん言ってた。

※これのみ引用元は産経ではなく【日本人の底力 東日本大震災1年の全記録(産経新聞社)】です。
※孝子さんの長男で、東京消防庁の消防隊員の謙さんは、ハイパーレスキュー隊員として、福島第一原発3号機の原子炉冷却の任務に向かいました。到着したのは3月18日午後11時頃。謙さんは中隊長として、隊員の被曝管理と安全管理を担当しました。長時間、車外に出ての活動で、放射線量測定器は鳴り続けていました。作業が終わったのは翌19日午前4時。午前4時半頃、孝子さんのもとに謙さんから「ミッション達成」とメールが届きました。孝子さんが謙さんに宛てたこの手紙は、福島県猪苗代町の「母から子への手紙コンテスト」で大賞に選ばれました。


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[3月11日、政府主催の震災1周年追悼式。祭壇に向かって黙とうされる天皇皇后両陛下。心臓手術から間もない天皇陛下が壇上でバランスを崩されるなどの万一の事態があった場合に、とっさに対応しやすいという理由で、皇后陛下は和服(喪服)で臨まれました。ハイヒールは足元が安定しないため、洋装をやめて草履をはく和装にされたそうです]

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 以上です。

 私が一番心に残ったのは、遠藤未希さんに宛てた河野博之さんの手紙です。
 最初に読んだ時、涙が溢れてきて仕方ありませんでした。
 Sankei Webには載っておらず、こちらで紙面を見ながらテキストを打たせていただいたのですが、その作業中も胸がジーンとなり、何度も指が止まってしまいました。

 この産経新聞の特集は、3月11日~13日の3日間、それぞれ紙面1ページを使って掲載されたもので、全てを引用するとかなりのボリュームになります。
 よって、今回は私の独断でピックアップさせていただきました<(_ _)>

 全てお読みになりたい方は、以下のリンクからお願いします。
 但し河野博之さんの手紙のように、紙面のみの掲載でWebには存在しないものもあります。
 産経新聞2012年3月11日「私の3・11」第1章
 産経新聞2012年3月12日「私の3・11」第2章
 産経新聞2012年3月13日「私の3・11」第3章

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 最後に番外編!!(^o^)
 
 3/17付:【東日本大震災-11】外国人から見た日本と日本人(33)で私は、がれき受け入れ拒否問題について私見を述べさせていただきました。
 その記事のコメント欄にいただいた、げんた様のメッセージです。

宮城県石巻市大川地区に住む者です。最近このサイトを知り、日本って世界から愛されているんだという事が良く分かりました。貴重な情報を発信して戴き、大変ありがとうございます。

想像を絶する巨大津波で壊滅的な被害を受けた我が家も、多くの皆様の義援金や支援金の一助があったお蔭様でリフォームに踏み切る事ができました。義援金を寄せられた皆様には感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。m(_ _)m

震災直後の被災地では食料を分け合ったり、着る物を貸しあったりとかは普通で本当に皆が助け合っていました。汚染されてもいない瓦礫の受け入れ拒否の報道は見るたびに悲しくなります。反対される方々の真意が理解できかねています。
国境を越えた国内外からの支援に、私たち被災者の中には感謝の気持ちで涙を流す人さえいました。瓦礫受け入れ反対はその対極にあるようにさえ感じられます。


目に付く所から瓦礫は無くなり、精神的には楽になりましたが、集積場に集められた瓦礫は車、木材、金属のそれぞれの「山」を形成しています。そしてそれは全く減っていません。全国の皆様のご理解と支援を切にお願い致します。m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m

げんた | 2012/03/18 11:57 PM

 げんた様のサイトの、「2011年 3月11日 東日本大震災 〜断絶の日常〜」は、外から報道などを見ているだけではなかなか分からない被災地の生の様子を体感できる、大変貴重な記録です。皆様、ぜひ一度ご訪問下さい!

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 この画像は、げんた様のサイトから転載させていただきました。
 昨年5月、げんた様のご自宅(リフォーム前)の庭に咲いた八重桜です。
 3週間以上、塩水に浸かっていたそうですが、植物の生命力はすごいですね。
 人間もきっとそうです。必ず立ち直れます。私はそう信じます。

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※拙ブログ関連エントリー(震災関連から抜粋)
11/4/2付:天皇皇后両陛下が避難所ご訪問 このような方々を戴けた日本人の幸運
4/4付:独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた
4/23付:画像で見る東日本大震災 - 希望 -
5/2付:3月11日に天皇皇后両陛下がなされた事
5/21付:-言葉の力 - PRAY FOR JAPAN&朝日新聞縮小版東日本大震災
6/18付:保守系識者諸氏が見た震災(2)
9/10付:自衛隊を鼓舞した被災地の子供たちの手紙
9/20付:後世へ残したい!陸前高田の女子高生の震災体験談
12/3/12付:震災1年で陛下のお言葉…これからも被災地に心を寄せていきましょう

※拙ブログ関連エントリー(「外国人から見た」シリーズより震災関連)
11/3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22)
3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23)
3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24)
4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25)
4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26)
6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27)
7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28)
8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29)
10/18付:【東日本大震災-9】外国人から見た日本と日本人(31)
12/1/7付:【東日本大震災-10】外国人から見た日本と日本人(32)
12/3/17付:【東日本大震災-11】外国人から見た日本と日本人(33)


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1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2013/01/13(日) 16:57:09.96 ID:DIWasL3RT● ?PLT(18802) ポイント特典こんな奴らが日本を守れるはずがないよな

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