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河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱

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【中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員(左)との会談後、贈り物を交換する河村たかし名古屋市長=20日午前、名古屋市役所(北海道新聞)】

 名古屋市の河村たかし市長の南京事件をめぐる発言が問題視されていますね。
 何が問題なのか、私にはさっぱり理解できませんが。

 おさらいしておくと、問題にされたのは河村市長が2月20日、名古屋を訪れた中国の南京市訪問団(名古屋市と南京市は姉妹都市関係にある)との面談で発言した内容です。

 河村市長は、南京で終戦を迎えた父親が南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたことなどを話し、その背景について「南京事件はなかったのではないか」と述べました(産経【主張】2012年2月24日付「河村氏の南京発言 これで問題視されるとは」)。

 河村市長はお父さんの体験から、「南京大虐殺」などなかったと直感的に感じ取ったのですね。
 このあたり、当時の空気を知る渡部昇一さんや鈴木史朗さんの証言に通ずるものがあります。
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 渡部昇一さんの証言(「WiLL」2007年4月号)。

【当時は、たくさんシナから帰ってきている兵隊さんがいるわけです。
 私の同級生で若松さんという女の子がいて、彼女のお父さんは将校でしたが、この人がシナ事変でシナの軍旗を奪取してきたというので、学校で見せてもらったりしました。
 シナに出征した軍人は、帰ってきたのです。
 しかし、「南京大虐殺」があったような話を聞いたことがない

【ミッドウェーの敗戦です。あれは海軍当局が完全に隠していたはずですが、ちゃんと情報が漏れていた。私の住んでいる辺りは、トップレベルの極秘情報が漏れてくるような場所じゃないにもかかわらずです。
 ここでおかしいと思うのが「南京大虐殺」です。
 先に述べたように、シナ事変に出征した人たちは、私の周りだけでも何人も帰ってきています。しかし、誰一人として南京での大虐殺の話などしていません。これはおかしいですよね。
 ミッドウェーの敗戦で航空母艦が沈んだことは海軍は徹底的に隠して、あの時、負傷した人たちは病院から出さなかった。それでも、情報は漏れてきたんです。しかし、南京で大虐殺があったなどとは、誰も話していませんでした


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 鈴木史朗さんの証言(「WiLL」2011年4月号)。

【TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。
 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。
 さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです



 「『南京大虐殺』はなかった」というのは河村市長の昔からの持論です。

 例えば、民主党議員時代の平成18年には「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出しています。
 そこでも河村市長はお父さんのお話を導入しつつ、「南京事件について再検証すべきではないか」「正しい相互理解をふまえた真の日中友好を促進したい」と述べています。

 そういう経緯があったので、私は河村市長の今回の発言には特に驚きませんでしたが、世の中(というか中国と日本の一部のみ?)はかなりの騒ぎになっていますね。
 民主党の一議員だった頃とは違い、今は名古屋市長という立場だからこそなのでしょうが。

 南京市は河村市長の発言に抗議して交流停止を発表しましたが、南京市側の対応を時系列で見るとちょっと奇妙ですね。

 というのは……
 市長発言の前に南京市を訪問し、南京事件についての議論を呼び掛ける市長の親書を渡した市議が「その時は『議論するのは結構だ』と言われたのに、いきなり交流停止になるのは残念でならない」と、南京市の対応を疑問視しているのです。

 親書を手渡したのは藤沢忠将市議(自民)と山本久樹市議(民主)で、2月7〜9日に南京を訪問。
 市の担当者らとの面会で「南京事件について考え方に違いがある。友好親善を図るためにもぜひ意見交換したい」と提案、河村市長の親書を渡したそうです。
 すると、南京市側は「我々の認識が間違っているとは思わないが、議論は大いに結構」と和やかなムードで答えたんだそうです。

 河村市長はそのやりとりを踏まえて20日に「南京事件はなかったのではないか。いっぺん討論会を開きたい」と発言したわけです。

 藤沢市議は「こちらは両市が未来志向でやっていく前に一度議論しましょうと言っただけ。一方的に友好ストップというのは残念」と話し、山本市議も「話が違うという印象で、議論さえダメというのはおかしい」と話しています(以上、毎日新聞2月24日付)。

 それはそれとして、私が腹立たしくてならないのは、河村市長が外(中国側)からだけでなく、内(国内メディアや日本政府や愛知県知事)からも攻撃されていることの理不尽さです。
 今のところ、河村市長を明確に援護しているのは東京都の石原慎太郎都知事、日本創新党の山田宏党首ぐらい?

 あと、中共の反論の内容については、もう腹が立つのを通り越して脱力しますね。
 河村市長の発言について、中国外務省の報道官が「南京大虐殺は日本軍国主義が中国侵略戦争中に犯した暴虐な罪だ」とか「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」とか言ってたでしょ?
 あの人たち、いっつもこれしか言わないんですよ。もう決まり文句。

 例えば、2003年に自民党の江藤隆美氏が「南京大虐殺30万人などというのは、あれはでっちあげのうそっぱち」と発言した時も、全く同じ反論をしてきました。
 曰く「南京大虐殺は日本の軍国主義が中国侵略戦争中に犯した残虐な罪悪行為であり、動かぬ証拠がある」。

 「動かぬ証拠」があるなら見せて下さいよと思うんですが、見せてくれたためしがありません。


 とにかく頑張ってほしい河村市長。
 現時点では発言の撤回や修正には応じないとしているようですが、中国の旅行社が日本ツアーを一時中止するなど経済面で影響も出始めているようですし、今後ますます批判が強まると屈してしまわないかしら?と心配です。

 皆さん、河村市長に激励メッセージを送りましょう。

名古屋市役所 市長室 秘書課 秘書係
 電話番号 052-972-3054 
 ファックス 052-972-4105
 メール a3054@shicho.city.nagoya.lg.jp

名古屋市政へのご意見(500文字以内)
https://koe.city.nagoya.jp/kn3/USER/?hid=cbf5da8413c0a13fcfa0fffeaace9bca

名古屋市民の声を届けるメールアドレス
shimin-no-koe@shiminkeizai.city.nagoya.lg.jp


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 南京事件について考える際には、まず大前提として支那軍や支那人の特徴を知っておく必要があります。
 それを知らないと南京事件の真相はなかなか見えてこないと思います。
 (ちなみに当時の中国に統一国家はなかったので「支那」と表現するのが妥当です)

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 アメリカの外交官で支那に駐在したラルフ・タウンゼントは、支那人の特異性が現れた事件や出来事をいくつも見聞きし、それを著書「暗黒大陸 中国の真実」(昭和8年(1933年)発行)にまとめました。
 そこには支那人が在留外国人に対し、略奪、暴行、陵辱、拷問、焼き討ち、虐殺を繰り返した様子が記されています。

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 昭和12年(1937年)、支那事変で「強制徴用」された支那人青年の陳登元は、軍での体験を小説という形で「敗走千里」という本にまとめました。
 自国民に対して掠奪や暴行を繰り返したり、軍から脱走することしか考えていない支那兵らの実態や、ついには自らも脱走して便衣兵(≒ゲリラ)となった体験が生々しく綴られています。
 なおこの本は昭和13年3月に日本で出版されましたが、戦後GHQにより“焚書”となっています。

 他に、これは最近の本ですが、林思雲氏と北村稔氏の共著「日中戦争〜戦争を望んだ中国、望まなかった日本」でも、支那の「徴兵」について述べられています。
 支那兵はほとんど全員が文盲であり、軍事訓練を受けたものは少なく、強制的に連れてこられた農民たちがほとんど。徴兵といっても通行人を拉致するか、人買い組織から壮年男子を買い入れて充足すればよいのが普通で、彼らは当然ながら機会があれば逃亡しました。


 以上を踏まえて……
 さて実際、南京戦で支那兵らはどういう行動を取ったのでしょうか。

 日本軍がいきなりダーッと南京城内に攻めてきて支那軍は大慌て?
 支那兵だけでなく一般市民も巻き込まれて多くの死者が出た?
 支那兵らも果敢に応戦したんだけどやがて敗走?
 ……というイメージを持っている人もいるかもしれません(すみません、大昔の私がそうでした(^^ゞ)。

 だとしたら、入口の時点で間違ってるんですよね。
 事実はこうです。

 まず、日本軍は昭和12年12月9日までに南京城を包囲し、松井石根大将は支那軍に対して翌10日正午を期限とする投降勧告を行いました。
 いきなり攻撃したんじゃなく、事前に通告したんですね。
 戦闘になれば両軍、多大な死傷者が出るでしょうから、できれば平和的に明け渡してほしかった。当然ですね。
 
 そして、この時にはすでに南京市民のほとんどが、在留外国人や一般市民に被害が及ばない「安全区(安全地帯、難民区とも言う)」と呼ばれる中立の地域に避難していました。

 というのも、12月8日の時点で南京防衛軍(支那軍)司令官の唐生智から「全ての非戦闘員は国際管理の安全区に集結しなければならない」という布告が出ていたのです。また、特別許可がない限り安全区外への非戦闘員の移動は一切禁じられていました。

 「安全区」について補足しておくと……

 これを設置したのは南京安全区国際委員会。

 この年の11月中旬頃から、アメリカの宣教師を含むルイス・S・C・スマイス、マイナー・シール・ベイツが中心となり、安全区を作って非戦闘員を収容しようという計画が検討され、その実現を目指して結成された組織です。委員長はドイツ人商社員のジョン・ラーベでした。

 日本軍が近付いてくるにつれ、南京の行政府の文官までもが逃走したため、以後の南京市民の安全は、彼ら外国人による国際委員会に委ねられていたのです。

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【当時の南京市及び南京城、城外の地図。「南京大虐殺はウソだ!」様より拝借。「難民区」と書かれてあるのが「安全区」】

 ……さて、支那軍(国民党)トップの蒋介石はというと、何と12月7日の時点ですでに自ら制定した首都・南京から脱出していました。
 市民よりもうんと早く、部下や兵士も放置して自分だけ逃げたんですね。

 後を任されたのが唐生智ですが、この人は投降勧告に応じませんでした。
 そして日本軍は通告通り、10日より総攻撃を開始。
 司令官の唐生智は踏ん張ったかと思いきや、何とこの人も12日夜、激戦の最中に逃亡してしまいます。

 唐生智は逃げる際、全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令し、また、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令し、兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけました。

 さらに、長江への逃げ道になる南京城の●江門(●=手ヘンに邑。以下「●江門」と表記)には督戦隊、すなわち、命令なしに逃げる味方の兵に攻撃を加えて強制的に戦闘を続行させる任務を帯びた部隊を置いていきました。

 唐生智は、要するに統制のない無秩序な状況を放置したまま南京城を脱出してしまったのです。

 その後も散発的に戦闘は続きましたが、12月13日の朝、南京は陥落しました。

 日本軍によるいわゆる「虐殺」は陥落後の13日から行われたとされていますが(東京裁判の判決や南京大虐殺紀念館ではそうなっている)、実はそれ以前の12日午後から夜にかけ、支那兵の脱出路となった中山路から●江門、下関、揚子江に至る地域ですでに惨劇が起きています。
 これら南京城北部では無数の支那兵が射殺されたり、あるいは焼死、溺死していたのです。

 もちろん日本軍によるものではありません。
 唐生智がちゃんと後始末をせずに逃げたことによる支那軍の混乱から発生した惨劇でした。

 悪名高いアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」さえも無視できなかったその実情を、同書(ペンギン・ブックス)から引用します。

退却命令は支那軍を大混乱に陥れた。
 将校の中には、市中をめくら滅法走り回り、行きかう者誰にでも出て行くよう言う者がいた。言われた兵士は逃げた。
 誰にも、自分の部隊にも言わない将校もいた。代わりに、彼等は自分だけ助けたのである。
 彼等の兵士は日本軍と戦い続けた。他の軍服姿の部隊が逃げるのを見て集団脱走と考え、それを止めようと逃走する同輩を何百人も機関銃で倒した。
 急いで混乱しながら町を抜け出す騒ぎの中で、少なくとも1台の戦車が邪魔になる中国兵を数知れず下敷きにし、手榴弾で爆破されてやっと止まったのだった。

[中略]日本軍に遭遇することなく安全に町から出る方法が一つだけあった。
 揚子江の北港を通じてで、そこにはジャンクの一群が早いとこ辿り着ける人々を待っていた。
 兵士たちは先ず中山路の大動脈を上り、水門と呼ばれる町の北西の門(●江門)をくぐって、初めて下関郊外の北港に入ることが出来るのだ。

 夜が更けるにつれて、兵士たちは自分たちが渡ることに焦点を絞り、戦車や装備は破棄した。船が少なくなると、様相は凶暴性を帯びた。
 ついには数万人が2、3隻の船を争って、自分が乗ろうと戦い、あるいは空砲を放って他人を除けようとした。
 船員たちは怖がってジャンクやサンパンの船縁にすがりつく兵士の指に斧を振り下ろして押し寄せる暴徒を追い払おうとした。
 川を渡ろうとして数知れぬ人々が亡くなった。門を潜ることも出来ない人々も多かった。

 その夜、中山路で火事が発生し、炎は弾薬の山を舐め尽くし、家々と車両を飲み込んだ。交通に巻き込まれた馬が狼狽して逆立ちとなり、暴徒の混乱を増幅した。
 恐れおののく兵士たちは前方へと波を打ち、その勢いで数百人を炎へ押しやり、さらに数百人をトンネルへ追い込んだが、その多くはそこで他人に踏みつぶされたのだった。
 門が閉じられ、大火災がすぐそこに迫り、暴徒から抜け出せた兵士たちは壁を登って越えよう、と殺到した。数百人が洋服を裂いて紐にし、ベルトやゲートルとなって縄梯子を作った。
 一人、また一人、彼等は胸壁をよじ登り、ライフルや機関銃を欄干から落とした。転がり落ちて死んだ者が多かった】


 アイリス・チャンは、このように支那軍の混乱振りを非常に詳しく書いています。

 南京陥落後に発見されたこの一帯の多数の死体は、日本軍に「虐殺」されたのではなく、統制を失って混乱した末に死んでいった哀れな支那軍兵士のものだったのです。

 そしてこの混乱時、群集の中に一般住民は一人もいなかったことも、この文章で明かされています。チャンはこの混乱した人々を“officers, soldiers(将校、兵士たち)”としか書いていません。

 この混乱の最中に、下関に日本軍の別の隊が到着します。
 支那兵は彼らを攻撃します。日本兵も応戦します。そこでさらに支那兵の死傷者が出ました。
 もちろんこれらは兵士同士の撃ち合いで通常の戦闘行為ですから、国際法に違反はしていません。「虐殺」ではありません。

 また、スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・M・ケネディ氏も、「アトランティック・マンスリー」98年4月号への寄稿の中でこのように記しています(「諸君!」98年8月号に塩谷紘氏の訳で転載されたもの)。

南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。

 何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。

 さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。
 彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。
 軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。

 12月13日、信じ難いほどの混乱現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった】


 民間人の服を奪って民間人を装って逃げる(便衣兵)。自分が生き延びるためには民間人襲撃も友軍殺しも厭わない。
 日本人から見れば「卑怯」「野蛮」以外の何物でもない、それが支那兵の実態です。
 下っ端の兵だけでなく、将校までもがそうなのです。

 このような大混乱があった一方で、同じ12月13日朝の何とものどかな南京の風景を、安全区にいたあるアメリカ人が手紙に残しています。
 それは先ほどちらっと紹介したスマイスです。彼は国際委員会の事務局長で、日本軍や日米両大使館への文書発行の責任者でした。

 スマイスは、南京陥落の13日の午前6時頃から8時過ぎまで、単独で安全区の中やさらに南の方面を巡回しました。
 ところが、これらの場所は北部とは違って人々の混乱はありませんでした。

 スマイスは12月20日付への家族への手紙で、次のように書いています。

【(12月13日、月曜朝)寧海路(注:国際委員会の所在地)に戻る途中の我々の安全区を示す旗の位置が間違っていることを人々に告げて直させた。
 金陵女子文理学院の近くで、道路に脱ぎ捨てられた軍服があったので、警官らに言ってそれを安全区の外に捨てさせた。帰宅したのは8時15分にもなっていた!
 仲間は朝食を済ませていたが、私はそれから食事した。彼らは外がとても平和だったことを喜んだのである


 スマイスの12月20日付の手紙には、このような記述もあります。

【(12月13日、月曜朝)家(宿舎)へ戻る途中、(午後)1時に日本兵が漢中路に到達しているのを見付けた。我々は車でそこへ行き約6名の小さな分遣隊に会った。それが最初だったが最後ではなかったのだ。上海路と漢中路の交差する角で、彼らはバスを調べていたが、人々を傷つけることはなかった

 日本軍の攻撃は13日早朝まで続きましたが、城壁が占領され、支那軍が退却していなくなったあとの安全区はまことに静かになっていたことが分かります。

 さらにこれはスマイスが同じ年の大晦日に書いた妻への現況報告。

最も深刻な事態の様相として、我々が適当で速やかな解決策を見いだせない一つは、この20万人の社会に経済基盤が無いことである。彼等が日本陸軍から米を買えば、彼等の金は干上がって戻ってこない。唯一の還元路は、まだそれほど多くはないが、日本軍に雇われた苦力達が僅かに得る金と、水道、電力会社に雇われた少しの人々の金だけだ。他には農民達が大地から僅かに得る収入しかない。或いは人々が市中の安全区以外の地域から見つけるか盗んでくる物なのだ。
[中略]道路ぎわの小さな露天商達がうまく商売しているのは注目すべきことだ。小さなリスクで大きく儲け、毎日商売に励んでいる。商品は多彩だ。我々は今、それらのあるものは安全区外の焼却が進んでいるところから盗まれてきたのではないかと疑っている】


 陥落から約2週間を過ぎたこの頃のスマイスの関心事は、難民(支那人)の生活基盤が脆弱なことでした。
 難民の「虐殺」「強姦」の目撃談など1件も書いていません。
 そして難民が略奪をしていると指摘しています。

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【昭和12年12月20日 南京住宅街にて朝日新聞林カメラマンが撮影/日本兵と共に玩具で遊ぶ支那の子供達/画像ソースURL

 また、ミニー・ヴォートリン(ボートリン)という南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)は、金陵女子文理学院理事会に提出したリポート(表題には1938年(昭和13年)1月14日から3月31日とある)の中でこう記しています。

【より貧しい人々は寝具や小銭さえも盗まれ、安全区にあってとても安全だった裕福な家の敷物やラジオや家具も盗まれつつある。私達は、12月17日頃から1月17日迄(この日に私は最後の火事を見た)のような大規模な焼却は見ない。
 現在の最も大きな悩み事は、「老百姓」即ち普通の人々による略奪が続いていることである。法も秩序も無いこの市のなかで、貧しい無法者は、どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている。旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
 ここ数日間、私は良質の戸と窓が売られているのを見たが、それは破壊が進んでいることを意味している。当然、私の中国人の友人はこの件に心を痛めているが、どうすることも出来ない】


 (ちなみにヴォートリンが教鞭を執っていた金陵女子文理学院に関しては、12月17日に日本兵が侵入して避難していた難民女性を多数強姦したと中国側が主張しており、南京事件の映画では必ずこの描写を盛り込みますが、それが事実ではないことはヴォートリンのレポートの別の箇所に示されています。これについてはまた別の機会に…)

 このように、ヴォートリンも略奪の犯人は難民(支那人)であると記しています。
 そしてやはり「虐殺」「強姦」の目撃談などは書いていません。
 (難民の死体が漢中門付近で野ざらしになっているとの伝聞は書き留めていますが、この噂の出所は「処刑から逃れて帰ってきた」という男の話を聞いたというベイツからの又聞きに過ぎません)

 ところが、ベイツ(彼は蒋介石政権の顧問でもあった)は、東京裁判の法廷で、日本軍が残虐行為を働いたと主張しています。

 「安全区とその近辺で12000人の男女及び子供が殺された」
 「日本軍将校と下士官は、3週間もの間、連日安全区に侵入し、難民の中から兵士だったと見なされる者を拉致し、殺害した」
 「日本兵達は毎晩強姦する相手を探して回り、8000人の女性が被害に遭った」
 「かかる戦慄すべき暴行は3週間近く行われ、その後6〜7週間にわたって強化された」
 「占領後6〜7週間で南京市内のあらゆる建物は兵士によって略奪された」
 等々です。

 ベイツの証言は、スマイスやヴォートリンの記録とは大幅に食い違っているのが分かります。
 皆さんはどちらを信じますか?

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 上記スマイスの手紙及びヴォートリンのレポートの出典は「南京虐殺の目撃証人」“Eyewitness to Massacre”(未邦訳)という本です。
 これはエール大学神学部図書館の所蔵資料をまとめ、ニューヨークのM・Eシャープ社が1984年に出版したものです。

 私は英語が堪能ではありませんので、この原書は読んでいません。
 「正論」2012年2月号及び3月号で南京問題研究家の松村俊夫氏がこの本の内容を紹介しており、そこからの引用です。

 松村俊夫氏によれば、「南京虐殺の目撃証人」は事件当時南京に在住していた宣教師らキリスト教関係者9名が南京から避難した家族や友人へ送った手紙などが収められている、いわば宣伝目的の外部向けの文書とは異なった私的文書であり、本音が綴られた資料であるとのことです。

 なお、「南京虐殺の目撃証人」という書名とは真逆に、この本には日本軍による虐殺・残虐行為の直接的な目撃証言の記述は全くないそうです。

 「南京虐殺の目撃証人」で取り上げられている9名の中には、スマイスとヴォートリンの他に、先ほどのベイツや、自身の妻が宋美齢(蒋介石の妻)と親しい友人であったフィッチ、南京事件の犠牲者・被害者を撮影したとされる「マギーフィルム」で有名なマギーなども含まれていることを付記しておきます。

【追記2012.3末】「正論」2012年2・3月号掲載の松村俊夫氏の論文【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録】の日本文及び英文が「史実を世界に発信する会」に掲載されています。世界に拡散しましょう。


 今日は、支那軍及び支那人の特徴をテーマとしてまとめました。
 ですので、これをもってして日本軍による「虐殺」そのものがなかったと言うつもりはありません。

 そもそも南京事件の論争では、何をもって「虐殺」とするのかの定義から議論があります。
 最も死者数が多いと思われる便衣兵の扱いについても見解が分かれています。

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 現在、月刊誌「WiLL」ではジャーナリストの古荘光一氏による「誰が『南京大虐殺』を捏造したか」が連載されています。

 最初に私は、南京事件について考える際には、まず大前提として支那軍や支那人の特徴を知っておく必要があると書きましたが、古荘光一氏はもっと大きな視点から、「大きな世界史の流れのなかで見なければ、この“事件”の真相はわからない」と述べています。

 支那事変の研究はもちろん、同時にこの戦争で支那側に加担した旧ソ連、アメリカの思惑や動きを解明する必要もあるのだと。しかも、これは過去百数十年の極東の歴史をさかのぼってみなければ理解できないものなのだと。

 言われてみれば至極当然の話です。
 それだけこの南京事件(が作られた背景)には、歴史に潜む大きな闇というか、各国(各人)の政治的思惑といったものが入り乱れているんですよね。

 とにかく私もまだまだ知らないことだらけです。今後ますます勉強しないといけないと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※参考文献
・「正論」2012年2月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(上)】松村俊夫氏
・「正論」2012年3月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)】松村俊夫氏
「ねずきちのひとりごと」様>南京攻城戦~(2)城内突入
「南京大虐殺はウソだ!」様

※拙ブログ関連エントリー(南京事件)
07/3/6付:「南京大虐殺」入門の入門
 超初心者の友人のためにUPしました。
07/12/15付:新「南京大虐殺記念館」まだ30万人て言うとんのか!
 中共は「30万人という数字について、当然、根拠はある」と言いながら根拠を示さない。挙げ句に「数の問題じゃない」「30万人という数字は政治的な数字である」。
09/1/10付:日本の昔のお正月について調べてたはずが大脱線(笑)
 「大虐殺」進行中に支那の人々はこんなふうに笑えるものでしょうか?
09/4/14付:ある老兵士の孤独と嘘(細切れぼやきも)
 「朝まで生テレビ」で「南京大虐殺」体験者として出演した老兵士Aさんは、南京攻略戦のあった昭和12年12月13日には軍隊にまだ入っていませんでした。
12/17付:鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由
 「私にとって、中国は『第二の故郷』なのです。その中国の方々が、このような『嘘』を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです」

※拙ブログ関連エントリー(支那の民族性)
09/9/27付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 1937年(昭和12年)、支那事変に強制徴用で駆り出された中国人青年の体験記。支那兵が自国人に掠奪や暴行を繰り返したり、便衣兵になって逃亡したりと、とにかく野蛮だったのが分かります。
10/11/16付:尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、尖閣問題をはじめとする対中問題を考える上で役立ちそうな箇所を引用しています。
12/7付:支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、支那人の民族性そのものを理解するために役立ちそうな箇所を引用しています。支那軍によって行われた1927年の「南京虐殺」では主に欧米人が襲われ、米英の軍艦の艦砲射撃が始まるまでそれは続きました。
11/2/5付:支那五千年の殺戮の歴史の集大成「三十六計」
 支那では陰謀詭計は日常茶飯事であり、伝統的な闘争文化なのです。

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